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武器をとれ【第1話】『武器よコンニチハ』

〈あらすじ〉

【第1話】『武器よコンニチハ』
戦闘に明け暮れ、新兵器武装した少年。だが暴力は連鎖し、敵はより強力な兵器で挑発する。暴力の行きつく先は。

【第2話】『カズタカ』
飼いならされた家畜の抗う術。絶対君主への反抗。武器は、劣等生のわきまえにて抗う精神。

【第3話】『取調べ』
記録官は見た。22世紀を飾るに相応しい天才取調官の名裁き。

【第4話】『狩人』
ニュースキャスター梅妻紗記の武器炸裂。

【第5話】『宇宙船 ノアの箱舟号』
船内で起きた意外な事件。
事なかれ主義の蔓延を許した人類の運命は?

【第6話】『スズメ』
“自由”を求めて立ち向かう魂。
心は、なんぴとたりとも縛ること能わず!
「私は傍観者」 



序 章・抑止力

 ぼくは武器を高々と天にかざした。
 ──幾人をも毒牙にかけてきたことか……
 武器入手以来、ぼくの生活も意識も一変した。護身の手段が備わったことで、安心感は格段に増すし、いざとなれば、こちらから挑発して先手を打ち、力の拮抗を保つことすら容易くなった。これまで虐げられ続けた相手とも互角に渡り合えるまでになったのだ。
 ──これぞ武装の賜物である!
 ──やはり、戦力はバランスが大事なのだ!
 ぼくは、つくづくそう思う。
 ──だが、ひとたびバランスが崩れでもしたら?
 どちらか一方が強大な戦力を保持するに至ったとき、ましてや、愚人にその力を与えてしまった場合、悲惨な末路を辿るのは必定だろう。それに対抗するには、更に、こちらも敵を上回る破壊力で応戦せねば愚人に平和は乱され、血の雨が降り注ぐ結果となる。
 ──ぼくは、たった今、気づいた!
 ──永遠に抜け出せぬ負のスパイラルに陥ったことに……
 どうやらぼくは、取り返しのつかぬことをしでかしてしまったようだ。
 ──ぼくが放った一撃が!
 ──相手を怯ませはしたものの……
 ──相手にも同等の力を与えてしまう素地を作ったのだ!
 自分の愚かさを嘆いたところで最早、あとの祭りだ。
 ──今後、拮抗を保つには……?
 ──両陣営、際限のない武力増強をはかる必要が出てきたということだ!
 ぼくは、再度、武器を見つめ直した。武力行使の甘い誘惑に身悶えせんばかりに心疼く。明日の闘争の場面を思い起こしながら、体は震え出した。


第一章・新兵器装備完了

 登校して、教室に入って席に着き、ランドセルの中身を机の中へと移していたら、後ろの方で数人が騒ぎ出した。
 ──何事か?
 ぼくは、思わず振り返った。
 と、その中の一人が棚を指して喚き散らしている。
「ドッヂボールるが消えた!」
 よくよく聞き耳を立ててみれば、クラスで所有しているドッヂボールの二つのうちの一つがなくなっているというのだ。
 それを知った皆が一斉に席を離れ、棚を取り囲んだ。
 休み時間、使用した者が責任を持って教室に持ち帰り、保管場所に返すとの取り決めが、予め二学期始めのホームルームで話し合われ、これまで皆、それに従って何事もなく遊興三昧の時を過ごしてきたのに、いつしか惰性が高じて、うやむやな管理下で責任の所在も曖昧模糊とした挙句の椿事ちんじ出来しゅったいであった。
 犯人探しが始まると、クラスの誰しもが、知らぬ存ぜぬを押し通し、責任を他者へと転嫁しにかかる。
「昨日の昼休み、最後にボールを触ったのはあんたよ! わたし、目撃したもん」
 いつも口やかましい仕切り屋の女子が、“お調子者の悪戯小僧”を指差すと、彼は沸点をはるかに超えた真っ赤な顔面の血走った目を極端に見開き、眉を吊り上げて食ってかかった。
 それを皮切りに、男子女子入り乱れての論争、否、小競り合いが勃発し、収拾のつかぬほどの暴動と化してしまった。皆、責任の所在を明らかにせん、と己以外の者へ感情むき出しの疑惑の目で責め立て合った。
 そうこうしている間に担任が現れ、一喝した。
 二十七歳独身、一七七センチメートルの上背から放った男性的な野太い鶴の一声は効果てきめんで、皆、蜘蛛の子を散らしたていで一目散に着席した。
 朝のホームルームが始まり、事情をかの仕切り屋のお節介女子が説明して、しばしの話し合いが持たれ、昼休みにクラス総出の捜索という運びに落ち着いた。

     *

 食パンの最後の一切れを牛乳で喉へとへし込みながら慌ただしく立ち上がり、給食を早々に切り上げ、ぼくは凪聖人なぎ たかひとと行動を共にした。
 皆も同じくそれぞれの仲間と組んでの捜索開始だ。
 ぼくらは運動場を見て回った。
 まずは、隅の方から攻めてみることにして、側溝にはまってはいまいか、校庭横を流れるドブ川に落ちてはないか、と注意深く目を凝らし、いちいち聖人と顔を見合わせては、確認を取りながら足を運ぶ。
 しかし、痕跡すらどこにも見い出せない。仕方ないので、今度は、運動場でボール遊びに興じる児童に目を向ける。ボールを取り間違えた可能性に期待し、他クラスの不注意者に着目したのだ。
 ボールを求めて隈なく探していたら、校内一のガキ大将の白石君とその同級の者が二人してそれらしきボールで遊ぶ姿を認めた。
 早速、ぼくらは事情を話し、ボールを確認させてもらった。と、明らかに行方知れずの我がクラスのボールだと判明したので、そのことを丁寧に説明して持ち去ろうとしたら、いきなり奪い取られ、
「お前らのだとする証拠は?」
 と、ぼくより背の低い白石君は眼下からぼくを見上げながら難癖をつけて返してはくれない。
 そのボールには、かなり薄れてしまったけれど、青いマジックで『6─1』と記されていた。それを指摘して、彼もその箇所に目を落としたところを、すかさずぼくが引っさらった。
 すると、また彼が奪おうとしたので、ぼくは激しく抵抗してボールを抱きしめたら、左の眼窩に重い衝撃が走った。
 一瞬の出来事に面食らってたじろいだ隙に、ボールはぼくの手を抜けて再び彼の手中にまんまとおさまった。そして彼らは何食わぬ顔でまたボール遊びに興じるのだった。
 ぼくは白石君の右の拳が当たった個所を掌で覆いながら茫然自失でその光景を眺めた。
「行こうよ。所在だけでも一応はつかんだんだし……あとの始末は、クラス全員で探るよう皆に提示しよう」
 聖人が傍に来て、ぼくを促す。
 ぼくらは結局、ボールは奪われたまま、詮なく教室へ戻る道を辿った。
「腫れてる!」
 ぼくのほうを向いたとたん、聖人が悲鳴のように叫んだ。
 極限に開かれた彼のまん丸目玉が驚愕を覗かせる。この世の終焉でも垣間見たかのような形相だ。痛みはさほどなかったが、聖人の表情からいかに悲惨な醜態をさらしているかがわかった。
 途中、四階へと続く階段の踊り場でぼくは足を止め、鏡を覗く。恐る恐る患部から手を退けると、聖人の指摘通り、左目の上部、眉から瞼を覆うように見事な青アザが、円を描いてべったり張りついていた。
 ──片目のパンダだ!
 ぼくはひとつため息をつくと、また掌をそっと当て、幾分疼き出したパンダ目を隠しながら、鏡の前を離れ、殴られたことを聖人に口止めして教室へ向かった。皆に無様な姿はさらしたくはない。
 教室のドアの前まで来ると、さっきの経緯の説明を聖人に頼んで、ドアを開け、昼休み中もずっと教室で待機してくれていた教卓に両肘をついて座す担任の傍を避け、遠回りでそそくさと自分の席へ着いた。
 校庭を望む窓際の最後部の席ゆえ、隠れ蓑には好都合であった。幸い、下校まで誰にも気づかれずに済んでひと安心した。

     *

 帰宅して玄関をくぐる前、帽子を目深に被り直し、庇で患部を隠しながら何食わぬ顔で母の傍を擦り抜けようとしたら、母はいきなり帽子をはぎ取った。
 少々うつむき加減で顔を背けて素通りしようとするぼくの不審な行動を母親特有の敏感なレーダーで察知され、ぼくは敢え無く御用となり、患部をさらけ出す羽目になった。
 問いただされ、多くは語りたくはないので、
「ケンカした」
 とだけぶっきらぼうに言い放つ。
 ぼくの日常はケンカに明け暮れていたため、母も心得たもので、すかさず呆れ顔にて誰にやられたかを聞いてきた。正直に相手の名を明かしたら、
「相変わらず乱暴ね」
 とのひと言と共にパンダ目を調べ始めた。それで、ぼくは、
「なんともないよ」
 と母の手を払うと、頭を軽く一発はたかれた。
 白石君は幼稚園時分から既に手のつけられぬほどのガキ大将で、彼との小競り合いは日常茶飯事だったものだから、因縁の相手との対決を、母もケンカ両成敗との認識で大袈裟に騒ぎ立てもせずおさめてくれたのだ。
 母の尋問を無事かいくぐったぼくは、手鏡を母の鏡台の引き出しから拝借し、畳の上に寝そべって患部を映しながら殴られた瞬間を振り返った。
 ──驚いた!
 ──いきなりの不意打ちに、唯々驚いた!
 咄嗟に目元に手はいったが、痛みは感じず、一瞬起こったことを理解不能なまで脳は活動を停止したみたいで、我に返った次の瞬間、驚愕に支配された。怯んだ、というよりも呆然としてどことはなく見とれた、というほうが適切な表現かもしれない。
 それ以来、ぼくの心に殴られた事実が重くのしかかり、思考をも塞がれ、一種の憧れめいたざわめきに囚われてしまったのだ。未だかつて湧いたことのない感情が、胸底から煮えたぎったどす黒い塊が、今にも爆発的に膨張して、澄み切った心を闇で覆い尽くす勢いで、ある一つの思いに取り憑かれていった。
「人を支配するには強大な暴力が有効なのだ」
 それに気づいた日から、次第に憧れは募り、頼ってみたくてしょうがなくなる。人を傷つけてみたい衝動に駆られ、心はどうしようもなく闇の深みにはまってゆく。
 ぼくの感情の昂りは、おさまるどころか日増しに強くなり、暴力の信奉者へと自らを祭り上げていったのだ。

