欠如感

走る、何も求めず

欠如感など無縁だったあの頃のことを
考えていた。
過ぎ去った時と今は
一体何が違うのか

私は多分、何も求めていなかった
何か他の選択肢があるなどとは
考えもしなかった

目の前のものをごく自然に受け入れ、
夢中になっていた。

どうしてそうだったのか、
少し分かるようでいて
まだはっきりと理解できていない

余計な問いもなく
根っこで起こる葛藤もなく
意識化することのない期待を胸に
走っていたあ

もっとみる

学校の存在の有無は、人間の幸福の条件となりうるか?--脱学校とは[4]--『脱学校的人間』第七章

人は一般に、「社会をよいものにするために、悪い社会を変えようとする」であろう。社会をよいものにすることが、人が幸福に生きることの条件であり、またそのように考える限りで、人はあるいはそれを「自分自身の人生の目的とする」だろう。「この目的が達成されたあかつきには、自分自身もまた幸福になれるのだ」と、彼は日夜その「条件を満たすため」に奔走することであろう。
 しかし、はたして本当に「人々が不幸なのは、現

もっとみる

「明日になれば」という期待を胸に、人々は空虚な器を抱え彷徨う。--人間の学校化について[4]--『脱学校的人間』第六章

「…現代は当て込みの時代であって、真価の承認さえが前払いを要求されるのである…」(※1)とキルケゴールが言ったそのおよそ100年後、「なお今だ当て込みの時代であった現代」を、カミユは次のように描写している。
「…ぼくらは未来を当てにして生きている、「明日」とか、「あとで」とか、「あんたに地位ができたら」とか、「歳をとればお前にも解るさ」とか言いながら。…」(※2)
「…日常的人間はさまざまな目的を

もっとみる

期待していたような自分になれなかった者にとって、自分自身は負債であるのにすぎない。--人間の学校化について[3]--『脱学校的人間』第六章

「…期待とは、人間によって計画され統制される結果に頼ることを意味する…」(※1)ものであり、また、「…自分の権利として要求することのできるものをつくり出す予測可能な過程からくる満足を待ち望むことである…」(※2)とイリッチは言う。「計画され統制された結果」とはつまり、「予測可能な過程にもとづく結果」すなわち、「そうなることがわかりきった結果」ということであり、それを「自分の権利として要求することが

もっとみる

未来に「あるべき自分」を思い描く者にとって、現在の自分は欠如にすぎない。--人間の学校化について[2]--『脱学校的人間』第六章

歌のフレーズにあるように、もし本当に「僕が僕であるために勝ち続けなければならない」のだとしたら、それはむしろ明らかに不幸なことであろうし、しかもこの不幸は、彼の死をもってでなければ終わらないようなものであろう。もし本当に「生きている限りは勝ち続けていなければならない」のだとしたら。
 「生きている限りは勝ち続けていなければならない彼」は、「この勝ちを確保すること」よりもまず、「さらにその先の勝ちを

もっとみる