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容れ物

4月の下旬に祖母の訃報が届いた。その少し前に、久しぶりに祖母のことをふと思い出してnoteにも書いていて、今年の夏頃にまた会いに行けたらいいなぁなんてのんきに思っていたところへ届いた知らせだった。間に合うことと間に合わないこと、人生ではどちらのほうが多いのだろう。

お通夜と告別式の日程がゴールデンウィーク前半に決まった。しっかり悲しむ間もなく、バタバタと仕事の予定を調整する。仕事の納期を特別に延ばしてもらうことができ、一旦実家に寄って前泊し、翌日の早朝から家族で祖母の家へ向かう。

祖父の葬儀の時と違ったのは、姉夫婦に甥っ子が生まれていたことだ。幼い甥っ子の小さい体からあふれ出る生のエネルギーは、大人たちの心をぐいっと明るいほうに向けさせる。

道中、サービスエリアで休憩していると後から出発した姉夫婦の車も追いつき、そこでお正月ぶりに甥っ子と再会した。遠くから私を見つけて、「あっ、○○だー!」と元気に駆け寄ってくるもうすぐ4歳になる甥っ子。喋れるようになってから会うのはまだ2回目で、お正月には「ちゃん付け」で名前を呼ばれていたけど、いつの間にか呼び捨てになっていて笑ってしまった。(姉は私を呼び捨てで呼ぶから、それをまねしているようだ)

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幸い高速道路の混雑もなく、実家から車で3時間ほどで祖母の家に着く。母の実家だ。

まず、和室の居間で納棺式が行われた。納棺師の方たちがてきぱきと祖母の旅立ちの支度を整える。その後、祖母の足や手や額を親族や近しい人たちみんなでかわるがわる拭く。細くなった足、手の甲のしみ、ぎゅっと不自然に閉じられた唇。

冷たい体に触れても、棺の蓋が閉まっても、涙は出なかった。母親を亡くした母も、まだ目の前で展開する現実に気持ちが追いついていないようだった。祖母と同居していたいとこの小学生の息子くんは時折鼻をすすって泣いていた。姉夫婦たちは到着が遅れ、出棺の頃にようやく到着した。

その日はずっと晴れていたけど、自宅から葬儀場への出棺の時だけザーッと天気雨が降った。近所の人たちも家の外に集まり、出棺を見守ってくれる。この地域の慣習らしい。雨がやみ始め、集まってくれた人たちに向けて喪主の叔父がマイクを手に短い挨拶をする。雨上がりの空気と共に、この地で90年以上過ごした祖母の生活の気配がそこかしこに色濃く立ちこめている気がした。

その後、マイクロバスで葬儀場へ向かう。参列者はまだ会場内の席には着かず、棺の到着を会場の扉の前で待っている。棺が到着し、会場の入り口へと進んできた時、甥っ子がパッと駆け出し、棺が通る通路を走って供花に彩られた祭壇の前まで1人で行ってしまった。あっと思った次の瞬間、誰よりも早くいとこの息子くんが駆けだして甥っ子の手を引いて連れ戻してくれた。前回会った時はまだ幼かったのに、いとこに似て優しく面倒見のいいお兄ちゃんに成長していた。

お通夜の席では、父は母の隣には座らず、何列か後ろに座った。甥っ子は父の隣に座りたがり、私たち姉妹はさらにその後ろに座った。時折父と甥っ子が顔を見合わせて笑う。

お通夜が終わり、お坊さんも一緒に通夜振る舞いの席でみんなで食事をし、私たち家族は温泉に寄ってから、祖母の家の近所に取った民宿に帰る。宿泊客は私たちだけで、まるで広い家にいるような、居心地のいい宿だった。元気な甥っ子の存在も相まって、ずっと祖母の死というものの実感が湧かずにいた。

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翌日は朝早くに起き、しっかり朝食を食べて(お米の産地なので、ごはんがおいしいねとみんな炊きたての白いごはんをもりもり食べた)、喪服に着替え、告別式が行われる葬儀場へ向かう。

いとこの息子くんと甥っ子は昨日一日ですっかり仲良くなっていて、会うなりどちらからともなく動物のように向き合って謎のダンスを交わし、再会の喜びを全身で表現していた。子供の存在はいいなあと思う。

告別式が始まる前、祭壇の前で棺の窓から祖母をじっとのぞき込んでいた甥っ子は、不思議そうに「何で大ばあばは寝てるの?」と叔父に尋ねた。叔父はまっすぐ甥っ子を見て、「何でかって?」と質問を受け止める。そして「たくさんたくさん生きたからだよ」と優しくとても自然に答えた。「今何歳?そうか3歳か、大ばあばは君より90も年上だ。」

