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【小説】たぶん、それはきっと愛。(第2話)


涼に会ってから10日が経った。そして、私の生理は来なかった。ほぼほぼアプリがお知らせした日時よりいつも少し前か、ぴったりで来ていた生理が来ない。

生きた心地がしなかった。
私が前月の生理が来たあとに会った男性は涼だけじゃない。
生理予定日より3日くらい前からそわそわと、別に用を足すわけでもなく私は何度もトイレに行った。けれど、下着の色は変わっていなかった。

どこで何を間違えたんだろう。
ゴムをつける瞬間も、終わった後も誰に会うときだって全部きちんと確認した。
大丈夫だったはず。

「もしかしてタイミング?」

不安がよぎり、アプリを開く。時期的にも一番可能性として、思い当たるのは涼だ。
涼と会った日は、妊娠の可能性が一番高い、排卵日を指す卵のマークではない。けれどたしかに、生理予定日から10日前の日時は、妊娠の可能性が一番高いとされるオレンジ色の背景色で記されているわけではなかったものの、決してその可能性が低いわけではない黄色で背景色が塗りつぶされている。

「妊娠 排卵日 タイミング」
「妊娠可能性 高い日」
「排卵日 ずれる」

次々と私の携帯の検索履歴がそんな言葉たちで溢れかえっていく。

埒があかなくて、私は最近の自分の身体の状態を思い出してみた。
生理前特有の下腹部の違和感はずっとある。
そして、PMSが比較的しっかり出る私は、なんだかずっと職場でも、モヤモヤして、イライラしている。
けれど特に吐き気はない。

「妊娠 違和感」
「妊娠 超初期症状」
「妊娠 生理 身体の違い」


私は幾度となく携帯でさらに検索をかける。
けれどどう検索しても、生理前にくるPMSの症状と妊娠超初期症状は似通っているものが多すぎて、当てにならなかった。
不安がさらに不安を呼んで、不安定になる。

そうだ、妊娠検査薬を使おう。
そう思い立って私はさらに検索をかける。

「妊娠検査薬 いつから」
「妊娠検査薬 適切な時期」
「妊娠検査薬 早めにわかる」

とさらに検索をかけたけれど、どの検査薬も適切な診断日は、生理予定日から1週間以上とされていて、私はがっくりと肩を落とした。まだ今日はその生理予定日がきたばかりだ。

「どうしよう。」

居ても立っても居られなくて、その日は全く眠りにつけなかった。
この状況はよくない。どうにかしなければ。

そういえば、私は仕事をする上で、突然発生したトラブルや、前例のないタスクを振り分けられたとき、まずは、その全容を俯瞰してみて、ざっくりとしたスケジュールを立てることで、見通しをつくり、効率よく手順を進められるように計画を立てることが得意だ。そうすることで、自分自身が安心して仕事に取り組むことができ、変な凡ミスをすることも減る。

そうだ。それを使えばいい。

そう思い立って、真夜中に手帳を取り出して、私はとにかく気持ちを落ち着かせようと大まかにスケジュールを組み、少し安心して眠りについた。
そしてその翌日、その立てた計画通り、仕事終わりに深夜まで空いている薬局をはるばる訪れて、いざというときのための妊娠検査薬を手に入れた。
そして帰宅後、家から近くて、できる限り評判のいい産婦人科を探して、オンラインで予約した。いざというときにスムーズに受診できるよう、ちょうど、生理予定日から2週間経った頃の日付は土曜日の午前中にした。
本当は平日の方が予約がとりやすかったけれど、今は会社が忙しくて有給どころではない。苦渋の選択だった。

とりあえずしっかりと準備することで、いくらか心が和らいだ。
大丈夫だ。大丈夫。

そして、生理予定日から1週間が経った。
計画を立てて、しっかり準備はしていたものの、その頃にはもう

「生理こない どうする」
「望まない妊娠 中絶」
「中絶 いつまで」
「中絶にかかる費用」


みたいな文字列が検索履歴に大量に並んでいて、さすがに痺れを切らして私は妊娠検査薬の袋を開いて、とりあえず検査することにした。
緊張と不安で胸がドキドキする音を聞きながら、説明書通りにきちんと手順を踏む。大丈夫。あとは線が出るのを確認するだけだ。

