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【虐待の原体験を、私は糧にしない】

定期購読マガジンをはじめて、先月で1年が経過しました。ここまで続けてこれたのは、いつも読み続けてくださる皆さまのおかげです。本当に、ありがとうございます。

月額で読み続けてくださっている方々はもちろんのこと、単体記事を購入してくださる方々にも、重ねてお礼を言わせてください。
月額購読は、はじめたばかりの1年前に比べるとおよそ2倍の方々に読んでいただけるようになりました。「読み続けます」と声をかけてくださる方。そっと応援してくださる方。そんな皆さまからの「スキ」通知に並ぶアイコンを見ると、不思議なほど力をもらえます。

アイコンはあくまでも名刺代わりのようなもので、しかしその後ろ側には確実に”ひと”がいます。そのことを、この2年書き続け、読み続けていくなかで痛いほど実感しました。
noteに限らず、あらゆる場面で目にする文章のなかには、くっきりとその人の心象が映し出されています。表に出にくいか出やすいかの差はあれど、心象風景が一切反映されない文章というものを私は知りません。Twitterの短い文面であったとしても、隠しようのないそれは滲み出るものです。そのたびに、私が日頃やり取りさせていただいている方々の温かみをひしひしと感じています。

当初、この定期購読マガジンは、収益の半分を児童虐待防止運動に携わる『オレンジリボン』に寄付していました。しかし、私自身の大きな環境の変化もあり、経済的に困難な状況に立たされたことにより、その公約を取りやめにさせていただく旨を今年1月にお伝えしました。

まずは自分の生活の基盤をつくるのが先。そう思い、このような判断に至りました。その後も変わらず読み続けてくださる方々のおかげで、私は今もこうして書く力をいただいています。

現在『オレンジリボン』に寄せた寄付金の合計は、33,000円。1年間で割ると、月に2,750円の計算になります。この金額を高いと見るか安いと見るかは人によって様々でしょう。それでも私にとって、これがこの1年間の精一杯でした。
虐待被害の現状が、コロナ禍により悪化の一途を辿っていることはわかっています。焼石に水。そんな言葉が何度も浮かんでは消え、幾度となく奥歯を噛みしめました。しかし、同時に相反する想いも強く湧いてきました。例え焼石に水だったとしても、その水を携えて立ち向かおうとする人が10人いたら?100人いたら?1000人いたら?それはもう、数滴の無意味な水ではなく、問題解決に向けて大きな前進となり得る力だとも思うのです。

諦めない。そう決めて書きはじめました。安心安全な環境で生活できている今の私だからこそ、できることがある。渦中にいる人、特に子どもたちには、立ち向かう力がない場合がほとんどです。渦の中心にいればいるほど、問題を問題として捉える力は弱まってしまいます。
自身を「被害者」と認識することは、非常に強い痛みを伴うものです。そこからようやく問題解決に向けて動き出せるとわかってはいても、理性と感情は別物なのです。

今年引っ越しをした際、市役所で住民票の閲覧制限をかける手続きをしました。両親からの虐待被害の実態を訴え、手続きのため警察署にも行きました。無事に手続きが完了し、閲覧制限をかけることが決定したと通知がきたときには心底ホッとしたものです。しかし、その文書に書かれていたある言葉に、私の心は一時色を失いました。

被害者として確認しましたので、住民基本台帳事務における支援措置を実施します。

”被害者”

この言葉の持つ威力を加害者こそが感じとってくれるなら、どんなにか救われるでしょう。自身の記憶に残る虐待の日常から、被害者と判断してもらえるまでに、35年かかりました。この感情を私は未だ、うまく言葉にできません。あまりにも強い感情を無理に言葉にしようとすると、意図せず周りを傷つけてしまう。その恐ろしさも、この2年で幾度となく学びました。
「書くこと」「書かないこと」
この2つを取捨選択する。そのために必要な自制心や理性を育てることもまた、私にとって必要なことでした。

現在の私の日常は、経済的な問題さえ除けば、比較的穏やかでやさしいものです。子どもたちと離れて暮らすジレンマはあるものの、月に2度ほど泊まりがけで会う時間をつくれていることが大きな支えになっています。

