日記(le 13 juin 2021)

落ち込んでいること

ここ数日、ツイッターなどで落ち込んで、死ぬのなんのと言っているのは、ごく簡単に言ってしまえばある専任ポストの公募に落ちたためです。こちらとしてはかなり力を入れて書類を作り、業績も揃え、せめて面接までは行ってくれ……!と願って応募したのですが、薄っぺらな茶封筒にA4ペライチの、わら半紙のように質の悪い紙で、お祈りの手紙が届きました。たぶん、大学での教歴がまだない(非常勤は今年の9月から)ので、そこがネックになってほぼ機械的に落とされたのでしょう。
仏文博士課程満期退学、博士号なし、留学経験なし、フランス語関係の資格も仏検2級しかない……という僕の経歴では、まずフランス語の非常勤講師というポストがまわってくることは絶望的です。こういう悪条件だとそもそも応募できる公募が限られていて、それでも奇跡的に合致する公募をなんとか見付けて去年も2件応募したのですが、どちらもごく簡単なお祈りの手紙が来ておしまいでした。やはり僕などが大学教員なんて大それた夢を追い求めたのがいけなかったのでしょう。フランス語もろくに身に付かなかったし、語学力に加えて経済的な事情もあって留学必須の専攻でありながら留学できず、これで大学で教えられるなんて考えるのは虫が良すぎます。
学部時代の恩師のあとを追って大学院から仏文に進んだのですが、学部時代に第1外国語として勉強したほかは、古本屋でペイパーバックをあさって辞書を引きながら独学で読んだだけの語学力しかない僕には、とてもついていけない世界でした。フランス語ネイティヴ(francophone)の先生方の授業には恐れをなしてなかなか出られなかったし、そのせいもあって読解以外の語学力、すなわち聞き取り・作文・会話どれも壊滅的で、そのほころびをつくろうことのできないまま8年間の院生生活を終えました。
せめて国内ででも博士論文を出しておけば、少なくとも気持ちの整理はついたのかも知れませんが、それも鬱病の悪化などもあって叶わず、余計に後悔がつのるばかりです。
大学院進学の際に留学が必須になる仏文ではなく、留学が必須ではないたとえば日本文学などを専攻して(それで院に受かったかどうかは別問題ですが)哲学と仏文学と日本文学のあわいにいるような人、林達夫などを主たる研究テーマに据えて、フランス語を活かして比較文学的な研究でもしていたらもう少し違う道が拓けていたのではないかと後悔するばかりです。中学・高校の国語科教員としての就職を目指すにしても、学部卒で取れる一種免許状しかもっておらず、大学院ではまったく畑違いのフランス文学を専攻するよりは、素直に日本文学の大学院に進んで専修免許状を取っておいたほうが何かと就職にも有利だったかも知れません。
あるいは、高校時代からの「京都学派」への関心を活かすべく(学部の卒論もバタイユにするか九鬼周造にするか迷ったぐらいなので)京大の日本哲学専攻の大学院を受けるという選択肢も考えられたはずです。もちろんこちらも、受験したからといって受かったかどうかは別問題ですが。何より僕の学部4年時は2011年。震災と原発事故の直後で、実家に何が起こるかわからなかったし、加えて大切な人との(かなり苦しい形での)死別も経験したため、そこまで手広く将来のことを考える余裕がなかったのも確かです。ただ東京に残りたい、大学に残りたいという浅い思いから、いちばん身近な指導教員がおられた仏文の院を受け、たまたま受かってしまった。
もちろんその選択のおかげで角川短歌賞をとり、歌集を出し、現代歌人協会賞をとることができたのもまた確かですが、学振DC2採用からの助手採用という幸運に幸運が重なっても結局は無職のひきこもりになってしまうのなら、多少の栄光は犠牲にしてでも堅実な道を歩んだほうが良かったように思います。
いまから中・高の国語科教員を目指すにしても、年齢も学歴もネックになるでしょうし、もし幸運にも教職に就けたとしても同年代からはかなり遅れてスタートラインに立つことになります。まして教職の過酷さは噂に聞くところですし、教育実習のときにその一端を垣間見たのもあって(もっとも僕の教育実習は3.11から半年後の慌ただしい時期、まだバラックの仮校舎で授業がおこなわれていたような時期のことなので忙しさは別格だったのかも知れませんが)自分にその任がつとまるかどうか、正直なところ自信がありません。