「お願い。出ないで。」

検査中の妊娠検査薬キットに向かって私は思わず手を合わせて祈った。
検査時間が経過するまで目を閉じる。

「ピピピ」

とかけていたタイマーが鳴って、検査時間が終わりを告げた。恐る恐る私は目を開ける。
そこに線は現れなかった。
どうやら、祈りが通じたらしい。
その後も気になってしばらく経ってからもう一度確認したけれど、やはりそこに線は現れなかった。

「ふぅ、とりあえずよかった。」

思わず安堵の声がこぼれる。
とはいえ、冷静になって考えてみるといささか早過ぎた気がする。説明書にも時期が早すぎると適切な診断が出ないと記載があった。あと数日経ってからもう一度検査しないと。
束の間の安堵の気持ちはいつの間にか消えていて、残り1セットになった妊娠検査薬を大切に引き出しにしまった。


そしてその翌日、生理が来た。
予定日から1週間遅れで。

もしかするとと思って、仕事の昼休憩の時間にトイレに行くと、下着が汚れているのを確認できた。

「よかった、、。きた、、、。」

それがわかったとき、私の手は小刻みに震えていて、目には少しだけだけれど涙が浮かんでいた。
人生で生理がくることをこんなにも嬉しく感じた瞬間は今までになかった。
こんなに自分が不安定になるとは思いもしなかった。
もうこんな思いしたくない。強くそう思った。

だから私は、いざというときのために予約しておいた産婦人科の受診を、妊娠を確かめるために行くのではなく、舞の助言を参考に、ピルを処方してもらう目的で行くことに決めた。


産婦人科に行くのは、人生で初めてだった。

そもそも病院に行くこと自体が私はあまり好きではない。
理由ははっきりしていて、何か自分の見つけてほしくない部分を、恥ずかしくて隠していたい部分を見透かされて、丸裸にされそうな気配がぷんぷんするからだ。

だからなおさら、今回は嫌だった。
あくまで、ピルの処方希望の受診だけれど、その理由を見透かされそうで。
私は今回はあくまで、生理が重過ぎて処方したいテイで行こうと思っているのに。

大丈夫。何度も頭で練習した。
準備は完璧だ。

緊張と不安で胸がいっぱいになりながら、私ははじめての産婦人科に足を踏み入れた。
受付で初診の旨を伝えて保険証を渡し、代わりに体温計と問診票をもらって待合室のソファに座る。体温計を左脇に挟み、右手で問診票に記入していく。


ロビーのはじに設けられたキッズコーナーで何人かの小さな子どもたちが楽しく遊んではしゃいでいる声が聞こえる。今日は土曜日の午前中。それなりに院内は女性たちで賑わっている。

そんな様子を横目に見ながら、問診表の記入を終えて、受付に渡して、渡された番号札を手に、再度私はソファに腰かける。混雑しているのか、待ち時間は少し長いみたいだ。

「うわー---ん。かえりたくないー-----。」

急にキッズコーナーで、3歳くらいだろうか。小さな男の子が突然泣き叫びはじめた。その横で、大きなお腹を抱えたお母さんが、「すみません。」とペコペコと頭を下げながら、その子をなだめている。

「家に帰ったら、また家のおもちゃで遊んでいいから。」

「だって、だって、いえにこのおもちゃないもん。うわー---ん。」

泣き叫ぶ声はさらに大きくなる。そして収まることを知らない。
3分くらい経った頃だろうか、受付の女性がその様子を見かねてキッズコーナーに近寄っていった。

「すみません。ぐずっちゃって。」

「いえいえ、全然大丈夫ですよ。」

「このおもちゃよかったら、持って帰っていただいて大丈夫ですよ。」

「いえいえ、それは。申し訳ないです。」

「もし、もう遊ばなくなったとき、また来院いただいた際でも届けにきていただければ。」

「そんな、ありがとうございます。申し訳ないです。必ず返しますから。」

「え、いいの?やったやったやったー。」

気配を感じ取ったのだろうか、男の子が、小さなミニカーを片手に満面の笑みを浮かべている。

「ほんとにほんとにすみません。」

ペコペコと頭を下げる女性の横で、その近くのソファに座っていた女性たちがあたたかい笑みを返す。そんな彼女たちの両手は、それぞれの大きなお腹に添えられている。

ルンルン気分の男の子の手を引いて、その女性が出口まで行くのを受付の女性が見送る。

「ほんとに、ありがとうございました。助かります。」

「ばいばーい!」

そういって、男の子は受付に座っているみんなに盛大に手を振って、外に出ていった。何人かの女性がその男の子に手を振り返して、笑みがこぼれて、そこにはあたたかな余韻が残っていた。

