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天才の父と優秀な弟達を持つゆえの苦悩

3本の矢の長兄
毛利隆元は、中国地方の覇者・毛利元就の嫡男である。弱小勢力から成りあがった天才的謀将・毛利元就を父にもち、76度の合戦で64勝12引という驚異的戦績の吉川元春、知略と政治力で五大老まで上り詰めた小早川隆景を弟にもつためかなり影が薄く感じる。父・元就にも「能や芸や慰め、何もかも要らず。ただ武略、計略、調略が肝要に候」とたびたび叱責されている。隆元自身もそれをひしひしと感じており、色々な手紙で自嘲的なことを書いている。しかし、隆元は思量深く内政面・財務面で長けており毛利家最大のターニングポイントで思い切った決断をした、大将として申し分ない器を持った武将である。

大内家への人質
毛利家の弱小時代、中国地方の有力勢力は尼子と大内であった。毛利元就は大内家への恭順を示すため、1537年に隆元を人質として送る。隆元が15歳のときである。大内家の当主・大内義隆は隆元を大いに歓待した。大内義隆は文化人としては一流であり、大内義隆が構築した「大内文化」は当時のあらゆる中世文化を統合し日本最大といてっも過言がない華憐な文化であった。隆元の人質時代はまだそこまでのものではなかったが、大内文化の片鱗を見た隆元は後年元就が嘆くほど文弱になる。一方慈悲深く教養にあふれた人物へと育っていった。

厳島合戦へ
1540年に毛利家に戻された隆元を見て、元就は右腕と頼む志道広良に隆元の教育を任せている。元就には、大内文化に染まった隆元を見て不甲斐なく思ったのであろう。隆元自身も「名将の下には不遇な子が生まれる」や「毛利家の家運も私の代で尽き果てるであろう」と父や弟たちにコンプレックスを抱いて過ごしていた。しかし、1551年に陶晴賢が大内義隆にクーデターする(大寧寺の変)。すると中国地方の独立勢力は陶に恭順するか、陶に反旗をし独立を保つかの選択に迫られる。元就はひとまず陶に恭順しようとするが、ここで断固反対をしたのが隆元である。隆元の必死な説得により、元就は陶との決戦を決意する。それが厳島の合戦である。厳島で大勝利した、毛利はさらなる飛躍をすることになる。

早すぎる死
その後あらかた中国地方を統一した元就は1557年に引退を表明するが、隆元は「父が隠居するなら、自分も幸鶴丸(輝元)に家督を譲って隠居する」と懇請した。それでも元就の決意が固いと見ると、隆元は「私が死ねば父は隠居の希望を捨てるであろう」と自殺までほのめかす始末である。結局、元就も隆元の後見を続けることにした。隆元は喜び、当主として努力すると誓い、弟達にも「私の足らない所を補佐し、毛利運営に協力してほしい」と要請している。元就も隆元・元春・隆景に三子教訓状を与えた。これが3本の矢の教えの元ネタである。しかし、隆元は1563年に病死する。悲報を聞いた元就は大いに悲しみ「この上は自分も相果てて、隆元と同じ道をたどりたい」と自暴自棄になるありさまであった。毛利家はその後隆元の子・輝元が跡を継ぐことになる。

おわりに
戦国時代にこれ程までに、コンプレックスを感じて己とは何かという現代的な悩みに直面した武将は類を見ないであろう。だが、コンプレックスを持ちつつ譲れない芯の強さを見せ、またコンプレックスを抱えたゆえに他の人の力を借りるということに何も抵抗がない大将だったからこそ、父・元就や文化人・義隆に可愛がわれ、一癖ある弟達をまとめることができたのであろう。

参考資料
Truth In History 22 毛利元就 吉田龍司 新紀元社

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