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自分の感覚を信じて進む

Twitterを見ているのは楽しい。何かと便利だし、いろんな意味でロマンもある。だけどふと、怖いと感じる瞬間があった。そのことについて、少し書き残しておこうと思う。

Twitter上に魅力的な言葉や作品を流したことで、大きな舞台に引き上げられて輝く人を見ると、すごい時代だなーと思う。例えばTwitter発の書籍なんて、もうごまんとあるんじゃないだろうか。Twitterを始めるまでは、そんなサクセスストーリーの世界があることを知らなかった。

インターネットが普及していなかった時代でも、別の手段や経路で自分からアピールしたり、偶然誰かの目に留まったりして、世に出る人も大勢いただろう。でも、まぶしい才能を持っていても残念ながら注目される機会がなかった人たちも大勢いたはずだ。そう考えると、やっぱりインターネットの力は計り知れない。

Twitterには、膨大な数の言葉が渦巻いている。

あの国の大統領も、政治家も、企業の中の人も、過激な思想家も、芸能人も、一般人も、高齢者も、未成年も、そこではあらゆる人の価値観があらわになり、雑な言い方をすれば、何でも垂れ流されている。ためになる情報、根拠のないデタラメ、誰かのための真摯な祈り、他人を徹底的に攻撃する声、繰り返される日常のひとコマ、などなど。

私も少し前までは、独り言を吐き出したり、ニュースに関する自分なりの意見を発信してみたり、細々とつぶやいていた。それが少し前から、つぶやくことからは遠ざかり、ただ眺めていることが多くなった。たまに思い出したかのようにつぶやくことはあっても、基本的にはnoteの投稿をシェアし、気になったツイートをいいねかリツイートするくらいだ。

これは、数年前に私がFacebookに飽き始めた頃の傾向と似ている。

Facebookを始めたばかりの時は、定期的に自分の近況や出来事を更新し、写真をあげたり、友達とコメントし合ったり、普通に楽しく使っていた。それが不意に冷める瞬間が来て、自分のことを投稿しなくなり、友達の投稿にいいねを押すことも徐々にやめていき、半ば義務的にメッセージを送っていた友人・知人の誕生日もスルーするようになった。今ではたまに開いて眺める程度だ。

やはりというべきか、私の中でTwitterも同じ運命をたどりつつあるようだ。初めてからまだ2年も経っていないから、Facebookより冷めるのが少し早かったことになる。でもTwitterを眺めてしまうクセはなかなか抜けない。

先日、そんなTwitterを惰性でぼーっと眺め続けていた時、「怖い」と思った瞬間があった。怖くなり、落ち着くためにひとまずnoteへ逃げてきて、今これを書いている。

私にとってnoteが居心地がいいと感じるのは、「静か」だからだと思う。自分の言葉と向き合えるし、他の人たちが書いた素敵な記事をゆっくり読み進めていけば、丁寧に紡がれた言葉たちにほんのり癒やされる。

Twitterを怖いと思ったのは、その膨大な言葉の渦の中で、一瞬思考停止しかけた自分に気づいたからだ。

Twitterを放浪していると「これからは個人の信用の時代だ」とか「もうすぐ評価経済社会が来る」とか、そういう機運が高まっているように見受けられた。あまりにそういう声が熱っぽく流れているのを見ているうちに、一瞬「へ~、そうなのか~」と思いかけてしまったのだ。

危うく第三者の思考に流されかけた時、頭の中でかすかな警報音が鳴り響いてハッとした。思考停止なんて、一番怖いことだ。恐らく先述したような時代や社会を望む人が多い界隈があるのだろう。そういう時代や社会のほうが何かと都合がいい人たちが、声を大にしてそう発信しているだけなのに(※個人の感想です)、その界隈の人たちにとっての「真実」を、まるで「世間の流れ」かのように錯覚しかけたことが怖かった。

私の生活にするりと溶け込んでいたTwitter。でも、それが1つのハコにすぎないということを、改めて意識しないといけないなと思った瞬間だった。いろんな人が、息をするように言葉を端的に吐き出していて、さまざまな視点の「真実」が次々と目に飛び込んでくる。そんな140字の投稿が雑多にひしめく世界は、今さらながら、なんてカオスなんだろうと思った。

あえて書く必要もないけれど、Twitterを中心に世界が回っているわけではない。手軽に情報収拾ができるから、ついついすぐ開いてしまうけれど、「目的意識もなくふわっと眺める」のをちょっとやめようと思った。次々と情報が流れていくから追いかけていないと何かを取りこぼしているような気分になるかもしれないけど、そこで日々流れていく情報の大半は、知らなくても特に困らないものだ。

どんな声が流れてきても、思考停止に陥ることなく自分の頭で考えることを忘れなければいいのかもしれないけど、それは脳のリソースを不必要に消耗してしまう気もする。惰性で眺めて目に飛び込んできた情報を、頭を使って精査することなく無意識に自分の中に言葉として取り込んでしまうこと、そういったことが少しずつ蓄積していくのも、長い目で見るとやっぱりちょっと怖いことだと思う。

気づかないうちに、誰かが作り出した価値観の枠組みに自分を押し込めて生きていた、なんてことになるのは嫌だ。世間の流れというものがどこかに本当にあるとしても、その流れがたった1つしかない、なんてことはあり得ない。すごそうな波がどんどん来るからといって、乗り遅れないように自分の生き方に合う流れを見つけなきゃ、と躍起になる必要はないのだ。

とにかく周りに流されずに、自分の感覚のままに進んでいこう。自分の人生を、どこまで自分らしく進んでいけるか。山の中を流れる小川のせせらぎみたいに、停滞せずにさらさらと、気持ちよく流れていたいな。

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