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「きれいごと」を諦めない大人でいたい。

「そのことがずっと不安で、怖かったんですよね?」

返事をしようと思ったのに、うまく声が出なかった。そのぶん、何度も何度も頷いた。
マスクのなかに流れ込む滴を止めることができなかった。そんな私に、白衣を着たその人はそっとティッシュを差し出しながら、私が一番聞きたかった言葉をくれた。

「大丈夫ですよ。だってあなたは、こんなにもお子さんを大切に想われているじゃないですか」


お日様がぎらぎらと照りつける熱い日、私は、およそ10年ぶりに精神科外来に足を運んだ。

初診の受付をする際、記入する用紙があった。そこには、【ご本人様以外の緊急時連絡先】を書く欄があった。それも、二人ぶん。そこに書ける名前が全く浮かんでこない代わりに、名前を書きたくない人たちの顔が鮮明に浮かんだ。

「ここ、どうしても書かなきゃだめでしょうか。いないのですが……」

「はい、誰でもいいので書いてください」

ほんの少し、絶望的な気持ちになった。ここに家族の名前を書ける見も知らぬ誰かを、心の底から羨ましいと思った。携帯画面を開き、病院を受診するよう強く勧めてくれた友人に、すがるような思いでメッセージを送る。

『緊急時連絡先に名前書ける人いなくて、住所と名前と電話番号、書いてもいい?』

すぐに「いいよ」と返事がきた。その三文字を見て、少し心が落ち着いた。


ソファに座り直し、じっと順番を待つ。中庭に生えている木々の足元に咲く白い小花を眺めていると、意識がふっと遠のきそうになった。貧血のそれと少し似ている。慌てて自身の腕を強く掴み、現実に引き戻した。

逃げたい気持ちが時間を追うごとに強まっていく。見たくないもの、話したくないもの、認めたくないもの。それらが複雑に絡まりあって、内部で腫れあがっている。逃げたい。でも、それなら此処に吐きそうになりながら辿り着いた意味がない。

「3番の方」

ソーシャルワーカーさんに呼ばれ、バックグラウンドや大まかな来院の理由を答えられる範囲でどうにか答えた。緊張のあまり、声がうまく出ない。そんな私に、威圧的にならないように気を配りながら度々聞き直してくれたその人は、私の質問に力強く答えてくれた。

「ここでお話したことが、旦那とか親族とか、両親とかに漏れることは、絶対にないんでしょうか?」

「それは絶対にないです。ご本人の了承なしには、この病院を来院されたことさえもこちらが漏らすことはあり得ません。だから、大丈夫ですよ。安心して、何でもお話してくださいね」

”大丈夫ですよ”と言ったときの口調は、実にきっぱりとしていた。その口調と穏やかな口元は、不安で押しつぶされそうだった私に微かな元気をくれた。


過去を口にするとき、未だに背後から声がする。

「誰にも言うな。言ったら、もっと酷いことになるぞ」

過去にしか存在しない声に喉を塞がれるなんて、くだらない。それが本当なら私は、とうの昔に酷いことになっているはずだ。

虐待が明るみに出て困るのは、虐待した側だ。された側じゃない。だからあらゆる脅しを用いて子どもの喉を塞ぎにかかる。声を上げる気力を、根こそぎ奪い尽くすまで。でももう、私は子どもじゃない。私は大人で、問題に立ち向かう力があって、声を上げる気力も取り戻した。だから私は、もう黙らない。


診察室にいたのは、女性の先生だった。緊張しているとき、相手の顔を正面から見れない。見るのが怖いんじゃない。見られるのが怖いのだ。コロナ対策で透明の大きなビニールが垂れ下がっている。その薄い膜が、女性の先生であることと同じくらい、私にとっては安心材料でもあった。

簡単な自己紹介のあと、先生が色々な角度から質問してきた。

「今困っていることは何ですか?」

「眠れなくて、フラッシュバックが強くなってしまって。そのせいなのか、時々記憶が混乱します。誰かに追いかけられているような気になるけど、後ろを何度振り返っても誰も居なくて、でも怖くて振り返ってしまいます」

「フラッシュバックの内容はどのようなものですか?」

「昔、両親に虐待されていて。そのときのことです。あと、家に帰りたくなくてふらふらしていたときに、怖い目にあって。それもよく出てきます」


ぐっと息を飲みながら、「虐待されていた」と一息に口に出した。その瞬間自身の腕に食い込んだ爪痕は、のちに私の左腕を真っ赤に腫らした。
後ろを振り返ったら、父親がじっとこちらを見つめているかもしれない。どうしよう。言ってしまった。言ったらだめなのに。

診察前に抱いていた強い意志が、呆気なく吹き飛ぶ。すりこまれた呪いは簡単には解けなくて、恐怖がじりじりと近づいてくる。
ぐるぐるとした吐き気に襲われ、呼吸が乱れる。そんな私の様子を見て、先生は静かに言った。

「今まで他の病院でも言われたことがあるかもしれないけど、これはとても大切なことなので言いますね。虐待のことにしても、それ以外のことにしても、あなたは何も悪くないし、汚されてもいません。あなたという人間の尊厳は、今も昔も保たれています