     *

 後日、白石君はぼくらの教室に現れて、ぼくの顔を見るやボールを放って返還してくれた。
 ぼくが近づいて彼の前に立つと、
「“お調子者の悪戯小僧”から借りただけだ」
 ボソボソと自ら事の成り行きを語り、上目遣いに、
「ゴメン」
 と悪童らしくぶっきらぼうに言い放ったとたん、不機嫌そうに踵を返して、頭をかきながら去って行く。
 その滑稽な照れ隠しに、ぼくの口元は緩んで自ずと笑みがこぼれた。彼の性格は熟知している。今まさに反省中のはずだ。
「はじめから正直に言えばいいのに……」
 彼の不器用さに呆れ果てながら呟いていた。
 ぼくは、ぼんやりと事件の全容を思い浮かべた。強大な力を授けてくれた悪童の背中を頼もしく見送りつつ、感謝の念すら抱いたのだ。

     *

 学校から帰宅すると、決まって自室に籠った。
 椅子に座り続け、己が右手を高々と掲げる。決して美しいとも、さして大きくもない。敵をやっつけて勝ち名乗りを上げる妄想に耽りながら、拳を握り締めてみる。と、今まで頼りなくナヨナヨしていたそれは、たちまち脆弱さをどこか彼方に追いやり、硬くてたくましいよすがへと変貌を遂げた。
 より一層拳を握り締めながら見とれてしまったぼくは、恋焦がれ、全身が震え出した。
 思わず椅子を蹴散らしながら立ち上がり、目の前の見えない敵に拳を食らわした。架空の相手をたった一発でノックアウトすると、有頂天になってその場で小躍りを始めた。
 しばらくして興奮をおさめ、静止した。もう一度拳を高々と掲げてみる。
 ──ぼくは、たった今、武器を手に入れたのだ!
 拳を見上げながら腹の底から叫んだ。ぼくの声は少々震えていた。
「武器よコンニチハ!」


第二章・新兵器実験

 強大な武器を手に入れて以来、残り数か月間の小学校生活は、尚一層ケンカに明け暮れた。
 それまでは、一方的に捻じ伏せられていたクラスメイトに対して、折を見てはこちらから勝負を仕かけた。どれほど実力がついたのかを確認するためだ。そんな相手がクラスに三人いた。強い順に、佐藤、田中、武富たけとみだ。ケンカしたくてウズウズしてくると、自ら交戦の状況下を仕立て上げ、腕試しを決行するのだ。

     *

 新兵器装備の記念行事決行だ。
 初陣を飾るに相応しい対戦相手を誰にするか、ここが思案のしどころ。
 三人の様子をうかがいながら、第三位の武富に熱い視線を浴びせかける。
 ──やはり初戦は武富だ!
 心を決めたものの、いかに仕かけるべきか迷った。
 武富は、ひょうきんなお調子者だ。
 一見、根性なしの表六玉を装っているが、その仮面の下には豪腕が潜んでいる。第三位だとみなされているものの、実のところ、はっきりしない。
 というのも、彼はその誰からも愛される明朗快活な性格で、佐藤や田中に愛嬌を振り撒く。常に自分を下に置き、相手を立て決して争わぬ外交努力によって平和を維持している。
 かと言って、
『義を見て為さざるは勇無きなり』
 を地で行くところがあって、仲間が苛められでもしたら、烈火のごとく怒りだす。
 普段温和な彼の猛り狂う姿を垣間見た者は、その迫力に言葉など失くして、彼の心に触れることすら叶わなくなる。
 それだけ熱い何ものかを心に秘めているのだ。
 ──要するに、彼は優しい。
 ──強さと優しさを兼ね備えている。
 ──おまけに、面白さも。
 うがった見方をすれば、
 ──狡猾な策士!
 なのかもしれない。
 そんな武富だが、ぼくのことを随分誤解していた時期がある。
 ヤツとは三年生のときから同級なのだが、当時の担任教師から、ぼくは目の敵にされていた。何かとぼくが悪者に祭り上げられていたのだ。それを信じ切っていた武富は、ぼくを快く思ってはいなかった。
 その頃、ぼくは元気の塊みたいなもので──今でもそうだが──誰彼構わずイタズラを仕かけては面白がったり、ケンカを吹っかけてはクラスをかきまわし、大暴れしていた。だが、いずれの行為も少年期特有の甘えみたいなもので、たわいないものだったのだが。その年頃の少年なら、多少なりとも誰しも経験することなのだ。
 それが担任には気にくわなかったようだ。ヒステリックな金切り声で常に舐るようにぼくは罵倒され小突かれ続けた。
 ケンカは両成敗が鉄則だが、当事者がぼくだとわかると、彼女は相手の子は放免して、ぼくだけに矛先を向けてくる。ぐうの音も出ぬほどやり込められ犯罪者扱いである。
 ──担任教師の態度は……
 ──児童にすこぶる影響を与えてしまう!
 そんな光景を常日頃目の当たりにしているものだから、ヤツはぼくの素行に対する不信感を募らせていったのだろう。
 担任は、およそ人に向けてはならぬ言葉でぼくを一方的に罵っていたから、百パーセントぼくのほうに非があると思われても無理からぬことだ。
 しかし、そんな武富も、ずっと同じクラスでぼくと接するうちに、少しずつ誤解は解けていったようだ。
 六年生で今の公明正大な担任になってからというもの、ぼくの評価を再認識してくれたらしい。誤解は完全に解け、劇的に評価は上がった。
 ぼくたちはようやく打ち解け合うことができた。ぼくが先生からほめられると、素直に感心してくれて、優しい眼差しで心から祝福をくれる。ぼくも自然と彼の優れたところに目を向けるようになった。
 ──指導者次第で……
 ──人間関係は左右されるものなのだ!
 とぼくは学んだ。
 ──武富のこんな性格の源流は何か?
 ぼくなりに探ったことがある。
 ヤツには、二つ違いの兄貴がいて、父を早くに亡くし、仕事で家を空けがちな母親を兄弟二人で支え合って生活している。その心のうちは察し切れはしないが、そんな家庭環境が性格形成に一役を担っているのは間違いではなさそうだ。
 ──自らの不幸を……
 ──他人を思いやる心へと昇華させたに違いない!
 ぼくは、そんな風に思っている。全くもってぼくの私見、偏見であるかもしれないが。
 そういうわけで、ヤツとの力くらべは非現実的と言えよう。
 案の定、ぼくが対決姿勢を見せたとて、彼自身、道化師を演じ、はぐらかされてしまう。まともに取り合ってはくれない。 
 これではいつまで経ってもナンバースリーは夢のまた夢。第四位の席を甘んじて温め続ける人生だ。

     *

 一旦、第三位の武富と勝負すると決断を下した。下位から順当に上り詰めるが常套手段と考えた。が……
 ──もし彼に負けたとしたら?
 よくよく考えてみると、いざ上位二人へ勝負を挑んだところで、
「一位、二位に敵うはずはないじゃないか、バカめ」
 などと声が上がり、無謀極まりない愚か者と誰からも見なされるだろう。嘲笑の的となるのは必至で、単なる恥知らずの烙印を押され、皆からの軽蔑、侮蔑の眼差しにさらされ続け、結局、挑戦権は自然消滅的に剥奪されることになりかねない。
 結果、武富との小競り合いを繰り返す羽目になり、負け続ければ、第四位の座を温めるだけの情けない状況に追いやられるばかりか、永遠に這い上がれなくなる可能性が大きい。すなわち、夢を見ることすら叶わなくなる。
 ──武富との小競り合いが不発に終わったのは、天からの恵か?
 ──ここは、いっちょう大逆転を目論んでやるか?
 思い切るべきかもしれない。
 ぼくは腕組みをして右へ首を回した。
 廊下側の窓際の最後部の席に座って、涼し気な顔で国語の教科書を覗く佐藤の顔をしげしげと見つめた。
 いっときして佐藤は教科書から目を外すと、黒板を見たついでに、ぼくの視線に気づいた。こちらを向いてニヒルに笑みを漏らし、すぐさまソッポを向いた。
 ──よし、まずは佐藤だ!
 ナンバーワンの相手に挑んで、勝利したとあれば、ぼくの株はうなぎのぼりに上がるだろう。仮に負けたとしても二位の座への挑戦権は存続するという寸法だ。 
 佐藤は痩身で背丈もかなりあってヒョロリとした、一見、優男風情だが、見た目と配備した戦力とは甚だしいギャップがある。
 勉強もスポーツも卒なくこなす秀才肌のいかにもインテリ臭さ漂う風貌に騙されてはならない。それとは裏腹に、腕力はクラス随一で右に出る者はいない。そればかりか、舌先三寸で敵を丸め込む術を兼ね備えているのだ。これが厄介な代物で、理論派の理屈で攻められると、ぐうの音も出ぬほどやり込められ、ぼくなんかはすぐに返す言葉など失って己の無知をさらけ出し、タジタジとなって意気消沈した隙を突いて容赦なく絶大な武力でもって捻じ伏せにかかる。と、最早ぼくの戦意は喪失してしまう。彼の理路整然、論理的な屁理屈までもがいちいちごもっともに聞こえ、従わざるを得ない状況下に追いやられ、一種催眠術にかけられたようで、挙げ句、彼の操り人形に仕立て上げられるのが落ちなのだ。
 こんな強敵相手に、戦略を立ててみたが、いかなる策も空論にすぎなかった。ならば、正攻法でのぞむしかないだろう。
 ──正々堂々、正面突破にて当たって砕けろだ!
 ──砕け散るか否かは……
 ──我が新兵器次第であろう!
 ぼくは拳を握り締め、目線に掲げた。
 ──さては、いかにして戦闘状況を仕立てるかだ?
 まず思いついたのはヤツのプライドをくすぐってやることだった。人前で辱めを受けたなら、怒り心頭に発し、ぼくに矛先を向けてくるに違いないと踏んだ。
 ──ヨッシャー!
 心の中で気合を入れ、ぼくは掲げていた拳を振り下ろした。拳は空を切り裂き、腰あたりで解かれ、ズボンのポケットにおさまった。
 と、何か気配を感じて見上げると、担任がぼくを見下ろしていた。ぬうっと腕がのび、トントンと人差し指が教科書を叩く。ぼくは、おどけながら頭をかきかき指示通りに視線を教科書へと向けた。
 災難が去ったあと、また佐藤のほうを見る。ヤツはぼくを指差しながら首を鳩のように小刻みに動かし、口を掌で覆ってクックと笑いやがった。
 ──バカにしやがって!
 ──今に見ていろ!
 ──血祭りに上げてやろうじゃないか!
 ぼくは尚一層、士気を高めた。

