マガジンのカバー画像

ある日の記録

21
日常の中でたまに起きる、忘れたくない一日のこと
運営しているクリエイター

#旅する日本語

下界の彼と仲直りした、旅路の夜

下界の彼と仲直りした、旅路の夜

「もしもし、今どこ?」

気まずそうな恋人の声。呼び鈴を押しても出ないから、電話をしてきたのだろう。

黒い空に輝く月と白い雲を近くに感じながら、私は努めてシンプルに答えた。

「富士山、の5合目」

「は!?」

予想どおりの反応に、思わず小さく笑ってしまう。

私と彼はケンカ中だった。

その夜、私は彼に何も言わず、勢いで女友達と富士山に来ていた。勢いと言っても、装備や下調べは万全だ。少し前に

もっとみる
風の中の手

風の中の手

海の近く、見晴らし台への階段の途中。
上るほどに、風が強く吹き荒れる。
髪は乱れ、生き物のように次々と形を変えていく。
はしゃいで先に進む友人たちの後方で、私はついに立ち止まった。

風が怖い。

優しいそよ風は、好きだ。
だけど荒々しく吹きすさぶ風は、どうにも怖くてしかたない。

一瞬のうちに、どこから来て、どこへ行くのか。
その途方もない距離を思うと動けなくなる。
宇宙に放り出されるような気が

もっとみる