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空への憧れ2

1877(明治10)年、日本政府は気球製作に着手しました。開発された契機はちょうどこの頃勃発した西南戦争です。薩摩軍に包囲された政府軍が立てこもる熊本城を援護するため田原坂上空に気球を揚げて「薩摩軍の状況を偵察すること」「熊本城への連絡を通すこと」を目的に陸軍、海軍双方が開発を進めました。

三代広重 「東京名所之内 築地海軍省風船上ゲ」

ご覧の資料は三代目広重が制作した築地で行われた気球の飛行とそれを見学する人々です。三代目広重は文明開化の浮世絵いわゆる「開化絵」を得意としていました。
後ろの絵は1871(明治4)年に竣工した「海軍兵学寮」の建物と思われます。1876(明治9)年に「海軍兵学校」となります。気球の開発の経緯を考えると明治10年以降、絵には桜が咲いているのが見えますので春に描かれたと推測できます。似たような構図で二代目歌川国明が『軽気球之図』という作品を明治10年に描いていますので年代はその頃と考えていいのではないかと思います。
気球には空気を温めて飛ばす熱気球と空気より軽い水素などを入れて飛ばすガス気球があります。絵の気球は空気を温めている様子がないのでガス気球かと思います。『明治期の軍用空中写真(気球写真)に関する研究報告』を読むと「士官学校では気嚢に水素ガスを充填するためのガス発生機も製作した」と書いてあり、やはり水素を用いたガス気球だったと思います。

見物する人々

この気球を見物する人々に目を移すと和服を着た日本人だけでなく清国の人と思われる人物も描かれています。
近代化した日本を学ぶため、明治の頃から日本へ留学する外国人は結構いたようで、明治38年には中国からの留学生は8000人いたそうです。
そして、洋傘をさす人も見られます。明治4年に蝙蝠傘が流行したと書いた書物があります。国産の洋傘が作られるのは明治12年だそうで、絵の年代を考えると輸入された傘かもしれません。

1つの絵からいろいろなことがわかります。
〈参考文献〉
新井 葉子『明治期の軍用空中写真(気球写真)に関する研究報告』

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