虐待の後遺症は根強く、未だ症状に振り回される日々は続いています。それでも敢えて自分自身のために言葉にするのなら、私は今現在、「虐待の渦中にはない」のです。決して後遺症の辛さを軽いものとして捉えてほしいわけではありません。しかし、真っ只中にいるときの地獄とは、やはり比べものにならないのです。

美味しいものを食べたら、しあわせだと感じます。薬の力を借りれば、眠れる夜もあります。読みたい本を読み、書きたい文章を書いています。会いたい人がいて、守りたい命があります。もう誰も、私を殴ったり蹴ったりしない。「お前なんか要らない」と言われたり、夜に怯える必要もない。嫌なことを「嫌だ」と言い、すきなものに「すき」だと言う。自分の意志を持つ自由を許された私は、今、間違いなく幸福であると思うのです。

辛い夜もあるし、朝がこなければいいと思う日もあります。それでも、何だかんだでこの年までしぶとく生き抜いてきたのだから、これからもそうやって私は歩んでいけるのだと、今はそう思えています。それもこれも、私の体験を文章を通して知った方々が、口を揃えてこう言ってくれたからです。

「あなたは、悪くない」

被害者が一番ほしいのは、おそらくこの言葉です。加害者は自身を守るために、被害者に巧妙に罪悪感を植え付けます。それは虐待被害でも性被害でも、いじめでも同じことです。私は、この言葉をかけてもらえるたびに「生きていていいんだ」と思えました。今まで大嫌いだった”自分”という存在、”生そのもの”を、ようやく肯定してあげられるようになったのです。

体験をカミングアウトすることは、大きな負荷も伴います。だから、誰彼に無責任に勧められるものではありません。また、カミングアウトすることだけが正義だとも思っていません。口外する自由と同じように、口外しない自由も尊重されるべきだと思っています。ただ、私は書くことによって救われました。見たくないニュースが流れるたびにチャンネルを変えていた自分と向き合うために、自分という人間のルーツを見つめ直す覚悟を持って表で書く決断をした2年前の春。あのとき一歩踏み出した自分に、今は「よくがんばったね」と言ってあげたい気持ちです。

これからも日々色々なことがあるでしょう。だからこそ私は、書き続けます。虐待の渦中の苦しみ。後遺症の苦しみ。それらがもたらす生活への影響と支障。時間をかけて向き合い、自分の言葉に落とし込む。今の私には、その時間と自由があります。同時に、痛みを抱えながらでも感じられるしあわせはあるのだと、ごく普通の日常はこんなにも尊いのだと、併せて伝えていきたいです。
幸福だけ、不幸だけ。そんな人生はおそらくあり得ません。私には私の地獄があった。それと同じくして、私の幸福もたしかにあったのです。それは今も、現在進行形として。

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きれいなものを見ると、心が喜びます。苦しいものを見ると、心が悲しみます。その感受性を棄てずに生きられる人が増えれば、痛みはきっと減らせます。書いて、伝える。それが今の私にできる唯一のこと。どうか無理のない範囲で、気が向いたときだけでもいいので、一緒に考えてくださると嬉しいです。

理不尽に流される子どもの涙を、もう見たくない。同じように感じてくださる方々がたくさんいることを、今の私は知っています。義務感ではなく、底から込み上げてくる「書きたい」が私を支えています。

1年間定期購読マガジンをお読みいただき、本当にありがとうございました。新たにはじまる2年目の春。どんないろの海を描くのか、どんないろの空を描くのか。それはこれから、毎日を生きるなかで向き合っていきます。
自分の言葉で書く。決めているのは、それだけです。

虐待の原体験を、私は糧にしない。私が糧にするのは、家族以外の他人が与えてくれた温かい力です。これからも自分の意志で、自分の言葉で、伝えたいものを書き続けます。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。


2021年5月5日。碧月はる。

過去にnoteで書いた記事を、リライトした上で個人ブログに掲載しています。よろしければそちらも読んでいただけると、とても嬉しいです。

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