     *

 六時間目の体育の時間が終わった。ぼくは、教室へと戻る佐藤の数歩後ろから歩調を合わせる。
 教室に入り、自分の席で着替えを始めた佐藤の背後に張りつくと、体操着の短パンを脱いで無防備状態の一瞬を見計らって、すかさずヤツのパンツを引きずり下ろした。
 ヤツは、慌てふためいた様子でパンツを上げると、ぼくを羽交い絞めにしてぼくの短パンをパンツもろともずり下げて丸出しになった尻を平手で何度も打ってきた。
「バカったれ! イタズラ小僧め、お尻ペンペンだ!」
 ぼくはパンツと短パンをずり上げながらヤツの顔をうかがう。ヤツは嘲り笑ってもう一度ぼくに向かって、
「バーカ」
 と言い放ち、ゲラゲラ笑っただけだった。
 周りの男子どももぼくたちを見て腹を抱え笑っている。
 ──これは、ぼくの人徳のなさを物語っているのか? 
 恐らく普段のひょうきん者のぼくの性格が災いしたのだ。誰もが、じゃれ合いとしか見なしてはいないのだった。
 佐藤も怒るどころか、もう一度呆れ顔をぼくに向けただけでそのまま着席すると、何事もなかったように両手を天に突き上げ伸びをしながら大欠伸をした。
 ──ヤツのそんな大人びた仕種が、何とも鼻につく!
 結局、ヤツの鈍感な平和志向のせいで、新兵器実験は不発に終わった。もしくは、
 ──ぼくの行為が、あまりにも幼稚すぎたせいなのかもしれない。
 恐らく、
「子供だな」
 なんて見下されたに違いない。
 ──一年前の彼なら……
 ──直ぐにぼくの挑発にのってくれたのに!
 ぼくは少し寂しい気分で佐藤をうかがった。
 ──器が違うのかなあ?
 ぼくとかけ離れた彼の器の大きさに、恥じ入るばかりだった。
 同級生の成長ぶりは、ぼくに複雑な感情を抱かせた。
『尊敬と羨望』
『喜びと寂しさ』
 ──大人になるっていうのは……
 ──今までの価値観を捨てることなんだろうなあ……
 ぼくはこの件で、子供と大人の狭間について初めて考えるようになった。
 ──仕方がないや……
 ひとまず、佐藤との対決はまたの機会にして、第二位の田中へ矛先を向けることにした。

     *

 田中は、ガキ大将気質で、佐藤のようには理屈も屁理屈も通じない。感覚的、直感的、直情的、野性的な粗野な乱暴者。そこはぼくと似通ったところで、最も共通点を見いだせる相手だ。
 田中は、町内ソフトボールで最大のライバルチームに所属している。
 佐藤も武富も各々のチームでレギュラーを張っているが、田中のチームは格が違う。徹底した大人たちの指導の下、基礎をみっちり叩き込まれている。守備も攻撃もそつがない。選手全員、身のこなしが整っている。ボールのキャッチの仕方からバッティングフォームまで全く同じ動きをする。体型や顔だけが本人を見分ける印で、仮に同体型の者が覆面をつけてプレーしたならば判別は困難なのではないだろうか。ぼくの所属チームみたいに勝手気ままな流儀は許されない。揶揄するなら、
「個性が無い」
 だが、そこには、やっかみと羨望が込められている。すこぶる打率がよいからだ。彼らは皆が皆、ヒットを連発する。ぼくなんかは、不調のとき、バッティングフォームを真似てみたりもする。もっとも、完全な模倣というわけではなく、試行錯誤の末、自分に合わせ改良を加える。結局、自らあみだした打法に帰結してしまうけれど。
 こんな日々の研鑽もヤツのチームだけにはどうしても勝ちたいからにほかならない。
 田中とぼくの思考回路は似ている。ケンカなんて単なるコミュニケーションの一つぐらいにしかとらえていない。だから、ヤツとの小競り合いはしょっちゅうだ。ケンカしていたかと思えば、どちらからともなくすぐに詫びを入れ、仲直りしてふざけ合う。根に持つことは皆無だし、あと腐れを全く残さない。翌日、いや、一時間後にも引きずらない。腹の探り合いも不要だ。最もつき合いやすい“同胞”と言っていいのかもしれない。
 そんな気心が知れたヤツだから、戦闘状況を仕立てるのはわけはない。じゃれ合っているついでについつい力が入ったと不意を装い、本気で突っかかれば済む。
 放課後の教室内は騒然となった。二人をクラスメイトが取り囲む。男子どもは囃し立て、女子は一部の武闘派をのぞいて、呆れ顔で傍観している。
 ──ただいまからメインイベントの開幕だ!
 皆、レクリエーションとでもみなしているのだ。
 ぼくが突進するように田中の胸ぐらを両手でつかんで後方へ押しやる。田中は踏ん張って耐え、逆に同じ力で押し返される。まるで理科の実験だ。作用反作用の関係を地で行くみたいに。
 ヤツのサウスポーから繰り出される大きな掌で顔面を鷲づかみにされ、そのまま床に押し倒されて、いつもはゲームセット。
 しかし、ヤツの手がぼくの顔面を捉えるより早く、ぼくの右ストレートがヤツの左頬を直撃したのだ。
 ──新兵器実験は……
 ──確実に成功した!
 ヤツは頬に手をあてがいながら一歩後退した。思いもかけぬ反撃に面食らった顔をした。そこをすかさず、襟首を握り締め、自分の右足をヤツの右足に引っかけた。ヤツは後方へとよろけながら尻もちをついた。
 ここで攻撃の手を休めてはならない。とことん捻じ伏せる必要がある。
 ──それが戦闘の鉄則だ!
 ぼくは、渾身の力でヤツに覆いかぶさり、捻じ伏せにかかった。だが、息を吹き返したヤツの力には敵わなかった。たちまち形勢は逆転して、我が願望はあえなく崩れ落ちた。天下は敵の手に渡った。
 ぼくの胴体に馬乗りにまたがられ、しばらくすると、手を差しのべられた。その手を取って立ち上がり、お互い目で語り合ったあと、深くうなずき合う。
「強くなったな」
 彼は照れくさそうに言った。
 ぼくも照れ隠しにソッポを向いてうそぶくと、微笑んだ。
 それから帰り支度をして運動場に出ると、ランドセルを放り出し、キャッチボールで締め括った。仲直りの儀式というわけだ。いつものぼくたちの慣わしである。
 このときぼくは自覚していた。以前は反撃など到底叶う相手じゃなかったのに、いつの間にか、彼も認めざるを得ないくらい力をつけていたのだ。ぼくは素直に喜んだ。だけど、最も嬉しかったのは、彼もぼくの成長を心から喜んでくれたことだった。
 ぼくは友情を込めた眼差しで彼が投げかけるボールをしっかりとキャッチした。
 ──決して落としてなるものか!
 ぼくは、いつまでも今日のことは忘れないだろう。

