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秋空の下、想いごと。

「きょうね、おやすみしたいの」

我が家の息子たちは、集団生活があまり得意ではない。長男も次男も、月に3~4回は「休みたい」と訴えてくる。そのほとんどが月曜日で、休み明けが憂鬱なのは大人も子どもも変わらないのだなぁ、と思う。

「そうかぁ。何かあったの?」
「つかれちゃったの」

来月に控えた運動会の練習に疲れたのか、週末の兄の予定(バスケ)に振り回されて疲れたのか、その両方か。いずれにしろ、「つかれた」という言葉が出てくるとき、本当に疲れているのは大抵身体ではなく心のほうだったりする。

「じゃあ、今日はお休みしようか」

そう言った途端、小さな身体がぴょーんと跳ねる。

「わぁい!おやすみ、おやすみ!おかあさん、なにしてあそぶ?」

”休みたい”んじゃない。”お母さんと遊びたい”だけなのだ。もっと言えば、”お母さんといたい”だけ。毎日傍にいてやれない。その罪悪感が、ちくりと胸を刺す。

「ちびは何がしたい?」

しばし悩んだ後、元気よくちびが答えた。

「おかあさんと、おでかけー!!」

やっぱり充電が足りていないのは、心のほうらしい。


私自身、ここ最近酷く疲れることが続いていた。それもまた、身体がというよりは心の側の問題だった。ぼうっとしている間も、脳内は常にフル回転で動いている。そして、思考そのものがマイナスに傾いていると、解決に至る糸口を見つけるためではなく、同じところをぐるぐると回っているだけの思考回路になってしまう。
”どうしよう、どうしよう”と悩み続けたところで、答えなんて出ない。そうとわかっていても、考えるのをやめられない。消耗した頭で何かをしようとしても、効率は下がる一方だ。

このままじゃ仕事なんてできない。どうしよう。
このままじゃ自立なんてできない。どうしよう。
病状を正直に明かしても雇ってくれるところがあるのか?
息子たちは本当に大丈夫なのか?
これはいつまで続くのか?私は一生、このままなのか?
どうしよう?


精神疾患に対する差別意識は、未だ根深い。旦那の父親に言われた台詞を、今でもはっきりと覚えている。

「精神科に通っていた人間の言うことなんて、信用できない」

嫁である私にそう言った父親に、旦那は何も言わなかった。暴力とは、何も殴る蹴るだけを指すものじゃない。言葉の暴力が人を抉る痛みは、想像以上に強い。私がこの台詞を言われて、もうすぐ10年が経つ。それなのに、悲しくなるほど覚えている。夜の9時過ぎで、長男は眠っていて、畳の上に座り込んでその暴言を受け止めた。溢れる涙を拭ってくれる人は誰もいなかったから、一人きりで拭った。逃げ込んだトイレの個室のなかで、一人で。


経験は蓄えられる。良くも悪くも、その蓄えを元に人はあらゆる物事を思考する。経験上、精神疾患に対する理解や思いやりに満ちた職場に出会ったことがない。また、身近な人間ほどとんでもない暴言を投げつけてくる人が多かったから、そういう人が多い、という良くない刷り込みが私のなかにはある。ただ、最近その刷り込みに関してはだいぶ和らいできている。それはひとえに、此処で出会った方々がかけてくれる温かい言葉のおかげである。


それでも不安はどうしたってなくならない。どろどろに膨れ上がったそれに飲み込まれないよう踏ん張り続けることに、少し疲れてしまっていた。そんな私の心と、ちびの心が重なったのかもしれない。「やすみたい」と言ったちびの言葉が「休もうよ」に聞こえたのは、おそらく気のせいではないと思う。


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