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戦国武将毛利元就の逸話「三矢の訓え」

1か月前

天文6年(1537)12月1日は毛利元就の嫡男隆元が山口の大内義隆へ人質として送られた日。19日に元服し義隆から偏諱を受けて隆元と名乗り3年を山口で過ごす。この頃の毛利は大内と尼子に挟まれどちらかに従属する必要があった。生き残るため差し出さなければならない大切なものは何なのか。

永禄6年(1563)8月4日は毛利元就の嫡男隆元が急死した日。三本の矢の逸話の長男。偉大な父、優秀な弟二人へ劣等感からか弟達が自分を見下しているなど愚痴の手紙も残る。逸話の元ネタ「三子教訓状」は息子達の関係を心配し書かれた。人と比べて苦しむことは武将も同じなんですね。

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天才の父と優秀な弟達を持つゆえの苦悩

3年前

天文6年(1537)12月1日は毛利元就の嫡男少輔太郎(隆元)が山口の大内義隆へ人質として送られた日。19日に元服し烏帽子親の義隆から偏諱を受けて隆元と名乗り3年を山口で過ごす。この頃、尼子氏の当主となった晴久の動きが活発となり元就としては大内氏との結びつきを強める判断をした。

弘治3年(1557)11月25日は毛利元就が3人の息子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に三子教訓状を送った日。陣中で元就が書いたこの教訓状から三本の矢の逸話が創作されたといわれる。元就の現状認識として毛利をよく思わないものは国内外多く兄弟仲が悪いと滅亡に繋がる危機感があった。

永禄6年(1563)8月4日は毛利元就の嫡男隆元が傘下の国人に饗応された直後に急死した日。死因は病死とも毒殺ともいわれ隆元の嫡男幸鶴丸(輝元)が家督を継いだ。しかし若年のため元就が主導権を握り後見した。元就の死後は隆元の弟である吉川元春と小早川隆景が毛利両川として輝元を支えた。