リーダーとして山に入るということ
私はいま、東大で登山サークルの代表をしている。
新歓期に後輩を迎えてから夏の北アルプスに行くまで、自分がリーダーとして先頭に立つ登山を積み重ねてきた。
つい先日奥穂高岳に遠征したのだが、代表としてアルプスに行くのはこの山行が最後になった。代表として山行CL(チーフリーダー)を務めるのも最後だったかもしれない。忘れてしまう前に、いま感じていることを綴らせてほしい。特に、次の時代を担う後輩たちに向けて。
CLの仕事は慣れるまで大変だった。そもそも、山では考えることが多い。他の趣味やスポーツと違って、ただ単に登ればいい、やり切ればいいというだけでなく、自分のパーティー(行程をともにするグループのこと)の様子を見ながら何が安全で何が危険か正しく判断する必要があるし、リーダーとしての心遣いや未来予測も求められる。時に、度胸試しのような苦渋の決断も迫られる。
山に入る、CLを引き受ける、ということは、そこでの「どうしようもなさ」を受け入れるということでもある。本来、この世界には「どうしようもなさ」が溢れているが、日常の私たちはあまりに便利な人工物に囲まれて主体性を失ってしまっている。マルクスは生産現場での人間の疎外を論じたが、現代社会で起きているのは余暇の時間、消費現場での人間の疎外なのではないかという気さえする。そのような中で、主体性の回復と脱自の機会は山にこそある。山に入る人間は、日常から離れ自然に身を置くことにより、「どうしようもなさ」との再会を果たす。山で、私たちはどうしようもない状況を前に決断をし、自らの決断を正解にできるかとハラハラしながら、成長し、自己を塗り替えることができる。
強風、雨天、メンバーの怪我などによりエスケープ(緊急時、予定を変更して下山すること)を迫られた時、あなたは決断できるか。エスケープルート(エスケープのための予備ルート)が実際の安全さを保証することなどないから難しい。本来のルートよりもエスケープルートの方が早く下山できるかもしれないが、そのぶん道は険しく傾斜は急だということもあるかもしれない。下調べを怠れば、エスケープルートがどんな様子かもわからない。「どうしようもない」状況は、急遽私たちに降りかかってくる。
メンバーの足取りが重い。理由は本人にもわからない。シャリバテか、高山病か、単なる足の疲労か......?足取りの重いメンバーは「自分を置いて山頂に行っておいで」と言っている。周りのメンバーは元気そうで、確かにこの1人を置いて山頂に行くことは外形的に可能ではある。しかし、本当にそんなことをして良いのか。一番遅い1人に合わせてみんなで山頂アタックは諦めるべきか。自分がその1人とともにその場に残り、看病すべきか。ただ、こうした状況での場当たり的な分隊がリスクを高めることは明らかだ。ここから下山するにしても先は長い。さあ、どうすべきか......。
「どうしようもない」状況を迎えると、もちろんCLはハラハラとする。決めたくないことを、最終的には自分が決めざるを得ない。辛いかもしれないが、それこそが本当の意味で山に入る醍醐味であると思うのだ。単に景色を楽しむとか、仲間との山での暮らしを楽しむとか、そういう表面的な体験を超えて、私たちの精神に刻まれる体験とは、チャレンジによって、特に「リーダーを務める」ことで可能になることが多いのではないだろうか。
CLを務めると、最終的には自分の責任で隊を担うことになる。俯瞰的な視点が必要だ。今この選択肢を選ぶとして、その場合のリスクは何か。もう一方の選択肢を選んだ場合のリスクと比べると、どちらの方が大きいか......。どうしようもなく、私たちは決断のステージに立たされる。選ばないとどうしようもない。心を決めて選択し、行動すると、何らかの結果が立ち現れてくる。これでよかったと安堵できたら何よりだが、反省を迫られることもあるかもしれない。でも、それで良いのだ。経験を繰り返していいCLになることができるし、メンバーだった場合には味わえなかった達成感が身にしみて感じられるだろう。
山中でのリスクを適切に測るには多様な「物差し」が必要だ。机上の勉強で知識を得て、山で実際の「どうしようもなさ」にぶつかる、この二つのステップを地道に踏んでいく必要がある。私もこのプロセスを繰り返して、やっとまともなCLになることができたと思う(もちろん、山屋としての実力はまだまだであるが)。例えば、「5mmの雨」「15km/hの風」などと聞いて、どのくらい詳細にイメージできるだろうか。イメージできたとして、エスケープや山行中止など、実際の判断はどうしようか。気象条件が好ましくない時、判断に当たっては、「危険な登山」と「快適でない登山」を区別することが大事だ。行程時間に雷予報が出ていたり強風が予想されたりするならそれはリスクの高い「危険な登山」だろう。一方、雷や風のない小雨なら、それは「快適でない登山」かもしれないが、「危険な登山」には当たらない。こういう物差しを自分の中に獲得するのは、案外難しいものだ。
話を戻そう。山は他の趣味やスポーツとは大きく異なる。ただの運動ではなく、意思決定の連続であり、パーティーとしての協働であり、自然が突きつけてくる「どうしようもなさ」との再会である。
CLを務めるは大変かもしれないが、それだけに他では味わうことのできない深さがある。パーティーで山を楽しむ人たちには、ぜひ果敢にリーダーになる経験をしてほしい。そして仲間とともに「理想的なCL像」を模索しながら、一人一人がより良いリーダーになり、自分たちの会を多様なリーダーによって担われる「リーダーフル」な山岳会にしていってほしいと思う。
口うるさい代表の老婆心をお許しあれ。
2024年10月
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