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阪神淡路大震災のボランティアを経験した大学生が いま福島で子ども支援をする理由 #東日本大震災から12年

その女性が初めて見た被災地は、阪神淡路大震災が起きた神戸だった。
当時大学生だった彼女が現地で目にした、様々な被災地支援。誰のためのボランティアなのか、自分自身の活動にも疑問を持ちながら、現地の人の話に耳を傾け続けた。

あれから20年以上の月日を経て、女性は今、津波と原発、二重の影響を受けた福島県南相馬市で子どもたちに寄り添い続けている。

ハタチ基金の助成先団体「NPO法人トイボックス」で、臨床心理士として子どもたちの支援を行う、高橋紀子さんにお話を伺った。

高橋紀子(たかはし のりこ)さん

NPO法人トイボックス
「こどもとちいき」という軸で、さまざまな支援を行う。東日本大震災が発生した当初は情報がなかったので、自分たちに何かできることがないかを探そうと、スタッフが現地に入りヒアリングを実施。その際、南相馬市の方から「子どもたちの居場所をつくってほしい」という要望があり、南相馬を中心に子ども支援の事業を始めた。高橋さんは臨床心理士として、現地で子どもたちに寄り添い活動を続けている。

誰のためのボランティアなのか 直面した阪神淡路大震災

初めて「被災地」を目にしたのは、私が大学生の頃に起きた、阪神淡路大震災で被災した神戸でした。

当時マスコミ志望だった私は、未曾有の出来事を知ろうとボランティアで現地に向かって。そこで直面した課題は、ボランティアのあり方でした。

「支援」の名の元に土足で被災した方のスペースや心に踏み込む場面を幾度も見ました。そして私自身に課せられた傾聴ボランティアも、本でまとめることが先に決まっていて、誰のための活動なのかと疑問に感じながらも「NO」と言えないまま活動をしていました。

現場の苦しみや支える側の欲に触れ、被災地支援の実態は発展途上の分野であることを思い知りました。「お役に立てたら」という気持ちは下手すると何かに利用されてしまうこと、誰かを傷つけてしまうことも学びました。

そうした体験や学びを通し、本当の意味で被災した人の気持ちやペースを尊重した支援活動の実現を、自分の人生をかけて取り組む課題にしようと決めて今現在に至ります。

けやき児童クラブの子どもたち

震災の影響はいまも続いている

私の生まれた鹿児島県川内市には原子力発電所があります。地元では、小学生の頃に書く将来の夢に「原子力発電所で働く」と書く子どもも珍しくはありませんでした。人口の少ない地域に大手企業があることで地域が潤うありがたさ。社会科見学で知る最先端の技術に誇らしさも感じていました。

福島の原発事故は、私にとって他人事ではありませんでした。そのリスクを知っていたからどうにかなったとは思いませんが、自然災害の多い日本で経済的発展を目指す難しさは、次の世代に放り投げていいテーマではないと感じます。原発事故があった福島に関心を寄せ続けることは、被災した福島を支援するだけの話ではないと思っています。

私たちが活動の拠点とする福島県南相馬市は、東日本大震災で震度6弱の激しい揺れがあった地域です。沿岸部には津波が押し寄せ、福島第一原発から半径20キロメートル圏内に位置するこの地域は、警戒区域として避難指示が出されました。
長らく住民全ての帰還は困難な状況が続いていましたが、2016年7月に一部区域を除いて、南相馬市への避難指示は解除されました。

「被災地の影響は今もありますか?」とよく聞かれます。

ある日突然家や家族を失い、地域全体が被災した時に、人生を再構築するのは並大抵のことではありません。

被災した時に高校生だった世代が今の子育て層です。津波で家族を亡くしたある女性は、子育てに悩んだ時、我が子に「海に置いてくるよ」という言葉が不意に出てしまったと話していました。その女性の母親は、今も遺体が発見されないまま。海は彼女にとって家族を奪った場所であり、家族がまだいるかもしれない場所でもあります。

地震、津波、原発事故。その後を生きる人たちと共に生きる職業人生を。次の世代がのびのびと自分の人生を生き、安心して子育てができるように、福島での経験を伝えていけたらと思っています。


ハタチ基金は、「東日本大震災発生時に0歳だった赤ちゃんが、無事にハタチを迎えられるその日まで」をコンセプトに、2011年より活動をスタートしました。2023年3月に12年目を迎え、残りの活動期間は8年となります。東北被災地の団体が、ハタチ基金活動期間終了後も子どもたちを持続的に支え見守れるように。そんな思いで、これからも皆さまからのご寄付とともに支援を続けてまいります。

ハタチ基金についてはこちら https://www.hatachikikin.com/

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