かといって、またハローワークに通って仕事を探すにしても、こんな情勢のなか求人を出しているような会社はブラック企業なのではないかと疑ってしまいますし、そもそも求人の数じたいが少なく、良い仕事が見付かる可能性は低いでしょう。大学教員の夢をあきらめて就活するにしても、こんな有事ではなく、せめて平時に就活させてほしかった。
鬱病の診断書を出して半年から300日まで引き延ばしてもらった失業保険の受給期間もそろそろ終わりが見えてきましたし、今までのような「とりあえずハロワに通ってさえいれば失業保険はもらえるから」というインセンティヴすらなくなってしまうので、この先さらにハロワ通いを続けるのは、正直、苦痛でしかありません。それに企業の人事担当者からは、大学院、特別研究員、附設研究所助手といった浮世離れした世界にしかいなかったことを、およそ世の中の「職歴」とはかけ離れており、実質ニートだったのと同じか、あるいはそれ以上に悪いと思われているのかも知れません。
映画監督の吉田喜重が雑誌『水声通信』のインタビューに答えて、東大の学生時代一緒に同人誌をやっていた宮川淳が「自殺とは結局vitalityの問題だ」と言った、というようなことを語っていたのを今さらながらに思い出します(いま掲載誌がすぐ手に取れる状態にないので正確な記述ではないかも知れませんが)。もし今の僕に旺盛なvitalityがあれば、上に並べ立てたような悪条件をふまえたうえでなお、職探しに奔走し、生きていくための努力を惜しまなかったかも知れません。しかし僕にはもうvitalityなどひとかけらも残されていないのです。労働は生存のため、生存は何のため?……芸術のための芸術(l'art pour l'art)は崇高かも知れませんが、生存のための生存はむなしいだけです。
重苦しいdépressionの霧のなかで、昨夏のそれと比べれば切迫してはいないものの、ただ薄ぼんやりとしたidées suicidairesを感じる。これぐらいのほうが切迫しているときより却って、ある種の精神分析でいうpulsion de mortに近いのかも知れないなどと考える。ゆっくりと、la mortのほうへ傾斜してゆく。
今年度の後期は非常勤講師を頼まれて引き受けてしまったため、その任を果たすまでは生きていなくてはならないのですが、逆にいえばそれを果たし終えたなら何らかのかたち(恐らくは睡眠薬のODかドアノブを利用した首吊りのどちらかになると思いますが)で自裁をこころみてもいいかなと、最近そんなことばかり考えています。自分のことは自分で決着をつけたい。自殺でも自死でも自決でも自害でもなく「自裁」。「自らを裁く」という字面が気に入っています。弱い自分を、悪しき自分を「裁く」。そういえば三島由紀夫の「自決」からしばらく経ってのち、日本刀で頸動脈を切った村上一郎の死は「自裁」と呼ばれていますね。別に彼のひそみに倣うわけではないですが。

2冊目の本のこと

オリンピックやインド由来のデルタ型変異ウイルスの影響で感染爆発!なんていう非常事態が起こらない限り(これが起こらないと言いきれないのが何とも恐ろしいところですが)前々から告知している2冊目の本は9月ごろには出せるかと思っています。
過日メールにて、さる方から「第2歌集はまだですか」と問われ、心苦しい思いをしたのですが、2冊目の本という婉曲な言い方の通り、残念ながら第2歌集ではありません。ただパンデミック以降、あまり満足のいく歌が詠めなくなってしまったこともあり、『忘却のための試論』出版後からパンデミック以前までの作品を(一部、意に満たないものを削除しつつ)まとめたものが、だいたい歌集1冊分ぐらいたまってはいます。既に原稿化してあるので、商業出版のお話さえいただければいつでも第2歌集として出せる用意はできているのです。とはいえそんなお誘いもないことだろうと思うので、恐らく僕が自裁を遂げたあと(首尾よく遂げられたら、の話ですが)有志によって遺歌集として出してもらうあたりが関の山でしょう。そういう場合に備えて、書誌情報やあとがきなども含めた原稿データをUSBメモリに入れ、また別途プリントアウトした紙媒体も遺書と一緒にまとめてあります。この遺歌集(予定)はタイトルも決まっていて『baroque』とする予定です。エゴサーチしにくい書名ですが、死んでしまえばエゴサすることもないので気にしなくていいや、と思っています。