     *

 田中との対決後、一週間も経たない月曜日。
 登校して教室に入るなり、佐藤の様子がおかしい。珍しく何やらイラついている。いつも冷静沈着な表情が明らかに険しく変貌し、彼に近づく者があれば、睨みつけるような目つきで排除にかかる。触れるものすべてを、
「寄せつけてなるものか」
 と、あからさまに負のオーラを全身にまといながら、孤高の人を気取っている。
 ぼくは前列の女子生徒の背中をトントンと左の人差し指で軽く突いて合図を送り、彼女が振り返ると、その指を佐藤に向けた。
「愛犬を蹴られたのよ」
 彼女によると、金曜日の夕方、散歩途中、酔っ払いに出くわした。歩道を歩いていると、狭い歩道のど真ん中で立ち塞がっていたため、仕方なく車道に降りて通り過ぎようとしたら、愛犬のジョンが酔っ払いの足にじゃれついた。そこを、いきり立った酔っ払いが、こともあろうかジョンの横腹を蹴っ飛ばしたのだ。
 酔っ払いが過ぎ去ってしばらくその場で顔を真っ赤に染め、この不条理に悪態をついていた、というのだ。
 それが原因で数日間引きずり通しで、今朝も怒りおさまらず、不機嫌なのだ。
 彼女もその場面を目撃したクラスメイトからのまた聞きで、真相ははっきりとはしない、と言うのだが、普段、滅多に感情を表に出さない佐藤が、あれ程の憤慨を覗かせるということは、ほかならぬ愛犬ジョンのためだと知って合点がいった。
 ジョンというのは、シーズー種のメスで、成犬なのだが、同種のそれよりかなり小さい。それは幼少期より病弱な体質が原因だろうと推測できる。
 ぼくも散歩途中の彼とよく出くわし、ジョンもぼくによくなついてくれている。ぼくとて、ジョンがそんな憂き目に遭っていたとあれば、心穏やかではすまされなかった。
 ぼくは早速、佐藤の席まですっ飛んで行き、椅子の背を両手でつかんでまたぐと、前列の席を陣取った。佐藤と面と向かい、目で合図を送っただけでヤツは自らいきさつを語りだした。
 さっき聞いた話と何ら変わりなかったが、ジョンの怯えようが尋常ではなかったと知り、ぼくははらわたが煮え繰りだした。頭に血が上り、胸がドキドキした。
「ジョンの敵討ちもせず、泣き寝入りしたんか!」
 激昂して思わず彼に声を荒げてしまった。
 と、彼は急に立ち上がって目を血走らせ、机越しにぼくの胸ぐらをつかんだ。
「相手は大人やろうが!」
「大人やろうが、動物虐待は罪や! 償わせないかんやろうが! いつもの威勢はどこに行ったんか! 臆病もんが!」
「なんやと! キサマに何がわかる! その場におらんやったくせに!」
「わかるわ。臆病もん、ちゅうこっちゃ。この臆病もんんが!」
 彼はぼくの襟首を両手で力いっぱい締め上げてきた。
 ぼくは右の拳をギュッと握り締め、彼の顔面めがけて、振り下ろした。それはほとんど無意識だったが、はからずも新兵器は行使される結果となった。
 ぼくの右の拳が当たった瞬間、彼は左頬をぼくのほうへ向け、目を丸くしたかと思ったら、大きく目を見開いて鬼の形相でぼくを吊り上げた。
 ぼくの体は宙に浮き、クルリと一回転して床に叩きつけられた。仰向けに横たわったぼくの上に彼は馬乗りにまたがって、依然と胸ぐらを締めつけてきた。ぼくは力の限りあがき、抵抗を試みたものの、身動きは全く取れない。完全に捻じ伏せられ、最早ぼくの戦意は消失してしまった。彼の血走った目を覗きながら、その左腕をトントンと叩いて降参するしかなかった。
 彼はぼくの上からおりると、舌打ちとともにその場を立ち去った。
 思いもかけず、彼に挑戦できたものの、やはり、あっさりと負けてしまった。自分の力のなさに失望した。が、それ以上にぼくは彼の不甲斐なさに憤慨していた。彼ともあろうものがジョン一匹も守れなかったのだから。そのことがぼくは許せなかった。
 その日は、授業が終わるまで、彼とは一言も口をきかなかった。授業中、気になったぼくが、彼のほうを見ると、彼もぼくをチラと見てすぐさまソッポを向いた。お互い、意識しながら一日は終わった。

     *

 ぼくは、その日、学校から帰宅すると、玄関先にランドセルを放り出して自宅を飛び出した。
 佐藤の家をうかがいながら電柱の陰でヤツを待ち伏せた。
 先週までのヌメッとした巨大ガマガエルの舌みたいな絡みつく空気が嘘のように、どこまでも細かな粒子のシャワーがぼくの全身を洗い流してゆく。
 二十分ぐらい経っただろうか、涼しい風にさらされて、薄ら汗ばんでいた肌も乾ききって、斜光がつくる建物の長い影でぼくの全身は覆い尽くされ、しばらくすると、半ズボンからむき出しの太腿は泡立った。
 少し屈んで掌で腿をこすりながら、なおも待っていると、突然、玄関の扉が開いて、ジョンを連れた佐藤が出て来た。ぼくはすかさず後をつける。
 佐藤はいつもの決まったコースを辿る。丁度、ジョンが災難に遭遇した地点まで来ると、立ち止まって、辺りを見渡し始めた。
 ここは、車道を隔てて私鉄の駅舎を正面にのぞむ歩道で、降車した乗客は、そのまま向こう側の歩道を行く者と、左手の遮断機が下りているうちに、足早に車道を渡り切ってこちら側へなだれ込む者とに分かれる。
 佐藤は歩道の端に避け、人波をやり過ごしていた。と、その視線が一人の男を捉えたまま固定された。男は道路を渡ると、佐藤の横を通り過ぎた。佐藤はジョンを引き連れて男の後を追う。
 ぼくは人込みに紛れて後ろから、気づかれないようについて行った。
 男は真っすぐ行った先の交差点を渡って右に折れると、バス停の前で止まった。歩道橋の階段を背にして車道の方を向いて立つ。グレーのスーツに鞄を提げ、苦虫をかみつぶした不機嫌そうな表情をして、随分と歳を食っているようにぼくには思われたが、
「目撃証言によると二十代後半ぐらいよ」
 と前列の席の女子は言っていた。とすると、担任と同年代ということだ。
 佐藤は交差点を渡らず、そこで男の様子をじっとうかがっている。
 二、三分後、バスが停まり、去ったあとには、男の影は跡形もなく消え失せていた。
「あの男かい?」
 ぼくは意を決して、彼の傍に寄り、声をかけた。
 佐藤は一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐにいつも通りの落ち着いた表情に戻った。でも、射るような眼光の激しさは隠せはしない。ぼくには彼の悔しい気持ちがよく分かった。
 ぼくたちはしばらく無言でバス停を見続けた。
「仕返ししようぜ!」
 ぼくは提案した。
 彼は笑いながらぼくのほうを向いた。呆れ顔を見せつけたいのだろう。おそらく彼の心のうちはこうだ。
「どうやって?」
 もしくは、
「子供のオレたちに何ができる?」
 ぼくの憶測だが、彼の目の色は、そんな疑念であふれている。そこでぼくは彼の心をくすぐってみようと考えた。
「名案がある。聞く?」
 満面の笑みを彼に見せる。
 彼も最初こそ呆れ顔を見せていたが、ぼくの話を聞くうちにゲラゲラ腹を抱えて笑いだす始末だ。
「どうだ! まいったか?」
 ぼくは誇らしげに彼に言い放った。
「まいった、まいった」
 なおもゲラゲラと楽しげに返してきた。恐らくまだ本気にしてはいないだろう。
 ぼくは突如彼に真顔を見せつける。彼が高笑いするなか、ぼくは真剣な表情を決して崩さない。
「いつ、やる?」
 ぼくが問うと、しばらくして彼は笑うのをやめ、瞬きを繰り返す。
「本気か?」
 と問い返しているのだ。だからぼくは、深く深くうなずいてやった。
 ぼくは依然、真剣な顔を向けている。彼も途中から真顔でぼくを見つめた。ぼくたちはしばらく見つめ合うと、ほぼ同時にうなずき合ってお互いの気持ちを確かめたあと、声高に笑った。バカみたいにその場で小躍りしながら笑った。佐藤はジョンを抱きかかえると、天に高々と掲げながら。

     *

 次の金曜日、ぼくらは佐藤の家近くの小さな公園にいた。これから起こる愉快な出来事の打ち合わせを入念にして、二人と一匹は駅へと足を向ける。
 駅の改札口を睨みながらターゲットが現れるのひたすら待つ。
 駅の時計は、四時十五分から五時五十分まであっという間にタイムスリップした。シミュレーションをしながらだったから時間間隔が麻痺していたのだ。いつしか日は大きく傾き、低い位置からの陽光を遮るには手をそちらにかざすだけでは追いつかず、薬局とコンビニの間の路地へ入り、薬局の塀に隠れて頻繁に顔を路地から通りへ出したり引っ込めたりを繰り返しながら、“不条理の親玉”を待ち侘びた。
 遮断機が下り、普通電車がホームに進入し、乗降客の入れ替えが終わると改札口へと人波が流れ込んで来る。
 人の顔、顔、顔が左右へと分かれてゆく。それを注意深く確認する。
「あっ」
 佐藤が小さく叫んだ。
 その視線の方向を見て、彼の肩をポンと叩く。決行の合図だ。
 ──さあ、始まりだ!
 喜劇か悲劇か知らないが、いや、ぼくらにとっては喜劇そのものに違いないのだ。ぼくは大の大人に一泡吹かせてやる顛末を頭の中に描きながら、こちらに渡ってバス停へと歩を進める大人の男を追いかけた。
 交差点を渡り、バス停の前まで来て男は立ち止まる。
 ぼくらも気づかれないよう背後に張りついた。と、ぼくはバス停を離れ、急いで後ろの歩道橋の階段の途中まで上った。階段の端に座り込んでターゲットの様子をうかがう。
 佐藤がぼくのほうを見て指示を待つ。
「もっとこの真下まで」
 とぼくは指で合図を送った。
 すると、佐藤はジョンを抱きかかえ、その男の正面に躍り出る。ジョンがいきなり暴れ出したと見せかけ、必死につかまえる振りをして足元をふらつかせた。男は顔を背ける。その横顔は、より一層不機嫌な表情で不承不承といった具合に後ずさると、丁度頭部にぼくの手が届きそうな位置で立ち止まった。
 ──グッジョブ!
 僕は佐藤に右の親指を立て合図を送る。 
 まんまと男を目的の場所までおびき寄せることに成功した。
 ──早速、任務遂行だ!
 気づかれないようにそっと手を伸ばしてみる。絶妙な位置関係だ。難なく事は成し遂げられそうだ。
 ぼくは用意していた300グラム容量のマヨネーズのチューブのフタを開けた。中には、マヨネーズよりも固めの茶色の流体が詰まっている。
 右手に握って腕を伸ばす。男の頭部にチューブの口を向け、ムギュっと渾身の力でチューブ本体を握り締めた。クルクル回しながらまんべんなく丁寧に頭頂部に塗りたくってやる。
 中の物は、ぼくらの魂の欠片のように規則正しく男のてっぺんで静かに座り続け、役目を果たしている。  
 何か違和感を感じたのか男が頭上を見た。
 ぼくはハッとしてすぐに手を引っ込めたものの、少量の粒が男の口元に付着してしまった。が、そのことにはまだ気づいてはいないようだった。全てを悟られないうちに、ぼくはその場から逃走を企てた。
 佐藤と合流して後ろを振り返った。
 と、男はようやく我が身に降りかかった異変に気づいたらしく、一瞬体をピクリと震わせて頭髪にのった粘着物に触れ、手に付着した汚物を目にすると、階段のほうに向き直った。頭を振りながら掌で払い落としにかかる。何度も頭を触ったり、手を鼻に近づけたりしている。
 ──さてと、最終段階突入だ! 
 ぼくは男に怪訝な顔で近づいた。
「どうしたんですか?」
 一度尋ねて、いきなり、
「キャー!」
 と金切り声で叫んだ。
「何だ、ビックリするだろうが!」
 男がこっちを見て声を荒げた。
 ぼくと佐藤はご丁寧に驚愕の表情を演出しながら近づく。
「さっきの犬だ! イマイマシイやつめ! おじさん、やられたね。あいつ、いつもそこで引っかけやがるんだよ。こないだ、ぼくもさあ……ぼくは難を逃れられたけど、運がよかったんだね。日頃の行いがいいせいかもね。だってぼく、動物はいつも可愛がっているんだ。虐待なんてしたことないもの。だから動物も可愛がってくれる人間は分かるんだよ。きっとそうだ。おじさんは?」
 まじまじと男の顔を見てやった。
「何だと?」
 ふてぶてしい顔だ。
 ──これが、子供に対する良識ある大人の態度だろうか!
 ぼくは大きく息を吸い込んで次の一手を放った。
「キャー、おじさん、口に入ってる!」
 男は慌てて口元を手で拭った。手の甲には少量の汚物が、おしろいを伸ばしたみたいにべっとりついていた。
 大人の男は悲鳴にも似た訳の分からない叫び声を上げ、汚物を必死に落としにかかる。
「おじさん、早く家に帰って、お風呂に入ってさ……」
「うるせえ、少し黙ってろ!」
 声を荒げ、苛立つ男を見据えながら、ぼくは周りの大人たちの目がこちらに注がれていることを確認してから、大きく息を吸い込んだ。
「ウンコまみれの体、きれいに洗いなよー!」
 これでもか、と言うような常識外れの大声で叫んだ。これは未熟な子供の特権を行使したに過ぎない。
 ぼくの横では佐藤が、同じバスを待つ人たちに経緯を丁寧に説明してくれている。佐藤は弁が立つ。状況はうまく伝わったに違いない。
 周囲の人たちは男が移動する度に、避けるように離れて行く。
「このおじさん、犬に、ウンコかけられたんです」
「よ、よせ! もういいって、言わなくて……ち、違うんです……」
 大人の男は必死に周囲の人に向かって取り繕おうと躍起になる。
「何が違うの? おじさん、早く、ウンコ、落としてきれいにしたほうがいいよ!」
 ぼくは全うな意見を主張してやった。
 周囲を見ると、冷笑と侮蔑が入り混じった視線が男を突き刺していた。この視線は、単にウンコまみれのせいではない気がする。常日頃の素行の悪さが招いた、必然的視線なんだと思う。
 ──自分が嫌だと思うことは、絶対に他人にはしてはいけないんだ!
 ──でないと……
 ──結局は、自分自身に降りかかるものなんだ。
  ぼくはつくづく思い知った。
 ぼくたちは、男に深々とお辞儀をして礼を尽くし、その場を後にした。
 振り返って見ると、不条理の親玉は、滑稽でみっともない姿をさらしながら、まだもがき苦しんでいた。
 と、次の瞬間、一目散にそこから逃走を企てた。速い速い、まるで脱兎のようだ。
 恐らく、周囲の言われなき視線との戦いに負けてしまったのだ。
 ぼくたちは、ほぼ同時にクルリと身を翻し、走り去る哀れな男の後姿を眺めた。
 ──ざまあみろ!
 ぼくは腹の中で思わず悪態をついていた。
 しばらくすると、視界から“酢ミソ男”の影は消えていた。