みんな幸せそうだ。


私にはそう映った。おそらく、そこにいる全員がお腹に子どもがいるわけではないのだろうけれど、それでも、あたたかかくて、いとおしい感情が、この空間には溢れている。そう思った。

「子どもを産むというのは、人生において、かけがえのない経験だよ。」

そういえば母が言っていた言葉を思い出す。
もちろん、いいことばかりではない。お金だってかかるし、自分に使う自由な時間だってなくなる。けれどそれ以上に、得られるものと、幸せは大きい。だからこそ、一度は子どもを産んだほうがいい。
母はそう言う人だ。

私が生きている世の中において、結婚、そして、出産することは、女性の幸せとイコールで語られることが多い。というか、それが文句のつけどころのない正義として、絶対的価値観として、人々の脳内に幼いころから刷り込まれている。

そして、時代こそ変わってきているものの、その正義や絶対的価値観からこぼれている女性たちに向けられた目線は、想像以上に冷ややかで、痛みを伴う。

「結婚しないの?」
「子ども産まないの?」

ダイレクトに言われることもあれば、言葉のはしばしに、あらゆる形の隠語として含まれていることも多々ある。その言葉は本当に痛い。

「痛い。」

胸に突如として私は痛みを感じて、息苦しくなった。
私にとって、そのロビーに包まれた幸せのあたたかさが苦しい。
そして、そこに漂う幸せの空気を私が吸うには、甘すぎる。
そう思ったらうまく空気を吸えなくなってしまって、苦しくて、苦しくて、座っていたソファ上で私は少しだけ前かがみにうずくまってしまった。どう考えても私がここにいるのは場違いだ。
息苦しい。。。

「あれ、美奈子ちゃん?」

急に目の前でかけられた声に驚いて私は身体を起こした。

「あれ、加奈先輩!」

「え、美奈子ちゃんだよね?偶然!え、ここで何してるの?」

「先輩こそ偶然です!どうしたんですか?」

突然の出会いに興奮してしまって、2人とも声が大きくなってしまっていることに気づく。

「いやさ、実は私妊活はじめてさ。ちょうど受診終わったところなんだ!今からちょっとそこのショッピングモールに買い物に行こうと思ってて。」

「そうなんですね、、、。」

2人同時に慌てて、声のトーンをささやくかんじに変えて話す。
私も理由を返さないといけないのだろうけれど、どうしても言えなくてまごついてしまう。

「ねぇ、もし、美奈子ちゃん診察終わって、お昼空いてたら、一緒にランチしない?」

「え、ぜひぜひ!もしかすると待たせちゃうかもですけど。」

「ううん、全然大丈夫!私も買い物の用事あるし!終わったら、LINEしてよ!」

「わかりました!」

察してくれたのか、加奈先輩はそう言って、先に産婦人科の出口に向かっていった。その後ろ姿を見送りながら、私は少し安堵した。
救われたと思った。加奈先輩とランチできるならこの空間を乗り切れる気がする。
そう思ったとき、私の番号札の番号が呼ばれた。