2冊目の本のほうは、まだ正式な告知が出ていないので詳しいことは書けないのですが、いちおうエッセイ集というカテゴリに入る本になるのかなと思われます。エッセイというよりはフィクションをまじえた掌編小説に近かったり、あるいはエッセイと呼ぶにはいくらか硬く、どちらかといえば評論に近かったりするものが大半を占め、改めて「エッセイ」というジャンルの難しさを痛感させられました。
装幀にかんしては、もともと僕自身が装幀に無関心なところがあるため、編集者の方に一任というかたちになります(これは遺歌集『baroque』についても同様)。『忘却のための試論』のときも「絶対にこのイラストを表紙に使いたい!」という希望のほかは何も意見を出さず、出版社側に勧めていただいた装幀家の方にお願いすることになったので、自分で決めたのは「帯に配する薔薇の絵を赤い薔薇にするか青い薔薇にするか」ということぐらいでした。(あの表紙で薔薇は切腹の血や臓物のメタファーになっていることもあり、作者・長岡建蔵氏とも相談したうえで赤い薔薇にしました。)今回の本は編集者の方がかなり長きにわたって企画を練ってくださっていたこともあり、装幀も既にどなたにお願いするか候補が数人程度にまで絞り込まれており、そのうち僕も編集者の方も第一希望に挙げていた方にご担当いただけることになりました。(このあたりも情報が解禁になったらまた詳しくお知らせできるかと思います。)
推薦文だけまだ決まっておらず、果たしてこの方にお願いして書いていただけるのか?というかなり難しいラインにおられる名前を僕も編集者の方も第一希望に挙げてはいるのですが、まだどうなるかわかりません。歌集を読んでメールをくださり、その後も何度かやりとりのある方ではあるのですが……。
いずれにせよ、著者の僕にさえまだまだ全貌の見えない「2冊目の本」ですが、楽しみにお待ちいただければ幸いです。これは死ぬ前に出ます。エゴサもします。

自分の歌はどこに届いたのか?ということ

『忘却のための試論』は表紙のインパクトと長岡建蔵氏のネームバリューもあって、いわゆる短歌の読者だけでなく、一部サブカル界隈で読んでいただく機会の多い歌集でした。サブカル系の書店、エロゲ好きを公言するミスiDファイナリスト、主に中京圏で活動するコスプレイヤーなど……。実際、著者の僕としても、本の中身はどうだっていいからこの絵を手許に保存しておくためだけにでも買ってほしい!とねがっていたところがあります。もともとこの表紙絵「内省天使」は限定販売のTシャツ用に描かれたもので、せっかくの良い絵なのに広く所有されることがなさそうなのを寂しく思っていたので。もともと歌集発売以前から、僕が学部3年のときに書いた拙い文章が「早稲田の学生が伝説のエロゲー『さよならを教えて』について書いた論考が大学のホームページに載っている」と一部界隈で話題になったことがあったため、表紙絵と合わせて「あのときのあの人か」「点と点がつながった」という反応も少なからず見られました。そうした「表紙絵」関係以外でもイラストレーターや音楽家、学者など、文芸とは違うジャンルで活動されている方々に届いたのは嬉しいことでした。ツイッターなどでの二次創作(イラストの作成や、さまざまなカップリングに僕の短歌をあてはめてもらうなど)も盛んでしたし。
その一方で、現代歌人協会賞を受けたということで、それなりに歌壇でも評価をいただいたことも確かなのだろうと思います。まさか表紙の話題性だけで贈られる賞ではないでしょうし、話題性だけで言ったら翌年の受賞作『キリンの子』のほうがよほど高いですし。かなり短歌を読み慣れた人たちが読んでもそれなりに鑑賞眼にかなうものではあったのかな、と信じています。個人的には「歌壇には受け容れられないのではないか」と思っていた歌集だけに、こうした反応は意外でした。
