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【短編小説】 今帰る場所 (1800字)

 遠く伸びる住宅。行儀よく並ぶ窓はこちらを映すだろうか。数多のステレオタイプに紛れて、誰の姿さえ世間に消えていく。

 分けられた。いや、自分で線引きした。
 正常、これは異常。理解可能、または不可能な領域。
 過去と現在。
「ここからは出られない」

 はぐれた後ろ姿があった。明日からは誰も顔は知らない。
 そういう人になった。

 遠くの風景で、もう届かない人として息をしている?
 過去の日々は戻れないあの頃になった?
 いつか分かるだろうか。
 この無様な反復が何を意味するか位は。

 家々を見る。
 先月から途切れた「シャバ」の道のり。どこかに行き、帰って来ること。何も叶えられずとも日々を生きる。もとより可能性の無かった、そんなか細い可能性さえ失われた。
 誰になれるわけではなかった、なりたいわけでもなかった。
 強がりではない。だが。だけど、もう何もない。

 不思議だ。喪失感はない。失うことも経験できずにいる人生。一握りも目に映るものはない。

 ノートに文字を刻んだ。一日一日、真理を発見するように。
 6月10日。「欲望さえなければ、生きられる」とある。そして、付け加えられた筆跡。「やりたい」

 何を意味するかは分からない。何を意味しないのかも。
 僕は彼に、つまり、2004年現在の、まだ希望さえ真には失っていない青年に多くを託したいとは思わない。せいぜい生きろ、と言うくらいだ。つまり、死なないでくれと、それとなく懇願した。

 6月19日。「他者と会う」
 あの季節、散歩をした。
 1週間もすれば外出が許された。つまり、それほど病状は深刻ではなかった、と示唆する。病巣は表面にしか露になっていなかった。

「サーモンピンク、ポロシャツ、大人の生活」

 散歩コースの公園。芝生が広く敷かれた。場所を特定しないため情報について多少の改竄をする。ご容赦願いたい。

 天空にある地点までは、自動のエスカレーターに乗っていく。まるで自由に歩き、息を弾ませる。歩くだけで後押しされる何か。僕がそれまで生きたどこよりも空が高く、太陽が近い。孤独だった。枷を解かれた体で雲に触った。接してみれば実体はあると分かる。
 初夏のこと。

 雲の上に体を預けた。休日、芝生に寝そべるみたいに。直射日光は目に悪い。自明のことのように光を享受していた。誰も太陽を疑わない。

 独り言は誰にも届かない。声に出して言わないし、第一、伝わらない。深い絶望というより、現実の分別を知りつつある。
 見下ろす。地上に住む人はどこかに行くのに忙しい。傍に通行人はいたが、やがて地の底に墜落する運命だと僕だけは知っていた。

 今、誰の地図にもない場所にいた。

 語りかける声。実際の声を持たぬ人は、最も近い存在。自問自答ではない、それとなく言葉を置いた。子供の頃と同じだ。声は風に消えた。

 そしてその時、迷い込んだ一人がいたってわけだ。

 出張、旅の人。仕事の合間の観光。「逆」と彼は笑った。小一時間話した。事実だ。勿論、何が嘘ってことはないけど。

 未だ若さの残る表情で、学生時代の話をしてくれた。僕はその時、自分を浪人生だと偽っていた。まだ境遇に慣れなかった。あの時分、ただ歩く人でいて、逃げて、向かった。時々、空を見上げる。

「一度、息を止めろ」と彼は言う。
「決まった時間、日々、数秒でいい、決まった間隔を」

 どんな流れでそんな話になったかは覚えていない。
 話す姿は、何かに急き立てられるよう早口で、それでいて視線は落ち着いて見えた。「二律背反」だと思ったのを覚えている。

 彼は「何か」を明かした。その時、その場所で、僕にだけ見せた言葉かは分からない。適当を話しただけかもしれない。ただ、話す相手を全うな一人と扱ってくれた。僕さえいつか、人生の成功を達成し、何食わぬ顔でそれを受け流せるように。

「息を止める」と、とても強い筆跡が残されている。
 彼は言った。「多くはまやかし」だと。
「今の自分を一瞬でも離れるんだ」
 そうできたらどんなに良いだろう。メッセージは熱く、口調は冷ややかだった。僕が求めたのは彼自身が考える要らない日常だった。

「死ぬことなく、死する」
 ページの最後を飾った文句。

 入院中、あの男の続きを自分なりに想像した。
 世の基準からすれば相当のエリートだろう。そんな人間が僕に向けて言葉を長時間重ねただけで、当時の自尊心は満たされた。愚かで、現金だ。

 死する時、息を止める。一拍の後、再び胎動する。僕は自分では死なない。強く思うまでもなく、そんなこと分かっている。特にうまく行っている場合には。

 遠くを見て、近くを気づく。生きて、描く。それをやりたい。

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