看護師さんに案内されて、恐る恐る診察室へ私は入る。
そこには、優しそうな女性のお医者さんが座っていた。

「ピルの処方のご希望でよかったですか?」

問診表を見ながら、優しい声で先生が私に質問してくる。

「はい。」

恐る恐る私は答える。

「差し支えなければ理由を聞いても?」

「生理痛が今、かなりひどくて、それ和らげたいと思ってきました。」

「そうだったんですね。承知しました。」

よかった。言えた。「複数人と寝るために、妊娠しないようにしたくて。」とはどうしても言えなかったので、私は何度も復唱した理由を無事告げることができた。

「生理の周期は今どんなかんじですか?」

ぎくっと私の背筋が震える。

「えぇと。いつもはほぼ狂わずにきてたんですけど、今月は1週間くらい遅れていました。」

「そうなんですね。今までに乱れたことありました?」

「住む場所が変わったり、忙しかったりすると少し遅れ気味だったりするかもしれないです。」

「なるほど。今は少し忙しかったりとか精神的にきつかったりしますか?」

「そうですね。たしかに、ちょっと最近仕事忙しかったかもです。」

「そうなんですね。ピルの処方ははじめてですか?」

「はい。」

「そしたら、もろもろ今から説明していきますね。」

それから、私はピルについての基本的な説明を受けた。
飲むことがはじめてになるので、最初は低用量のものから、経過を確認するために最低限の処方になること。
ピルを飲むことで、疑似妊娠の状態になるので、吐き気などそういった副作用が出る可能性があること。
違和感を感じたら、飲むのをやめること。

「お大事に。」


一通り診察が終わって、私は無事、ピルを処方してもらうことができた。
会計を終えて、産婦人科の外に出る。

時は9月の終わり。季節は秋に移り変わろうとしていた。
「ふぅ」と私は大きく息を吐きだした。
吐き出した息に、それまで感じていた不安と緊張をすべて乗せた。

今日の天気は快晴だ。
そして「すぅ」と大きく外の空気を吸い込む。
暑すぎもせず、冷たすぎもせず、ちょうどいい秋の空気は澄んでいて、院内の空気みたいに甘くもなくて、けれど味もしなかったことに、私は心から安堵した。

「そうだそうだ、加奈先輩に連絡しなきゃ。」

そう思い出して私は、先輩にLINEで電話をかける。

「すみません。遅くなりました!今ちょうど診察終わりました。」

「あ、そうなんだ!私もちょうど買い物終わって、会計するところなんだ!」

「そうなんですね!よかったです!」

「もしよかったら、こっちこない?ショッピングモールに新しくできた気になってたカフェがあるんだ!」

「いいですね。そしたら私今からそっちに向かいます!」

そして私と加奈先輩は、ショッピングモールにできた真新しい、レトロな雰囲気が漂うおしゃれなカフェで合流した。
このお店では生パスタが人気らしい。席に座って、お互いに好きな味をチョイスして料理を待つ。

加奈先輩は、年齢が私の1つ上の29歳で、2年前、大学生の頃から約10年付き合っていた今の旦那さんとめでたく結婚した。
先輩の性格はとてもおおらかで、ちょっと抜けているところもあるのだけれど、そこが先輩のきれいな見た目と反して、おちゃめでかわいらしくて、職場の人気者だ。お酒を呑むことが大好きで、結婚する前も結婚してからも幾度となく私を呑みに誘ってくれて、私の面倒をよく見てくれる、とても大好きな先輩である。

「先輩、妊活はじめたんですか?」

自分が産婦人科にいた理由にスポットがあてられるのが怖くて、私は素早く先に先輩に質問した。

「うん、そうなんだよね。うち、付き合っている期間は長かったけど、籍入れたのは最近じゃん?籍入れて、すぐにできるかなって、期待してたんだけど、気づいたら2年経っちゃっててさ。」

話しはじめた先輩の前でうなずきながら、カラカラに乾いた喉をうるおそうと私はお冷を飲む。

「それでね、私も旦那もいつか一軒家に住んで、大家族になるのが夢だから子どもは3人くらいは欲しくて、、、でも、そう考えると、タイミング的にも20代のうちに1人目はやっぱり産んどきたいなって話になって、そしたらもう私先月で29になったでしょ?だから、このまま自然にできるのを待つのも猶予がないなって思えてきて妊活はじめることにしたんだ。」

「そうだったんですね。全然知らなかったです。」

「そうそう。なかなかそう簡単に人に話せる話でもないしね。ちょうど半年くらい前からはじめてて、有給とりながら、病院通ってるんだ。」

先輩いわく、先輩の妊活の段階はまだ初期らしい。半年前に夫婦で受診して、特に互いの身体に問題があるわけではないことがわかったので、まずは排卵のタイミングに合わせて行う段階にトライしているらしい。