ある程度「狙って」いたサブカル層はともかく、届くとは思っていなかった他ジャンルの芸術家や歌壇内にはそれなりに受け容れられたらしいのに反して、ひそかに期待していた「短歌以外の文芸界」にはあまり届かなかったのが残念というか、死を間近に控えての数少ない心残りではあります。
短歌界隈の人が文芸誌になにか書くということは決して少なくなくて、それは短歌に限らず小説だったり評論だったりエッセイだったりすることもあるのですが、その種の「文芸誌からの依頼」がまったくなかったのは悔しかったです。角川短歌賞受賞から間をおかず『現代詩手帖』に連載された短歌時評はともかくとして、意外なほど「ジャンルの越境」がなかったのです。『文學界』の「巻頭表現」や1ページのエッセイ(コラム?)とか、文芸誌とはちょっと違いますが『文藝春秋』の短歌欄とか、その他文芸誌への短歌に関する文章(エッセイや評論)とか、およそ短歌に絡みそうな話がことごとく来なかった。短歌関係で、先輩はもちろんのこと、自分と同時期に賞をうけた人や、あるいは自分より後に賞をうけた人たちなどが、次々に短歌専門誌以外の媒体で活躍しているのを見ると、「自分の歌集は黙殺されてしまったのだろうか……」と焦りをおぼえます。あるいは文芸誌に限らずとも、たとえば数多いネットメディアなどでも僕の歌が取り上げられたり、僕を招いての企画や記事が掲載されたり、といったこともまたありませんでした。ましてもっと別分野の雑誌とか、新聞とか、そういうところにも僕の歌や散文は届かなかったらしい。当然といえば当然の結果のようにも思われますが、やはり寂しいものです。
僕自身の表現の拙さを棚に上げていうならば、恐らく現代口語短歌とは大きく異なる(と思われがちな)作風や、角川短歌賞受賞時のスピーチなどにあらわれた作者自身の気難しいイメージ(実際、さる場では「気難しい方だから辞退されるかと思った」といった主旨のことを言われたように記憶しています)などが敬遠される原因になったのかも知れません。同人誌『率』などに発表していた仰々しい文体の評論なども「気難しい、面倒くさい人」というイメージを形成するのに一役買った気がします(もっとも、多忙な文芸誌の編集者がいち短歌同人誌まで詳細にチェックしているとも思えませんが)。あるいは『現代詩手帖』の短歌時評を「ですます調」で書いたのも他ジャンルの文芸に携わる人間を低く見ていると思われる原因になった可能性もあります。実際には「だ・である調」で書くより「ですます調」で書くほうが文章のコントロールが効きやすく、それゆえに選んだ文体だったのですが……。あとは『ユリイカ』の現代短歌特集号に書いた論考が論文ふうの文章だったため、融通のきかない書き手だと思われたのか。
実際には気難しいどころか小心者で、権威に弱く、ミーハーで、他ジャンルの媒体から依頼など受けたら飛び上がるほど喜ぶ(実際『ユリイカ』や、短歌とは関係なく寄稿することになった『機関 精神史』創刊号など、原稿依頼を受けたときには本当に嬉しかった)ような人間なのに。なんにせよ、悲しいミスマッチです。文芸界以外の他ジャンル(イラスト、音楽、アイドル、学術、二次創作など)には想像以上に届いたのに、文芸界の内側での他ジャンルにはあまり響かなかったのは、なんだかんだいって割とショックでした。やはり求められているのは現代口語短歌なのか……。願わくば、2冊目の本が少しでも広い層に届き、命あるうちに新しい仕事につながらんことを。

「梅」呼びのこと

暗い話題ばかりでもアレなので、最後にアイドルの話でもしておきましょう。なお僕はどのグループに関してもそこまで熱心に活動のひとつひとつを追いかけているファンではなく、地上波テレビの冠バラエティ番組を見る程度の「在宅」ファンに過ぎないうえ、この記事は記憶と印象だけを頼りに書いているため、あちこち間違いや記憶違いなどもあるかも知れません。ファンの方はあくまで一視聴者の素人目線と思って読んでください。