甥っ子がその言葉の意味を理解したかどうかは分からない。(ふーんという顔をしていた)でも死ぬということは生き抜くということなのだなと、妙に腑に落ちた瞬間だった。祖母は本当にたくさんたくさん生きたのだ。

その後、待ち時間に、母と姉と妹と、ロビーに置いてあった折り紙にそれぞれ祖母へのメッセージを書き、鶴を折った。母は一人だけ離れた所でじっくり時間をかけて書いていた。それがどんな内容だったのかは母しか知らない。

告別式の間、甥っ子は交互にみんなに抱っこをせがんだ。しばらく姉に抱っこされていた彼は、少しボリュームを落とした甘えた声で私の名前を呼び、「抱っこー」と隣に座る姉の膝の上からニコニコ笑って手を伸ばしてきた。お坊さんのいい発声のお経を聞きながら、だいぶ重くなった甥っ子を座ったまま姉から受け取り、抱っこする。またしばらくすると、今度は隣に座る妹に抱っこをせがむので、妹に渡した。

お焼香が済むと、祭壇の花が手早く切り取られ、お盆に山盛りに載せられていく。その花をみんなで棺に入れていく時、メッセージを書いた折り鶴も一緒に入れた。悲しい場面なのに、涙は出なかった。祖父の時はものすごく泣いた記憶があるのに。甥っ子は何度も花を取りに来て祖母の顔の周りに「はい」と元気に置いていた。

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その後また車で移動し、火葬場に着いて、すぐに短くお経が読み上げられ、最後のお焼香をする。棺の窓が閉まっても、まだ実感が湧かない。思わず母にそう言うと、母もやはりまだ現実感がないと言っていた。顔つきが生前と全く違い、別人のように見えて何だかそのショックが大きくて、と母がつぶやいた。

やっと涙があふれてきたのは、火葬炉の中に祖母の棺が納められていく瞬間だった。もう後戻りできず、暴力的なまでにお別れの時だと実感させられる。喪主ではないほうのもう一人の叔父が、声を殺して目を真っ赤にして誰よりも泣いているのを見て、母もようやくボロボロ泣いていた。

火葬炉の扉が閉まり、姉と妹と私の3人は誰からともなく母に寄り添い、みんなでくっついて泣きながら出口まで歩いた。叔父さんすごい泣いてたね、などと言いながら、泣きすぎている自分たちにそれでもちょっと笑ってしまったりする陽気な姉妹がいてよかったなと思う。

お骨になるのを待つ間、近所の食事処で参列者みんなで豪華な昼食を取る。こうして文字にすると何とも言えない感じがするけれど、生きている者はどんな時でも食べるのだ。

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火葬されて体という容れ物がなくなり、真っ白な骨だけが残る。家に戻り、お坊さんがまたお経を読み上げ、その遺骨を親族たちが箸でつまんで次の人に渡し、順々に骨壺に納めていく。これもまた文字にすると改めてぎょっとしてしまう儀式だ。

真っ白な骨も骨壺という容れ物もやはりよそよそしい存在で、そこにもう祖母はいないのだ、という切なさを拾い集めている気がした。最後に、敷いていた紙から畳の上に少しこぼれてしまった骨の粉を、喪主ではないほうの叔父が何度も何度も丁寧に、澄んだ瞳で残さず手で集めて骨壺に入れていた。そんな叔父のしぐさとまなざしの奥に、遺骨になる前の、生前の祖母の存在を確かに感じた。

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亡くなって動かなくなった高齢の祖母と、元気に走り回る幼い甥っ子。その対比がずっと胸に残っている。

東京の家に帰宅して仕事部屋にいる時、数日間密な時間を共に過ごした家族の気配を何となくまだ周りに感じるような気がした。不思議なことに、それと同じくらい、祖母の存在も近くに感じた。

帰りの高速道路で休憩したサービスエリアで車から降りると、爽やかな青い空に白い月が涼しげに浮かんでいて、何となく祖母を思った。祖母はあれくらい遠い所に行ってしまったのかもしれない。でも、いつでもそこにいるのかもしれない。それくらいの距離にいるのなら、寂しく思うことはないのかもしれない。

生きていることが奇跡なら、死んだ後にも奇跡のようなものがあるのではないかとふと思う。それは死んでみないと分からないけど、その日まで、謎は謎のまま、とりあえず食べて、笑って、私の容れ物の中で生きたいと思う。

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