「でもさ、私は会社勤めで、土日休みだけど、うちの旦那飲食業だからさ、休みがあっても平日で、やっぱり休みが合わないとそれだけで、なかなかタイミング合わないし、どっちかが無理する形になっちゃうから難しいんだよね。」

加奈先輩の旦那さんは、大きくて、めちゃくちゃ有名なわけではないけれど、知る人ぞ知るみたいな通な人に人気の、少し高級層向けのイタリアンレストランを経営している。
料理が苦手な加奈先輩に代わって、家で料理をしているのは旦那さんだ。一度おうちにお邪魔したときに食べさせてもらったけれど、今まで食べたことないくらいにおいしかった。

「でもね、無理してでもやっぱり子どもは欲しいから、合わせよう合わせようってタイミングを強く意識しはじめると、それが義務みたいになっちゃってきてさ。今までみたいにうまくいかない日も多くて。。。」

加奈先輩が、浮かない顔をして、言葉に詰まっている。


「お待たせしました!」


きっと料理が出てくるタイミングにランキングを付けるとするなら、最下位といっても過言ではないタイミングで、元気はつらつとした店員さんが注文した2つの生パスタを持ってきた。
少し気まずい雰囲気になったので、2人もそそくさと出てきたパスタにフォークを付ける。
無言のまま、このまま時間が流れてしまうのはよくないと思って私は彼女に言葉をかけた。

「妊活って、難しいんですね。私は詳しくはわからないけれど。。。」

「うんうん、ごめんね。こんな相談しちゃって。でも話せてすこし楽になった。まだね、初期段階だし、気長に頑張ろうって思ってるんだ。もしだめだったら、人工授精とか、体外受精とかそういう話にもなってくるらしいんだけど、先のこと考えてても不安になるだけだし、とにかく今は、できることを頑張ろうってかんじ!お酒も今我慢して辞めてるし!」

そういえば最近、加奈先輩からの呑みの誘いが少なくなっていることに私は言われてみてはじめて気づいた。もちろん一緒に居酒屋に行くこと機会がないわけではない。けれど、私はいつものようにお酒を呑んでいる横で、先輩は、「最近ちょっとお酒が残るようになっちゃって。」と言って、ウーロン茶をずっと飲んでいた。全然気がつかなかった。

「そんな理由があったんですね。。なんというか、私には何もできないけれど応援してます!」

「ありがとう!そう言って味方してくれるのうれしい!でもねやっぱり落ち込むことも多いんだ。あぁ、また生理がきちゃったって、また1か月と時間が経っていく感じ?うまくいかないね。。。」

いつも笑っている先輩の顔がとても悲しそうで、私まで悲しくなった。
シンプルに妊活がうまく行ってほしいという気持ちと、そんな先輩を前にして私は一体何をしているんだろうという困惑で頭がいっぱいになる。

「何かできることがあったら言ってくださいね!」

「うんうん、ありがとう!で、美奈子ちゃんはどうして産婦人科にいたの?」

ぎくっとまた、私の背筋が震える。

「えぇと。最近仕事忙しくて生理が重くなっちゃってて、それでピルを飲んでみようかなと思って、、、。」

しどろもどろになりながらも私は精一杯の嘘を精一杯の作り笑いを浮かべながら先輩に伝えた。

「そうだったんだ。。一緒の職場で働いているのに気がづかなくてごめんね。美奈子ちゃんも無理しないでしんどいときはいつでも相談してね!」

痛い、胸が痛い。お願いだから優しくしないで。私は先輩みたいに優しい人じゃない。その優しさが痛い。

そのあとは、互いにたわいもない仕事の話に話題が切り替わって、お互いにパスタを食べ終えて、私はコーヒーと、先輩はアイスティーを食後に飲んで、それぞれ帰路についた。


家について、私は一人暮らしの部屋の中に入る。とにかく味のしない空気を吸いたくて、私は部屋の窓を開け放った。そして、ベッドに倒れ込んで、大の字になって天井を見上げた。