「乃木坂って、どこ?」〜「乃木坂工事中」を見ているとわかると思いますが、MCのバナナマン(特に設楽)はメンバーを全員ニックネームではなく名字で呼び捨てにします。このへんはアイドルと芸人MCの間の線引きという信念があってやっているのでしょう。同姓が複数人いる場合はフルネーム呼び捨てです。たとえば「サイトウ」なら「齋藤飛鳥」「斉藤優里」「斎藤ちはる」、「イトウ」なら「伊藤万理華」「伊藤かりん」など。卒業後にアナウンサーになった斎藤ちはると共演した際も、危うく「斎藤ちはる」と呼びそうになって、慌てて「〜ちゃん」を付け足していたぐらいです。(なお付け加えておくと、「NOGIBINGO!」シリーズで共演したイジリー岡田も基本的にメンバーのことを名字にさん付けかで呼んでいました。ただしメンバー内でもバラエティ班として認めていたらしい永島聖羅・能條愛未などは「永島」「能條」と名字呼び捨てで呼んでいたのでそこまで厳格ではありませんが。その他、乃木坂46の冠バラエティ番組は数多くありますが、すべて追いきれているわけではないので呼び名に関する知識はこれぐらいです。ご寛恕を。)
もしかすると、バナナマンは若手時代からの盟友・バカリズムがかつて「アイドリング!!!」で長年グループアイドルと共演するに際して、一部の例外(加入当時最年少だった江渡万里彩を「江渡ちゃん」、番組開始当初のバラエティ担当だった滝口ミラを「ミラっちょ」、ニックネーム呼びされることが多かった森田涼花を「すぅちゃん」など)を除いてメンバーのことをニックネームではなく「名字+さん」で呼んでいたのに倣ったのかも知れません。バカリズムは実際に番組内で「線引きするために名字にさん付けで呼んでいる」と公言していました。「江渡ちゃん」「ミラっちょ」「すぅちゃん」以外にもニックネームが定着していたメンバーは「まいぷる(遠藤舞)」「うめ子(河村唯)」「さかっち(酒井瞳)」「ゆりっぺ(橘ゆりか)」など少なからずいたにもかかわらず、基本的に公式ニックネームや下の名前で呼ぶことはありませんでした。ちなみに、のちに妻となる夢眠ねむとも「そんなバカなマン新春スペシャル」(でんぱ組.incとして)や「アイキャラ」で共演していますが、やはり「ねむきゅん」とは呼んではいなかった記憶があります。(違ったらごめんなさい。)
こうしたバナナマンの姿勢に対して、欅坂46の「欅って、書けない?」〜櫻坂46の「そこ曲がったら、櫻坂?」では、MCの土田晃之&ハライチ澤部が当初から自分たちで決めた呼び名(必ずしも公式ニックネームとは一致しない)で呼んでいました。土生瑞穂の「土生名人」のようにいまひとつ定着せずに終わったものや、菅井友香の「菅井様」のようにたまにしか使われなくなる呼び名が多い一方(それぞれ「土生」「菅井」と名字呼び捨てが定着)、長沢菜々香(公式ニックネームは「なーこ」)の「長沢くん」、米谷奈々未(公式ニックネームは「よね」「よねみん」)の「よねさん」など番組卒業まで定着した呼び名もあります。同じ「ワタナベ」姓では早々に渡邉理佐を「理佐」、渡辺梨加を「梨加」と下の名前で呼ぶようになったほか、特に同姓メンバーがいなかった長濱ねるなども「ねる」と下の名前で呼ばれていました。(1期生に関しては基本的にさん付け、ちゃん付けはせず。2期生には藤吉夏鈴を「かりんちゃん」、山崎天を「天ちゃん」など下の名前+ちゃん付けパターンもあり。1期生の菅井友香がお嬢様キャラで扱われるとき「菅井様」呼びされていたように、2期生でも同じくお嬢様キャラの関有美子が「有美子会長」と呼ばれるなど特定の場合のみ定着するニックネームもあり。)
なお「KEYABINGO!」シリーズで共演したサンドウィッチマンは早々に公式ニックネームを尊重して渡辺梨加を「ぺーちゃん」呼びにしたほか、長濱ねるはちゃん付けで「ねるちゃん」など、さん付け・ちゃん付け・ニックネーム・上の名前・下の名前などかなり柔軟に呼び分けていました。欅坂・櫻坂に関しては両番組ともMCの呼びやすいように呼んでいたのでしょう。