思わず、顔を上げた。先生の顔と幼馴染の顔が、心のなかで重なった。


”お前は、悪くない”


当時から幾度となく言ってくれた言葉。再会してからも、ことあるごとに伝えてくれる言葉。それと同じ台詞を、病院の先生が言ってくれた。私という人間の尊厳は保たれている、と。汚されてなんかいない、と。そう、言い切ってくれた。

そっと後ろを振り返った。そこにはピンク色のドアがあるだけで、誰も見張ってはいなかった。父親も母親も、ここにいるはずがない。私は狭い個室のなかで、病院が掲げる守秘義務のなかで、ちゃんと守られていた。


私の呼吸がおさまった後、記憶の混乱について話をした。

「意識がない時間があって。でもその間、ちゃんと家事をしたり育児をしたりしていて。でも覚えてないから、子どもとの会話が噛み合わなくて、覚えていない間自分が何をしているかわからないのが、とにかく怖いんです」

こうして書いてみても、何とも支離滅裂な説明だ。それに対して先生は特に動じることなく、ゆっくりと答えてくれた。

「記憶がない間も、あなたの意識はどこかで繋がっています。だから、あなた自身が望まないことや突拍子もないことをする可能性は、ほとんどないと思って大丈夫です」

「意識がない間、子どもたちを傷つける可能性はないってことですか?」

「そのことがずっと不安で、怖かったんですよね?」

返事をしようと思ったのに、うまく声が出なかった。そのぶん、何度も何度も頷いた。

「大丈夫ですよ。だってあなたは、こんなにもお子さんを大切に想われているじゃないですか」

次々に溢れてくる滴を止められなかった。拭いもせず垂れ流した水滴は、マスクをじっとりと濡らした。それでも、その不快さよりも圧倒的な安堵が勝っていた。

「もし、もしも、親と同じようなことをしてたら、どうしようって……」

言葉に詰まりながらそう漏らした私に、先生は頷きながら言った。

「そんなことは絶対にないです。あなたは今まで、どうにかして周りを傷つけまいとして生きてきた。刃はすべて自分に向けてきた。そういう人は、例え無意識化だとしても安易に人を傷つけることはありません。ただそのぶん、ご自身に刃を向ける心配はあります。だからそうならないよう、自分を大切にする練習をしましょう。ゆっくりいきましょう。一気にたくさんを話すのは疲れてしまうから、ゆっくり進めていきましょう」


昔に比べると、これでも随分と自分を大切にできるようになったと思っていた。でもどうやら、追い込まれた状況に陥ると途端に昔の自分が顔を出してしまう癖があるらしい。

自分さえ我慢すれば。自分さえ黙っていれば。自分さえ頑張れば。

己に蓋をすることで凌ごうとするその癖は、あまりにも悪手だ。その手法を取ればたしかに一時的には物事が解決したかに見えるが、遅かれ早かれ限界がくる。私は私という人間に対して、もっと真摯に向き合う必要があるようだ。

痛み、悲しみ、苦しみ、怒り、憎しみ。

これらに対する感覚が、通常より鈍麻しているらしい。自分を大切にする練習がどのようなものなのか、今はまだわからない。ただ、その訓練を通して人との関わり方にも良い影響が出るであろうことは想像に難くない。


記憶が飛んでしまうことに対する恐怖が消えたわけではない。しかし、専門医が「大丈夫」と言い切ってくれた事実を素直に受け止め、息子たちはきっと大丈夫、と思うようにしたい。不安は不安を呼ぶ。自身の心の内側に、少しずつでも「大丈夫」を増やしていきたい。


過去に追いかけられる。記憶の糸が絡みつく。でもそのたびに、それらに抗う術を私が身につければいい。逃げるのもいい。でもどうしても逃げ切れないのなら、思い切って迎え撃つ。過去は所詮、過去だ。今じゃない。私が虐げられているのは、”いま”ではない。

虐待されていたとき、私はずっと丸まっていた。ダンゴムシのようにぎゅっと身体と心を縮めて、ひたすらにじっとしていた。でももう、ぐっと背中を伸ばしていい。伸ばした背中や腕は、もう誰にも打たれない。仮に打たれることがこれから先あったとしても、今の私には”丸まる”以外の選択肢がある。私は、それを知っている。


大丈夫。私は悪くない。
大丈夫。あなたも悪くない。


虐待された側が”悪い”と感じる必要なんて、一ミリもないんだ。


虐待は心を殺す。でも、おとなしく殺されてやる道理なんてない。跳ね返す強さを、きっと誰しも持っている。今すぐじゃなくていい。ゆっくりでいい。いつの日か、笑って生きられたなら。

”生きる”と”生き抜く”は違う。後者はより、容易くない。でも決して不可能じゃない。

どんな過去があっても、どんな環境で育ったとしても、幸せになる権利はある。この言葉が「きれいごと」と言われない世界をつくる。そのために、私たち大人がいるんだ。


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