「疲れた。」

思えば、生理がくる前、生理がこない1週間、そして今日の産婦人科受診と、感情の起伏の多い、ここ2週間だった。ただでさえ仕事も忙しい。それなのにプライベートの時間までもが落ち着かなくて、身体と心が悲鳴を上げている。

「私、お疲れ。」

そう独り言をつぶやく。窓からは味のしない空気が心地よく流れて部屋の中に入ってくる。
秋の風は心地いい。額に汗をかくこともなければ、ぶるぶると凍えることもない不快な感情が一切沸かない絶好の季節だ。

一緒に倒れ込んだバッグの中からおもむろにタバコとライターを取り出して、私は窓の外のベランダに出た。
気づいたら日はあっという間に沈みかけていて、あたりは薄暗くなっている。
カチッと音を立ててライターの火をタバコにつける。

「ふぅ」

私はここ最近で一番大きく、そして深い息を吐く。家の前にある公園で色づきはじめた紅葉が心地よい秋の風に揺れている。

「ふぅ」

タバコを吸いながら何度か息を吐いて、私は目線を部屋の中にあるバッグにうつす。バッグの中から、今日処方してもらったピルが入った小袋が私を見つめている。

「一体私は何をしているんだろう。」

そしてさらに目線を部屋の奥へと移動して、残った1セットの妊娠検査薬が入った引き出しを見つめる。

「一体私は、、、。」

先輩が私に言った一言が頭によみがえる。

「あぁ、また生理がきちゃった。」

その言葉を目の当たりにしたとき、私はひどくうろたえた。
必死で平静の振りを装ったけれど、心の中は荒れ狂っていた。

私は半年前から、排卵日を避けようと生理周期をアプリで管理し、生理が来ることを今か今かと待ち遠しく思い、妊娠検査薬の線が出ないことを手を合わせて心から祈り、そして、生理がきたあかつきには、うれし涙を流して心から安堵している人間である。

そんな私とは正反対に、加奈先輩は半年前から、排卵日のタイミングを逃すまいとしっかり管理し、生理が来ないことを心から願い、妊娠検査薬に線が浮かびあがることを今か今かと待ち続け、そして、生理がきてしまったあかつきには、落胆のため息を吐いている人間である。

そんな先輩は天で、そんな私は地で
そんな先輩は月で、そんな私はすっぽんで

天と地、月とすっぽん、、半年間、同じ時、同じ世界を生きている人間とは思えないくらいにその差異が大きすぎて、私は目の前がくらくらした。受け止めることができなかった。

「ふぅ」

私はまた、白い息を吐く。
公園の色づきはじめた紅葉は、あっという間に落ちてしまった日のあとに、あっという間にやってきた暗闇の中でもう、色が見えなくなっている。

「私は一体、どんな顔でこれから先輩に接すればいいのだろうか。」

そんなことを考えていると、あっという間に私の心の中も暗闇になって、足元が見えなくなる。

「ふぅ」

いつのまにか4本も吸っていたらしい。
部屋の明かりに照らされた灰皿の上に置かれている、終わりを告げたタバコの吸い殻の数を数える。
少し肌寒くなってきた。
吸っていた5本目のタバコの火が消え終わったタイミングで、私は部屋の中に入った。

キッチンに移動して、空のコップに水道水を入れて、一気に飲み干す。

「あぁ、また生理がきちゃった。」
そう言った先輩の、悲しそうに手元を見つめる顔が頭から離れない。


そして、またそのコップに半分くらいの水を注いで部屋に戻る。
バッグから今日処方されたピルを取り出した。

どうしようもない暗闇の中で足元が見えなくなったとき、目の前に「現実」という名の考える余地のない、やるべきことがあるというのは、非常に便利なことがある。


白い錠剤を梱包袋から取り出して、手のひらで転がす。

今の私にはそれを飲むという選択肢がある。
そして今の私にはそれを飲むこと以外の選択肢がない。

私は生理がくるのを待ちわびていて
先輩は生理がこないことを待ちわびている。

いろんな言葉といろんな感情が渦巻き合っている頭の中をすべて流してしまおうと、私は手のひらで転がした錠剤を口の中に放り込んで、一気にコップの水を飲みほした。

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<第1話>

<第3話>

<第4話>

<第5話>

<第6話>


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