「ひらがな推し」〜「日向坂で会いましょう」のオードリーも日向坂46メンバーのことは、当初こそ本人の意見も取り入れつつ独自のあだ名で呼んでいたものの(佐々木久美→ささく、佐々木美玲→ささみ、など)、一部定着したもの(佐々木久美→キャプテン、渡邉美穂→ミホワタナベ、金村美玖→お寿司、高本彩花→おたけ、など)を除けば基本的に名字呼び捨て・名字+さん付け・公式ニックネーム(高瀬愛奈→まなふぃ、佐々木美玲→みーぱん、など)のいずれかに収斂していきました。(ひらがなけやき時代のKEYABINGO!や日向坂46改名後のHINABINGO!は未見のためそれぞれのMC、サンドウィッチマンや小籔千豊がメンバーをどう呼んでいたかはよくわかりません。ごめんなさい。)
しかしニックネームやちゃん付け・さん付けに加えて上の名前・下の名前を使い分けるなど柔軟な呼び分け方をしている他のMCと違って、バナナマン(特に設楽)は一貫して「名字呼び捨て」または同姓メンバーがいる場合に限って「フルネーム呼び捨て」という原則を守ってきました。それがある時期から齋藤飛鳥のことを、恐らくラジオ(バナナムーン)で「齋藤飛鳥は肝が座ってきた」と評価し始めたあたりから、フルネームの「齋藤飛鳥」呼びではなく「飛鳥ちゃん」呼びに変えました。割とインパクトのある出来事だったので、ファンの間でも話題になっていたように思います。それと前後して齋藤飛鳥はセンターに抜擢され、次世代エース格として扱われるようになるなど急成長を遂げたこともあり、「飛鳥ちゃん」呼びへの変更は大きな転換点だったといえるかも知れません。(もっとも、さすがにかつての公式ニックネーム「あしゅ」「あしゅりん」と呼ぶことはないですし、また齋藤飛鳥本人もこのニックネームを黒歴史扱いしているようなのでこれからも呼ばれることはないでしょうが。)
そんなバナナマンが最近になって「名字呼び捨て」の原則から外れた呼び方をするようになったメンバーがいます。3期生の梅澤美波です。梅澤の場合は下の名前がかぶるメンバー(星野みなみ)がいるものの名字は誰ともかぶらないのですが、いつ頃からかなんとなく「梅」と略して呼ばれるようになりました。「梅」呼びは基本的に設楽が使う(日村はまだ「梅澤」呼びの印象が強い)のですが、「飛鳥ちゃん」以来の呼び方変更に一部ファンはざわついているようです。3期生からセンターに抜擢されたのは現時点までで大園桃子・与田祐希(Wセンター)、山下美月の3人ですが、齋藤飛鳥の前例を考えると、もしかして梅澤美波にも何かあるのではないか……?と気になってしまいます。
もっとも1期生のなかでも最年少組でしばらくキャラが迷走し、選抜とアンダーを行き来していた齋藤飛鳥に比べると、梅澤は選抜への定着が比較的早かった(メンバー1の長身のため同じく長身の新内眞衣と対になるポジションが多い)うえ、学力テスト企画の点数こそ低かったものの基本的に真面目なしっかり者で3期生(場合によっては4期生も含む)のまとめ役といった印象が強く、バラエティでも早くから結果を残しているイメージが強いため、そううまくいくとも限りませんが。というのも、年少メンバーとして加入して伸び悩んでいた齋藤飛鳥には、成長するにつれて徐々に自分を取り繕うのをやめていった結果センターへの大抜擢を経てエース格にのぼりつめるというドラマチックな展開があったのに対し、梅澤美波は身長の関係からセンターやフロントには配置しにくいのに加え、真面目な性格でうまく場を仕切れるため、早くから選抜常連組となりバラエティにも適応していった、いわば「スーパーサブ」「ユーティリティープレイヤー」といった印象が定着してしまったため、そのポジションから脱するのはなかなか難しいかも知れません。ルックス面でかつてのエース・白石麻衣に近いところがあるためその後釜を襲うチャンスがないとも限りませんが、そのあたりまだ未知数といった感じです。
果たして「飛鳥ちゃん」呼びのジンクスに続く「梅」呼びのジンクスはあるのかどうか。今後が楽しみなメンバーです。(まあ僕の推しメンは鈴木絢音、山崎怜奈、久保史緒里、弓木奈於といったあたりなのですが。)



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