詩人がスピッツのテレビを解釈してみた
はじめに
スピッツの『テレビ』は、スピッツのファーストアルバム『スピッツ』に収録されている曲です。この曲は歌詞が意味不明なことでよく知られています。私もネット上で『テレビ』の解釈を色々と見ましたが、皆があれこれ試行錯誤して何とかこの曲の歌詞の意味をひねり出そうとしていて面白かったです。
私について
私はそれなりに詩を書いてきた人間です。詩の受賞歴や、(一回ですが)ユリイカに詩が掲載されたことなどがあります。また、ネット上の詩の賞の審査員や、デザインと詩の共作企画を行ったことがあり、その過程で他人の詩を読むという作業もそれなりにこなしてきました。そしてボカロPとして、たくさんの歌詞を書いてきました。そこで、そんな詩人&ボカロPである私が、スピッツの『テレビ』を解釈するとどうなるかを書いてみようと思います。
歌詞解釈の前提
歌詞解釈にあたって、いくつかの前提を共有しておこうと思います。まず、これから行う歌詞解釈は、私が草野マサムネさんであったらどのように詩を書くかという考え方に基づきます。そこで、私が詩を書く際に気をつけている言い換えや比喩の使い方について説明します。私は言い換えや比喩を使うとき、それらを使う前の文から意味が離れすぎないように(なるべくストレートに)使います。また私は主に、比喩を情報の圧縮または雰囲気づくりのために使っています。これはどういうことかと言うと、例えば
ネットで調べると、『テレビ』の歌詞のこの部分を、『お坊さんが読経する夜』と解釈してる人が多かったです。つまりこの曲のテーマが、葬儀や墓参りであると解釈する見方です。しかし、(私が詩を書く際に行う)情報の圧縮と雰囲気づくりのための比喩という観点から見ると、その解釈は異なるものになります。まず文の圧縮度合いから言うと、文の長さはあまり変わっておらず、名詞や動詞の数も変わらず、全く圧縮されていません。また、『お坊さんが読経する夜』と『マントの怪人 叫ぶ夜』では雰囲気づくりという観点でも(前後の文脈からして)よく分からないし、意味もストレートではなく、元の歌詞から不必要に離れていると考えます。あくまで、私がこの歌詞を書く立場であるという前提に立てば、前の文をストレートに『闇が無性に怖かった、幼い頃の夜』だと考え、その文を『マントの怪人が叫んでいるようにも感じられた、幼いの頃の夜』として、それを短くして『マントの怪人 叫ぶ夜』にしたと捉えます。このように、私が書く立場であればどのように歌詞を組み立てるかという『意味→書く→歌詞』の順序を逆転させ、『歌詞→読む→意味』という形で解釈を行っていきます。いわゆる、リバースエンジニアリングのような感じです。
なお、大前提として、この歌詞解釈は、私が書く立場ならどうするかという考えに基づいているだけで、他者の解釈を否定する意図はありません。あくまで、歌詞を読解する際に基づく前提の違いが解釈の違いに現れているだけです。では、やっていきましょう!
テレビの歌詞解釈
憶測ですが、歌詞の初案は『君のベロ』ではなく『君のベッド』だったのではないでしょうか。性的な雰囲気を出すために『君のベロ』にしたのだと思います。視覚的には、事後にベッドに二人で寝そべっているイメージです。
ストレートにそのまま、世界で最後のテレビを見ていた、と読みます。しかし、これでは何のひねりもないですね。ここで重要なのは、『世界で最後』というフレーズだと思います。これは、二人の世界の終わり、すなわち、もうすぐ君が死んでしまう、という意味だと取れます。君の死=世界の終わり、という極めてセカイ系的な価値観です。このような価値観はスピッツの他の曲でもよく登場するので、割と的を得ている自信があります。
ここはストレートに、君は死ぬ運命だけど、いつも通りのセックスだった、という意味だと捉えます。
ここの解釈は少し難しいですが、食事の否定→生への忌避→死、だと考えます。君がもうすぐ死んでしまうため食欲がない、といった感じでしょうか。情報の圧縮率が高いです。
ここの解釈も難しいですが、まず読解しやすい部分から順番に読んでいきます。旗を振ることは、人を見送る際に行われることがあります。例えば船出や出兵などです。人を見送るというのは、相手の方が遠くへ行ってしまうことなので、そこから、これを死の暗喩だと考えます。また、これはネットで調べましたが、ずっと続く市松模様は永遠の象徴でもあるらしいです。永遠を望む気持ちを表しているのかもしれません。(マジか?)『錆びたアンテナによじ登って』は、『錆びたアンテナ』である必然性までは分かりませんが、遠くへ届くように高い所から、といった意味だと捉えると整合しますし、雰囲気も合っていて良いです。また、歌詞を書く側の人間としての意見を言わせてもらうと、音数合わせのために、ストーリーと整合する範囲で必然性のない語句を入れることはよくあります。
ここはストレートに、『君の個性的な名前も君に似合っているね』『失くさないで ずっと』という意味だと捉えます。明確に永遠を望む気持ちが現れていますね。
ストレートに、夜は怖いから、その怖さから目をそらすために君と二人で居た、と読みます。この場面は、二人の思い出を描いているものと捉えます。『たら』という接続詞がポイントで、『よじれた』がまたもや性的な行為の雰囲気を出しています。『マントの怪人 叫ぶ夜』という感性はいかにも子供っぽく、これは二人の幼児性を示していると考えられます。
ここはストレートに、君が死んだ後、君が生きていた頃に描いた、下手な油絵を壁に飾った、と読みます。君の死後に場面転換したということです。
飾りカボチャと送り盆のナス、両方ともお盆を象徴する野菜です。これは、ネットでも様々な人が同じ解釈をしていました。先に書いた「君が死んだ後」とも整合します。『それもいいや だって』はストレートに、そんなことはどうでもいい、という意味だと読みます。そしてここも『だって』という接続詞で次の『マントの怪人』の思い出パートへ繋がることが重要なポイントです。これまでの解釈に基づくと、『だって』の意味は、二人で居た思い出の方が大事、ということだと言えると思います。
ここで重要なのは、船ではなく小舟、つまりはボートほどの大きさであるという点です。小舟は海を渡るなどの長距離の移動では使われません。つまり、これはおそらく川を渡っているということを表しています。川は古来から生死の境目の象徴です。有名なのは三途の川でしょうか。『暗闇の外へ』なので、死から生の方向に川を渡ることを表していると考えられます。これを今までの解釈と重ねると、再び生まれる=輪廻転生的な世界観だと言えます。
『おなかの大きなママ』は明らかに妊婦です。『まぶたを開けてもいいのかな かまわないさ どうだ』は、生の暗喩だと考えます。『ブリキのバケツに水をくんで』について、これはネットで見た解釈なのですが、お墓参りのシーンだと解釈している人がいました。(正直よく分からないですが……。)これらを総合的に考えると、先に書いた、輪廻転生的な世界観とも整合します。
同じサビの繰り返し、またもや思い出パートです。思い出にしがみついてる、といった感じでしょうか。そう考えると、生まれ変わったとしてもそれは君とは別人、あるいは生まれ変わりを望むけれど信じていない、といった意味に捉えられなくもないです。あるいは、特に意図はなくサビを繰り返しただけ、という可能性もあります。(歌詞解釈でそんなことを言い出したら終わりですが……。)
おわりに
普通に読んだら意味不明でも、こじつければ意味をひねり出すことは出来るみたいですね。非常に面白かったです。次回は、これまた難解なスピッツの『ミーコとギター』を解釈していこうと思います。お楽しみに!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?