     *

 ぼくたちは大仕事を終えて帰宅の途についた。
 途中、ジョンの被災の地で立ち止まり、お互い顔を見合わせ、笑みを交換した。が、なぜか心は晴れなかった。胸辺りがモヤモヤして何とも気色が悪い。
 その地を過ぎ、二人は無言で歩いた。
 ぼくの心にはシコリのようなコブのような塊が詰まって、その重みに耐えきれずに気分も落ち込んでゆくようだった。思い切ってさっき心によぎった疑問を佐藤にぶつけてみることにした。
「ぼくたち、正義を全うしたんだよね?」
 佐藤は何も答えず、前方を向いたまま歩き続ける。
「後味、良くないってか? 後悔してるか?」
 しばらく行って急に立ち止まると、こちらを向いた。
「よくわからん。ほめられることじゃないことはわかってる。ただ、あの人、反省なんてしないと思う。また同じこと繰り返すよ、きっと。あんな大人がいるなんて信じたくない。大人は模範であるべきだよ」
「大人が、全部が全部正しいとは限らないだろう。大人だって間違うんだよ。それは仕方がない、人間なんだから。でも、間違いは見過ごしちゃいけない。大人なんだから。大人自らが正さなくて子供たちに示しがつくものか!」
「大人自身が間違いに気づかないとき、誰が正すのさ!」
「自浄作用が働かなきゃ始末に負えないな。大人に丸め込まれないようにしないと。オレたち自身で考えて吟味する必要がある。オレたちはオレたちの世界を築いてゆくしかない。大人の言うことを『はい、そのとおりで』なんて、うのみにして疑わないヤツは、ろくな大人にはなれない。そうならないように自分のオツムはついてるのさ。何事も考え抜こうぜ。正義なんて立場によって違う。一つに決まっていない。絶対なんてありえない。ただ、正義の根っ子は、いたわり、つまり愛だ。それを備えてるかどうかだ。でも、この世って、何で上っ面な正義しかないんだろう……」
「じゃあ何のために大人になるんだ。何でそんな世界を作るんだ。子供の心で取り組めばいいのに。そしたら、余計な争い事も減るだろうに。子供と大人って、どこが違うんだ? 同じ人間だろう? 大人っだって子供だった。大人なら、子供時代を忘れろって言うの? 大人ってそんなに偉いのかよ! 子供の正しい心を忘れなきゃダメなのか! だったら、ぼくは大人になんかならないよ。どこまでも透明な心のまま大人になってみせる!」
 ぼくは釈然としないまま佐藤と別れて、ひとりぼっちで家路を辿った。
 ──悪を懲らしめるには……
 ──正義の鉄槌が必要だ!
 徹底的に悪を排除しなければ、たちまちはびこって収拾がつかなくなる。そうなってからでは手遅れだ。
 ──それを阻止するには……
 ──正義の名の元に暴力も許されるのだ! 
 ──だから、武器は備えておくべきなのだ!
 ──完璧な武器があれば、何ものをも恐れる必要はないのだから!
 ぼくは、このとき誓った。
 いつか来るその日のために、鍛錬して自らの武器を磨き上げておこう、と。そして拳を握り締めると、高々と天にかざした。

     *

 何度となく彼ら──佐藤と田中。武富との対決は相変わらず不発で終わった。──に挑み続けたものの、腕力の差は歴然で、その度に打ち負かされはした。だが、こちらとて体つきもたくましく成長を遂げつつあるし、殴り方の研究には余念はなかった。
 ──いつか反撃の狼煙を上げ、打ち負かしてやるのだ!
 と息巻いて機会をうかがった。
 そうして腕試しは年中行事のように定期的に繰り返された。負け続けはしたが、次第に互角に渡り合えるまでに、体力も技術も精神力も備わってゆくのだった。
 彼らとは決して険悪の仲ではないことは言わずもがな。ケンカとはいわば、コミュニケーションの一つぐらいにお互い捉えていたのだ。レクリエーションの一環だ。だから、すこぶる良好な関係を築き上げてもいた。お山の大将を決める儀式、つまりは内政だ。ぼくは、それのみでは飽き足らず、外交努力に勤しんだ。誰彼構わずケンカを吹っかけた。いかなる相手でもこの手段で友好関係は築けるものと甚だしい勘違いをしていた。
 ある日、別のクラスメイトとケンカになったとき、ぼくの考えは挫かれる羽目になる。
 そいつは、こちらが矛先をおさめたあとも、ネチネチと絡みつきそうな舌先を駆使して嫌味を言い続けるのだ。日が経ったところで、何かとその一件を持ち出しては粘着質のへそ曲がりで寛容の心は持ち合わせてはいない。
 佐藤はクールな微笑で、
「しようがない、あきらめな」
 と言わんばかりに首を横に振ってくるし、田中はぼくを慮って相手と交渉中に自ら激昂して事態は増々悪化した。武富は穏やかに仲を取り持とうと計らってくれたが、これまた交渉決裂、静かに引き下がる。
 在学中、そいつとはついぞ良好な関係は築けなかった。たぶん一生涯、ぼくは根に持たれるのだと覚悟を決めるに至ったのだ。
 そういう経験を踏まえて、ケンカ相手はよくよく吟味すべしとの結論を下した。これも一種の学びであろう。ぼくは賢くなったのかもしれない。
 だから、ぼくにとってケンカ相手とは仲間(同類)にほかならない。仲間との意思疎通をはかる目的で、ぼくの小学校時代はいい気になって拳を振るう日々でもあった。
 
    *

 卒業式が終わり、ぼくたちは教室へ戻った。
 女の子たちは友との別れを惜しんで泣いている。手を取り合い、抱き合って泣いている。その光景にぼくの胸も締めつけられたが、ぐっとこらえた。それでも、胸の奥が痛いような感覚はいつまでもぼくの内部から苛め抜き、胸を顔を破裂させようとした。ぼくはその重苦しい塊を唾と一緒に胸底へ飲み込んだ。
 教室でのそれぞれの別れの儀式が終わると、思い出の学び舎を出た。
 校庭に出てからもぼくたちはなかなか離れることができずに記念写真を撮り合ったり、先生との最後の別れの挨拶を交わしたりして、時が過ぎ去るのをいかに阻止しようかといった具合に動けずにいた。すると、佐藤が静かにぼくの元へ近寄って来て、肩をポンと叩いた。
「ありがとな……」
 余韻を含んだひと言だけ告げ、一瞬見つめ合うと彼は踵を返し、去って行った。ぼくは後姿をいつまでも目で追いかける。
 佐藤が去ったあと、残っていた卒業生は皆、名残を惜しみながら校門を出てようやく次のステップを踏んだ。
 ぼくの脳裏にはかけがえのない時間の断片が、映し出された。佐藤、田中、武富の顔が、自ずと浮かび上がる。
 一人っ子のぼくに、まるで兄弟のように接してくれた友。ぼくの成長を促し、方向を指し示してくれた貴重な先達。
 ──ぼくは決して彼らを忘れない!
 ──忘れられるものではない!
 ──忘れてはならない!
 この先の人生に光明を当ててくれた者への感謝で胸がいっぱいになった。
「ありがとう」
 佐藤は別れ際、ぼくに言ってくれた。ぼくだって叫びたい。
「みんな、ありがとう!」
 ぼくは大好きな友らに別れを告げた。
 そして、まっすぐ前を向いて一歩を踏み出した。


