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母の旅立ちへの道 【私の視点での道 総括】第22回/全35回

この記事は母が旅立つまでの道のり、私が母を見送るまでの道のりを綴ったものです。


母の看取りを終えて、ここまでの道のりを私視点と母の視点で改めて振り返ってみたいと思います。


【この記事は私の忘備録代わりとして】

この「母の旅立ち、私の見送りへの道」は私の忘備録代わりでもあるが、同時に母と私の知られざる道のりを記録として残したいと思ったから作成しました。まあ実際は別に「闘病、看護記録」として別にノートに書き残してはいるのだが、きちんと正式な形で残しておきたいという事でこのnoteに投稿をしました。

正直ノート(看護ノート)に書き残した程度では母と私の記録を読む人は誰も居ないかもしれない。でもこうやってnoteも残しておけば、後に何らかの形で母上が歩んだ険しい道のりを知ってもらえる日が来るかもしれない…という想いもあった。実際に読んで欲しい人、知って欲しい人は別にいるのですけどね。

【7か月間の戦い…ただ実際には7か月以上の痛みと不安があった】

実際に母上が病気と闘った期間はおよそ7か月。最後の2か月は私と一緒に戦ったものの、その前の5か月間は、ほぼ母上一人で戦っていたと言える。母上は次々と襲い掛かる身体の痛み、不安を抱えながら7か月間戦ったのだが、ずべてが終わった後で母上に対して「よくここまで頑張ったね」と声をかける人は私以外に誰もいない。母上が旅立つ7か月以上も前から痛みと不安を抱えて過ごしていた事を誰も知らないからである。

そして母上と最後の2か月間を共にした私に対しても声を掛ける人はいない。私が母上に対してどのような看護、介護をしてきたかを知らないから(知りたくない)である。母上の最期はどうだった?看護はどうだったの?と聞く人も当然誰もいない。

まあ確かに2人きりの家族だから、他にこれらの事を知る人は居ないのは当然。最後はどうなった?看護はどうしてた?と他人が聞くのもそりゃ失礼な話であって、これらの事を母と私以外に知る人が居ないのは当たり前だろう。

ただ母上が7か月間身体の痛みと戦い、不安を抱えながら過ごしてきた事を私は知っている。しかしその事を知っている人は、今ではこの世で私ただ一人だけ。同時に母上の最期2か月間を看護と介護に専念していた事を知る人は母上ただ一人だけ。そしてその事を知る人はもうこの世には居ない。

【とにかく私の事を気遣う母】

母上がまだこの家の介護ベッドに居た時、私に何度も「私の事は良いから、自分の好きな事をしなさい」と言った、私は常に母上の部屋に居て介護に付きっ切りだった事を見て、「私に構わずに好きな事をしなさい」と私の事を気遣った。

また後にS病院へと入院した後、毎日見舞いに来る私に対しても「遠い所まで毎日来なくていいよ、自分の好きな事をしなさい」と言い続けた。この家からS病院までは決して近い距離ではない。毎日毎日仕事を休んで見舞いに来る私に気遣ってそう言ったのである。

「私に構わずに自分の好きな事をしなさい」と言われて簡単に引き下がる私ではない。別に母上の介護やお見舞いに対して不満や嫌な思いをした事は一度も無い。むしろ母上のお世話をできる事に喜びを感じていると母にも伝えた。

ただ仮に私が母の立場に立ったとして、母上が逆に私のように介護や見舞いに来る立場になった場合。私も母上に対して全く同じことを言っただろう。母上なら私の為に何でも世話を焼いたと思うし、S病院への見舞いにしても毎日のようにモノレールに乗って来てくれた事だろう。私に水を飲ませてくれただろうし、付き添いだってしてくれたはず。病室では好きなサザンの音楽を聞かせただろうし、脚や身体のマッサージまでしてくれたと思う。母上はそういう事をしてくれる人だという事を私は知っている。

【仕事は毎日早退、33日間のバイクでの病院通い】

母上が入院中、時間があればずっと家のベランダに出て真西に方向を見ていた。我が家から丁度真西に7.5km先に入院しているS病院があることが分かったからだ。当然病院は見えないものの、あの方向に母上が居ると思って真西の方向を見続け、毎朝、毎晩思いを馳せて「明日病院に行くから待っててね」と声をかけた。

会社は毎日午前中のみの仕事にして、午後は早退にする事を1か月続けた。当然のように職場の皆には白い目で見られていたが、会社や職場が私や母を助けてくれるわけでは無いので、白い目で見られようが構わずに午前で仕事を切り上げての早退、午後は半日有給という形を取った。

母の入院前にすでに10日以上も仕事を休んでいるから、残りの有給はおよそ30日ほど。母の状況は先が見通せずにいたが、私としては残った有給を使い切る覚悟ではいた。更に一旦は休職という事も考えたが有休を使い切ってから考えればいいやと思ったし、最悪仕事を辞めてもいいとも思っていた。仕事がどうのこうのが理由で母上の元に居られない事が耐えられなくなると思ったから。仕事に対する想いと母の対する想いを比べると当然そうなるよね…って感じ。

S病院へは約1か月毎日欠かさずに通い続けた。バイクなら家から片道13kmほどで約30分の道のりだが、会社からとなると片道約20km、時間にして約45~50分の道のりである。でも不思議と病院までの距離と時間が長いと感じたことは無かった。母上に会えるという想いが勝ったのだろうと思うし、帰る時もまた明日会えると思うと毎日病院への行き帰りの道のりは苦に思わなかった。

ただ母上が旅立った後、病院の支払いの関係でS病院へ行った時の道のりは長く感じた。母上に会える楽しみの無い病院までの道のりは本当に長く感じた。病院への道のりも最後になるから…という思い、今まで1か月の事を思い出しながら病院へ向かったが、特に感慨深い物はあまりなかった。気持ちの問題っていうのはこういう事なのだろうか。

【すべてに正解は無く、後悔している事もいっぱい…】

母を見送るにあたって私の行動のすべてが正解だったとは思わない。もっと違うやり方があっただろうし、母の為に…とやってきたことが逆に苦しめている事もあったと思う。それでも最後の2か月間に限っては、自分の中では母に対して悔いなくお世話が出来たと思ってはいる。もちろん母上の視点からすればまた違った見方もあるだろうけど、私自身はあの時点では精一杯出来ることは全てやったという思いでいる。

ただその中でも悔いの残る出来事があった。

深夜に起きた母上の激しい目眩の一件。(1/21深夜)
H総合病院で受けた塩対応。(1/27)
この家を出るときに最後のお別れをさせてあげれなかった事。(1/30)

これは自分の力不足だったなと思う事でもあるが、それ以上に母に惨めな思いをさせてしまったなという意味で後悔の念は強い。それだけにこれらの出来事は一生忘れないだろう。

【注意事項】

この記事を書いている私は医療に関しては素人なので記事の中で間違った認識、表現、名称を記述している可能性は高いです。さらに一部で感情論に走っている面もあると思いますが、なにとぞご理解と温かい目で見て頂けるとありがたいです。


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