第三章・停戦

 中学に上がると、方々から色々な奴らが集まって学校という集団を構成していることに気づいた。
 その中にはかつて転校して行ったクラスメイトも数人いた。久しぶりに再会を果たし、手を取り合って喜び合った。
 だが、一方では曲者集団が横行していた。そいつらといかにして良好な関係を築いてゆけるかが今後の課題となるだろう。下手をすれば一触即発の事態を招きかねない。極力衝突は避けるべきだ。少なくとも今はまだその時期ではない。
 またゼロからの出発だ。仲間と集い、良き関係を模索しなければならない。
 ──本音で渡り合えるケンカ仲間ができるだろうか?
 ぼくは不安と期待に大きく胸を膨らませながら、新しい世界への門をくぐったのだ。

     *

 しばらくは、ぼくの好戦的な性格は鳴りをひそめ、恐らく、傍目には穏やかでおとなしいひょうきん者とだけ映っていたに違いない。
 というのも、入学前、この乱暴な性格を懸念した母から、再三再四苦言を呈され、尚且つ誰彼構わずのケンカに釘を刺されていたので、 
 ──いっちょ素直に従って、孝行心でも見せつけておこうか……
 と気紛れに大人を気取ってみたくなっただけだ。
 だが、そのことが裏目に出てしまったようだ。
 一年時には二回ほど一触即発の事態に遭遇したが、何とか悔しさを噛み殺してこちらがこらえ、手は出さず仕舞いに乗り切ったものの、二年生に上がって間もない頃、ぼくがおとなしい良い子を演じ切っているのをいいことに、しきりにちょっかいを出してくる不届き者があった。
 いかなる了見か推し量り難いが、恐らく、格下の相手を苛めて己が憂さ晴らしのはけ口なぞと了見違いも甚だしく、矛先を向けたのに相違あるまい。
 ──世の中、どこにでも……
 ──愚か者というか、怖れ知らずというべきか……
 ──怖いもの見たさの輩はいるものだ!
 こんな愚か者の類は端から相手にはしなかったが、何かにつけてつきまとわれ、あまりにもうるさいので、ぼくの暴力愛が次第に鎌首をもたげ出した。
 好機を見定めて、休み時間にまた挑発されたのを、ここぞとばかりに、両手で制服の襟首を握り締め、窓際まで力ずくで押して水平に渡らせた落下防止の二本のパイプに背を押さえつけ、一発だけ拳を食らわし、胸ぐらを両手でグイッと持ち上げて体ごと宙に浮かせ、怪力を見せつけてやったら、目を泳がせ始めた。
 かような愚行を平然と為し得る者が、この世にいたとは思いもよらぬ目だ。度胸もない負け犬とでもぼくを見紛ったのだ。
 それ以来彼は、これまでの態度を一変させ、媚びへつらうようになる。それもまた、いささか鬱陶しく、こちらが避けたところでぼくの姿を見つける度にうるさくつきまとわれる羽目になった。
 そうして、拳の封印を自ら解いたぼくは、
 ──やはりデモンストレーションは必要なのだ!
 との結論に至る。


第四章・教室の火薬庫

 三年の夏休み前頃から、教室に不穏な冷気を感じるようになった。
 クラスは数グループに分かれ始め、小グループ同士がくっついたり、離れたりを繰り返した挙句、結局、ほぼ同規模の三つのグループに落ち着いた。人数が多い順に、第一、第二、第三と区別して皆は呼び合い、三つ巴で何かと小競り合いを繰り広げた。
 何れのグループにも所属していないのは、ぼくと凪聖人の唯二人だけになった。
 聖人とは幼稚園時代からの幼馴染だ。
 激しい気性のぼくとはまるで正反対の、穏やかな優しい気質の彼とは気が合った。陰と陽が引きつけられるように、一緒にいてすこぶる心地がよい。小学校五、六年生のときクラスメイトで、中三になってまた同級に返り咲いたことを二人して喜び合った。親友同士の絆は今もって何ら変わってはいない。
 その聖人が、三つのグループから同時に仲間に入るよう執拗に勧誘を受けていた。しかし、彼は穏やかに微笑みながら、
「ぼくはクラスのみんなと仲良くしたいんだ」
 と何れのグループへも所属の意志がないことを主張するばかりで、頑として申し出を拒み続けていた。
 ぼくとて同様の勧誘は受けていたが、彼に対するほどの執拗さはなかった。
 そんな聖人の身に災難が降りかかるようになった。
 最初は、ぼく以外のクラスメイト全員から無視されるようになり、次第にエスカレートして、物を隠されたり、体育の時間など、わざとバレーボールを顔面めがけてぶつけられたり、提出物を教卓に置いて席に戻る途中、足を引っかけられ転倒したり、といったあからさまな嫌がらせがはびこり出したのだ。
 ──なぜ、そんなに聖人を嫌うのか?
 誰かを嫌うという心理の根底には、自分自身に対する嫌悪感が内在しているのかもしれない。
 ──聖人の中に自分と同じ部分を見つけ、己への蔑みを投影しているのか? 
 それとも、羨望からかもしれない。
 ──自分に備わっていない、心の清らかさへの憧れが募って……
 ──腹立ちやもどかしさといった感情が爆発した結果なのだろうか?
 羞恥やその他諸々の複雑な感情が己の心の中で渦巻き、本人も知らず知らずに己への反発心を映し出す鏡として聖人を眺めているのかもしれない。
 ──こういうこともあり得るんだろう……
 しかし、聖人は彼らとは格段に心の出来が違う。邪悪な心など持ち合わせてはいない。聖人は正しい人なのだ。

     *

 ある朝、登校すると、教室から騒々しい空気が廊下に漏れ出ていた。
 入り口の戸を引いて中へ足を踏み入れたら、後ろの黒板を皆が取り囲んでいる。
 ぼくはそちらへ進み、背を向けたクラスメイトの肩を交互にかき分けながら群衆の真っ只中へ飛び込んで行った。
 半円の中央で、聖人が第二グループのリーダー格の一人、藤田正義ふじた まさよしに頬を叩かれる姿が目に飛び込んだのだ。
 その名も“正義(せいぎ)”とは、
 ──名前負けも甚だしいだろう!
 と揶揄してやりたくなる。
 嘆かわしいことに、正義は一つも身につかなかったようだ。
 ──このような愚行をご両親が目撃したら、さぞお嘆きするに違いないことよ!
 面長の顔に鋭利な刃物で細く切り込みの入ったつり目から暗い眼光は放たれ、人を下目に見る印象が、この男につきまとっている。
 ぼくは心というものは外見に投影されるものと考える。
 常に人を見下した彼の表情は正に冷徹さを物語っていると思った。つまり、それが残虐行為であろうが、いつ何時も冷静沈着に事を成し遂げる意志が読み取れるのだ。
 ──罪の意識を欠いた人間!
 ──これほど恐ろしい存在はない!
 ひょろりとした一七〇センチメートルほどの身長から聖人は見下ろされたまま、何度も平手打ちを浴びせかけられていた。
 やり込められる姿に心は痛んだが、強烈な一撃は一つもなかったので、もう少し静観することにした。自ら対処法を模索し、難なくこの場面を切り抜けるだろう、と踏んだからである。おめおめとやり込められるような弱い人間ではないのだ。
 しかし、聖人はいつまで経っても一切手出しもせず、唯耐え忍ぶのみ。相手に対して憎しみや恨みの眼差しを突き刺すのでもなく、唯々、ひたすらにキリスト者然として、
「皆平等なのだ」
 といわんばかりに、往復ビンタの反動で左、右と頬を差し出し、薄ら微笑みさえ浮かべていた。
 聖人は運動神経もよく発達していて力も強い。体格もそこそこあって、決して相手に引けを取らない。その力で捻じ伏せるぐらい容易いことだ。だが、一向にそうはしないのだ。
 ぼくは首を捻りながら、彼なりの考えがあってのことだろう、とやられ続けるのを傍観した。たぶん、反撃の好機をうかがっているのだと確信していた。
「今に見ていろ」
 と藤田に侮蔑の眼差しを突き刺して、ぼくは聖人の反撃を待ち侘びていたけれども、依然、無抵抗を貫く。
 何も手を打たない聖人にぼくは苛立ち始め、もどかしく思いつつ、助け船を出すべきか躊躇していたら、ようやく藤田も矛先をおさめ、獲物を解放した。
 聖人の様子をうかがうと、相変わらず、微笑をたたえたままキッと立ち、自分の席へと涼しい表情で歩を進める。席に着いてぼくを認めると、何ごともなかったように手を振ってきた。
 ぼくは呆気に取られ、幾分困惑気味に頷いてそれに応えたものの、その場に縛りつけられていた。
 怒りが込み上げてくる。
 やられっぱなしで反撃すらせず、おめおめと引き下がる姿が情けないやら憐れやら、到底許すことができない。暴力を受けたのにもかかわらず、ぼくに対する普段通りの振る舞いも心底気にくわない。強者に尻尾を振るような弱々しい態度は見るに忍びない。
 怒りに煮えたぎった血が全身を駆け巡り、次第に身が震え出す。

     *

 その後、聖人が寄ってたかって集団の餌食になる場面に何度か出くわした。
「ほら見ろ。自分の招いた顛末を思い知れ!」
 と、内心激しい憤りを抱えつつ一男子の情けない姿を眺めた。だが、その度に無抵抗は貫かれた。
 無抵抗の間、取り澄ましてどこか達観したかのような聖人の仏面を見るにつけ、一種の偽善とさえ思うようになってゆく。ぼくの不満は次第に憎しみめいた激情を心に宿し始めた。ぼくは、決して助けようとはせず、傍観を決め込み、事後、憤懣やるかたない顔をこれ見よがしに向けてうったえかけるのみ。
 ぼくは聖人の性格に不満を募らせ、疑念を抱き始めた。
 体力的には引けを取らないのに、
 ──決して力にうったえることのないその“優しさ”は……
 ──心のひ弱さの象徴で未発達の証拠だ!
 ──本当の優しさとは……
「正義が何たるか」
 を力ずくでも相手に悟らせることなのだ。
 ──聖人、君のは断固、優しさではない!
 ──君は間違っている!
 ひどくもどかしい胸辺りのモヤモヤは腹立たしさへと様相を変え、自制心は崩壊の一途を辿った。感情が沸点を遥かに超え、煮えたぎったマグマが胸底から頭頂部へ上り詰め、遂には噴出する勢いに理性は抑え込まれた。荒ぶる感情のマグマが爆発したとき、体が無意識に反応した。
 ──無抵抗は……
 ──弱者の逃げ道に過ぎない!
 ──愚者のみが下す結論なのだ!
 ──敵にナメられるばかりで、何の解決にもならない!
 それを悟らせるべく彼に詰め寄った。
「なぜ反撃しないんだ!」
 聖人はいつもの温和な笑みを浮かべるばかりだ。一貫して態度を変えようとはしない。どうしていつ何時もそんな涼しい顔でいられるのか、ぼくには理解できないし、そんな振る舞いは人として間違っている、人を見下げた許しがたい行為なのだ。
 ぼくは彼を見つめながら途方に暮れ、いつしか右の拳に力がこもる。
「人をバカにするな! やられたらやり返すのが道理だ!」
 勢いぼくの拳は振り下ろされていた。「もっとオレに抵抗してこい!」
 反射的に一度振り下ろされてしまった拳は歯止めなどきかず、少々こっ酷く彼の頬を殴ってしまったようだ。それでも優しげなまなこはぼくを見つめたまま笑いかけるばかりだ。
 もっと強くなってもらいたいがための、いわば正義の鉄槌だった。なのにわかってもらえない。その一途な無抵抗の意地らしさは、却ってぼくの神経を逆撫でしてしまう。

     *

 それ以来、ぼくは、つい聖人に辛く当たるようになった。柔和な表情を見るにつけ、苛立たしさが募ってしょうがない。手は出したくはないのに、どうしても暴力で悟らせようとしてしまう。
 ──暴力に打ち勝つには、暴力しか術はないのだ!
 そうでないと己の身は守れない。それをわかってほしいだけだ。
 またもや夢中で平手打ちしながら、ふとその目を覗いた瞬間、我に返り、戦意は喪失した。群青色の凪いだ眼が、悲しくてたまらない。結局、ぼくの忠告などには耳も貸さず、あくまでも無抵抗の態度を改めはしなかった。
 その日、ぼくは帰宅して、聖人を苦々しく思いながらもその終始一貫した態度について深く考えてみた。
 ──どんな気持ちで災難をやり過ごしていたのか?
 ヤツらに攻撃され続ける姿は、決して折れることのない柳のように相手の力をしなやかに受け、まるで吸収するかのように揺れるのみで、一種異様な生命体の動きに似ていると思う。いかなる形にも変幻自在で倒れるのかと思えば、すっくと立ち、元々あるがままの状態を呈する。
 ふと脳裏にある思いが湧いた。
 ──心折れずにひたすら耐え忍ぶ姿は、真の強さを物語っているのか?
 無抵抗でしなやかに攻撃をかわしつつ最小規模の被害で済まそうとしているようにも見える。
 ──しかし……?
 例えば、苛められても無表情、あるいは反応が薄ければ、相手はもどかしく切なくさえ思い、また余計に手を出したくなる。その耐えるでもない、淡々とやり過ごす姿に、悲しみすら覚え、知らぬ間に苛めはエスカレートしてしまう。心では苛めたくないのに行為は続けざるを得ない状況へと自らを追い込んでしまう。
「どうか反撃してほしい」
 と祈りながら。
 相手側は反応を求めている。災厄にさらされながらも、あくまで穏やかな、あるいは耐える姿は、罪悪感を生んでしまう。それから逃れたいがため、歯止めがきかなくなってくる。もし抵抗の兆しが現れれば、気分も楽になる。人は罪から逃れたいものだ。
 人の行為がエスカレートしてしまうのには、そういう理屈だってあり得るのかもしれない。だが、これは一例に過ぎないとも思う。他の理由からの場合ももちろんあるだろう。
 ぼくはそのときハッとした。
 自分では聖人を苛めている感覚なんて毛頭なかった。それどころか、ぼくの暴力は教育的な配慮で、その正当な道具、間違いを正してやる思いやりにあふれた手段としか考えていなかった。
 しかし、結局、自分のやっていることは苛めているだけなのだ。かの苛め集団と同類なのだとようやく悟った。
 ぼくは唯彼のことが本当に好きで、もっと強くなって抵抗して、ヤツらをはね退けてほしかっただけだ。そんな気持ちをこんな愚行でしか表現し切れない自分に心底腹が立ち、自己嫌悪に陥ってしまう。
 ぼくはこれまでの過ちを詫びなければならないと思った。そして二人の関係を修復しようと決心した。
 後日、ぼくのほうから許しを請うと、聖人は、
「初めからわかっていたよ、君の気持は。ありがとう」
 と悟り顔で返してくれた。
 そのとき、ぼくは固く誓った。これまでの友情表現は根本的に間違ている。
 ──真の友情とは……
 ──何が何でもぼく自身でこの親友を全力で守り抜くこと!
 ──聖人の代わりに、ぼくの拳を敵に見舞ってやること!
 ──それこそが真の友情の証なのだ!
 もう決して聖人に手を上げたりもしないし、その心の優しさをありのまま素直に受け入れようと思った。
 それ以来、ぼくらは以前より増して互いの絆を深めていったのだ。

     *

 ある日、また聖人が苛めに遭っていた。第二グループの輩だ。
 それを目撃すると、すかさず三人の間に割って入り、ぼくは彼を守ろうとした。
 すると相手方の一人、かの藤田正義がぼくに襲いかかる。藤田はぼくのことを何ら知らない。暴力の信奉者だということ、絶大な武器を所有していることも。
 ぼくは最初手は出さず、防御するにとどめ、成り行きを見守った。
 藤田はぼくの胸を突いたり、胸ぐらをつかんで押し倒そうとしたり、軽くビンタしたりを繰り返す。
 ぼくは聖人に倣って、なるだけ穏便に済ませようと思ったので抵抗はしなかった。しかし、無抵抗は相手の暴力を助長してしまい、増々つけ上がらせ、行為をエスカレートさせてしまう。
 大した暴力ではなかったが、ぼくがやられるのを見兼ねた聖人が間に入り止めようとしてくれた。
 その行為に逆上した藤田は、すぐさま矛先を聖人に向けた。ぼくの力のほうが勝っており怯まないものだから、仕方なく弱者のほうへ向いたのだ。藤田は聖人を押し倒して馬乗りになり、身動きできなくしてからビンタを食らわす。
 ぼくはそんな卑怯なやり方に怒りを抑えられなくなって、その胸ぐらをつかんで、力任せに立たせると、強引に引きずって教室の後ろの戸に背中を押しつけた。一旦、藤田の目の前に右の拳を見せつける。
「オレは今からお前を殴る。いいな!」
 宣戦布告して左手で藤田の胸ぐらをグイと引きつけた。ぼくの拳はその左頬を一瞬だけ捉え、はね返った。
 小さな一撃であったが、藤田は驚きと怯えの目の色を覗かせる。すかさず鋭い眼光を浴びせかけた。
「ナメとんのか!」
 凄んで見せ、今度は両手で制服の襟を握り締め、体を浮かせながら藤田の右側に腰を入れ、払い腰と同時に宙に浮いた上体ごと床に叩きつけるように背中から落とす。床に落ちる瞬間、右袖を握り締めたぼくの左手は藤田の全体重を持ち上げ、落下の衝撃を緩和してやる。仰向けになったその上半身に馬乗りになり、目の前に拳を突きつけた。
「まだヤルか?」
「い、いいや……」
 蚊の鳴くような返答をした。
 ぼくはまた両手で胸ぐらをつかんで立たせると、思い切り胸を突き飛ばし解放してやった。と、藤田はよろけながらあとずさりして尻もちをついた。
 周囲を見回すと、皆、遠巻きにこちらを見ていた。
 ぼくは、取り囲んだ者どもを見渡すようににらみつけ、今、聖人を苛めていた第二グループの間を回って一人ひとり、凄んで見せながら一発ずつビンタを浴びせていった。ヤツらは借りてきた猫状態で、手も足も出せぬ様子だ。ぼくに歯向かう勇気など最早なかろう。ぼくはヤツらの戦意を削いでやったことに満足した。
 ぼくは聖人を促してわざとヤツらの前をゆっくり進んだ。ぼくらが前を横切るとヤツらは道を開けざるを得ない。その目は泳いでいた。そうして、ぼくはいい気分で聖人と一緒に教室を出た。

     *

 クラスに中野麗華なかの れいかという女子生徒がいる。
 入学当初より、ぼくと聖人の憧れのマドンナである。よく聖人と彼女の噂をし合ったものだ。二年生のクラス編成の折、同級になりたい一心で二人して祈りを込めたが、結局、そのときは三人バラバラのクラスで落胆した。
 三年時のクラス編成では絶望するのが嫌で端から諦めムードにて成り行きを見守った。期待すれば大きな落胆を味わう羽目に陥るゆえ、祈りは全く込めなかった。それが幸いしたかは天のみぞ知ることだが、遂に期待は大はずれ、去年の祈りが今になってようやく天に届き、めでたくも三人まとめて同じ釜の中へ放り込まれた。ぼくら男同士、密かに手を取り合って喜び合った。
 彼女の潤んだ眼はよく人を見つめ、分け隔てない優しげな視線に心奪われてしまう。摘まむと弾けそうな真っ赤な唇は夢物語を語り尽くすようで、放たれた言霊が異性を虜にする。陸上部に所属し、短距離と幅跳びを得意種目としていた。取り分け、漆黒の髪をなびかせながら、日本人離れした長くて真っすぐのびた白い脚が、艶めかしく地面を蹴って走る姿にため息を洩らさぬ男子生徒はいないだろう。激しく躍動するよく熟した胸元の果実が、思春期の男子にはあまりにも刺激が強過ぎるきらいはある。成績もすこぶる良好、文武両道にして容姿端麗、まるで少女漫画を地で行く彼女は、男子生徒ばかりか女生徒からの人気も高く、一年生から三年生まで校内生徒殆どの憧れの的なのだ。
 それゆえ、人目を引く。彼女の一挙手一投足の影響力はこの上もなく大きい。 
 そんな彼女も、いかなる経緯かは推量し兼ねるが、第二グループの一員となった。第二グループが拡大の一途を辿ったのは彼女の功績が大きい。絶大な人気につられ第二グループへ流れ込む者が続々と現れたのだから。もし、彼女がいなければ拮抗した大きな二つの流れに落ち着いていたはずだ。
 彼女は聖人がやられていた間、何ら口出しもしなかった。一方的な苛めを止めるでも、声を上げて制するでもなく、無言の唯の傍観者としての態度を頑なに守り通していた。単なる取り巻きの一人に過ぎなかったのだ。
「なぜ、助け船を出してやらなかった? 君が行動すれば従う者も大勢いるだろう? 苛めるとこを眺めて面白いのか?」
 ぼくは、彼女に詰め寄り、理由を問いただす。
「なぜ……? ルールを無視しているのはあなたたちじゃないかしら? 私はちゃんと所属を決めている。仲間同士の絆も固い。せっかく仲間に入れてやろうとしても無視するほうが道理に合わない。人って一人では何もできやしない。助け合わなければこの世は秩序も何もあったものじゃないわ。だから何らかの集団、組織に属してこそ人は人として成立できるのじゃないかしら? 多数派の意見を無視して従わず、逸脱するのは、民主主義に反するわ。単なる我がままよ。我がままを少しだけ正してあげることがいけないの? 苛めですって? 私たちにそんなつもりは毛頭ないのよ。あなたこそあんな暴力で捻じ伏せようなんて民主的ではないわ。最低の行為じゃない?」
 返ってきた答えに愕然とすると共に、その美貌に隠された本性が暴かれた瞬間、彼女に対する三年間の熱も一挙に冷めた。
 ぼくは孤独だった。
 ──いや違う!
 ──寂しかった!
 孤独というのはきんだ。人間、孤独にならなければ発展はない。孤独の時間こそ想像力が働き、創造し得るのだ。
 『集団が未だかつて創造をなし得たことはない』
 誰の言葉かは忘れたが、以前何かで読んだことがある。
 結局、最終的に個人の力のみが創造物を生み出すのだ。たとえ集団や組織に所属していたとしても、自立していなければならない。そうでなければ集団の利益だけを優先してしまい兼ねない。組織の名のもとに悪事も平然と為しうる輩になり下がるのが落ちだ。
 ──せっかくの自分本来の色を……
 ──組織の色に塗りかえてしまうべきではない!
 ──心は自分だけのものだ!
 ぼくは孤独を恐れない。孤独は寂しさと同義語ではないからだ。無理して友を作るつもりは毛頭ないのだ。他人の気持ちをないがしろにして、自分の都合しか考えない身勝手な上辺だけの友は欲しくはない。他人の痛みを理解しないような、想像力を欠いた友がたくさんいてもむなしいだけだ。そんなのは友とは呼べない。だったら、一人ぼっちのほうが寂しくはない。
 ──一人ぼっちでじゅうぶんだ!
 だが、幸せなことに、ぼくには聖人がいる。心を分かち合える親友がいつも傍に寄り添っていてくれる。上辺だけの友が百人千人万人集まろうとも、聖人一人には遠く及ばない。かけがえのないたった一人の親友を得られたぼくの人生は、巨万の富を築く以上の財産を得たのだ。
 ぼくは別段賢くも清廉潔白な君子でもないし、聖人とて同じだ。だが、彼女の言い分には断固反対する。
 ──何べんでも声高に言おう!
 ──人間は集団、組織から独立していなければならない!
 ──どっぷり浸かるものではない!
 他人の意見などに流されず、
『間違いは間違い』
『嫌なことは嫌』
 だと、自分の意思を明確に表すことが大事なのだ。ぼくはそう信じている。


第五章・勃発

 あからさまな聖人への嫌がらせはなくなった。ぼくらの傍からヤツらは遠ざかり、平穏な日常が訪れた。
 ──これで我が親友を守ってやれるのだ!
 あの見せしめの拳がきいたことに、ぼくは悦に入りながら安堵していた。
 ところが、あの件からずいぶん経ち、秋も深まった頃、登校して教室に入ろうとしたら、突然怒号が耳をつんざいた。
 中に入ったら、教室の後ろの人だかりに目がいった。
 不穏な気配に鞄をその場に放ってクラスメイトを押し退けて進むと、聖人が血祭りに上げられている光景を目の当たりにしたのだ。
 聖人の前に立ちはだかっていたのは、第一グループの首領、中山耕造なかやま こうぞうだ。
 腕力は我が校でナンバーワンと目されている強者である。
 ──さもありなん!
 上背といい、筋骨質のすこぶるガッシリとした体躯は申し分ない。この体格を武器に我が物顔でのさばっていたのだ。校内を闊歩する剛腕に逆らう者など誰もいなかった。坊主頭でアンパンを潰した中央に、これまたまるまるとよくこねられた団子鼻のくっついた、一見どことなく愛嬌のありそうな丸顔だが、目つきが悪い。常に獲物を物色するような鋭い眼光を突き刺してくる。獲物を見つけ次第、誰彼構わず痛めつけ、己の僕へと取り込む。そうやって一年時より配下を集めに集め、我がクラスのみならず、全校生徒を巻き込んで一大テリトリーを築き上げてきた。ゆえにあだ名を“首領(ドン)”という。
「ドン」
 皆は恐る恐る媚びへつらう。
 その痛々しいまでの献身振りには吐き気がしてしようがないのだ。
「バカめ!」
 内心いつもぼくはヤツのことを罵って、その度にペッと唾を吐き捨てていた。
 ヤツとはこれまで対決したことはないが、ヤツの腕力とて高が知れたものだ、とぼくは見抜いている。
 入学当初は野球部に所属していたが、二年生の夏、上級生が去ったあと、これからが、
「我らが天下だ!」
 なぞと息巻いていた矢先、暴力沙汰でめでたく退部に追い込まれ、それ以来、学校内外をぶらつき、良からぬ噂が絶えることはない。
 要するに半端者に過ぎない。その程度の男に何ら凄みはない。こっちは鼻先で嘲笑してやるのみ。
 ヤツは聖人を後ろの黒板に押しつけたまま、ぼくのほうを向くなり、ニヤリと片ほうの口角を持ち上げたあと、聖人の顔面に右ストレートを食らわせた。
 加減もせず、力任せに殴りつけられ、よろよろと二、三歩あとずさってヤツの傍を離れると、聖人は左手で患部を押さえ続けた。
 ヤツは尚も挑発的な目でぼくを見つめる。唇を一瞬引きつらせ、鼻先でせせら笑っている。今の聖人への攻撃は、ぼくに叩きつけられた“果たし状”なのは明々白々だ。
 ぼくは聖人のほうへ歩み寄り、肩を抱きかかえるようにその場から避難させてやる。それから、ゆっくりヤツのほうへと歩を進めた。
 ヤツの目前まで来ると、無表情で冷めた目を向ける。そのまま微動だにせず、滑稽なつくりの団栗眼をじっと見つめた。
 ぼくの心は重力崩壊寸前だ。自らの重みで潰れてしまいそうで、じきに大爆発を起こしたら、物凄い勢いで憤怒のエネルギーを撒き散らすだろう。あとに残った胸の奥のどす黒い虚無──ブラックホール──は、ぼくの心を奈落の底に突き落とし続け、光さえ遮断してしまって、ぼくの存在自体をも隠してしまうかもしれない。抑制し続けるのも疲れるし、そうしたって何の意味もない。
 ──暴力こそ、解決の最善の手段なのだ!
 にらめっこは続く。
 しばらくして痺れを切らしたのか、ヤツは一度だけこちらに詰め寄る仕種を見せたが、ぼくが動じなかったため、二人のにらみ合いは継続した。ぼくは心の中でヤツを嘲笑しながら尚も視線を突き刺す。
 ヤツは何も仕かけてはこないので、こちらから少しだけ近づき、微笑みかけた。そしてその頬を軽く平手で打ち、ぼくを攻撃しやすいように挑発して、ケンカの大義名分を拵える。
 案の定、ヤツはぼくの仕かけた罠にはまった。ヤツは憤然と荒い鼻息でぼくに詰め寄ってきた。これで、お膳立ては調ったというわけだ。
 ぼくよりも少しだけ長身の中山は、自信満々に見下した態度でぼくの胸ぐらをつかんで拳を振り下ろした。
 ぼくは歯を食いしばり、一発だけ思いのまま殴らせたのだ。
 ヤツは勝ち誇った顔でぼくを見下ろしている。
 ぼくは素早い動作でヤツの胸ぐらを両手でつかむと、首を絞めつけながらその体を持ち上げ、そのままいっとき静止した。体を宙に浮かせたまま爪先立ちで激しく抵抗したが、ぼくの力が勝り、思いは遂げられない。ぼくが前方にその胸を押しながら離すと、ストンと着地してヨロヨロとあとずさった。転びはしなかったが、体勢を崩し、無防備に両手でバランスを取ろうとした。そこをすかさず襟元を握り締めたぼくは、その顔面に反撃の一発を食らわした。
「このクズ野郎が!」
 そうして、どうにも怒りを抑えられなくなったぼくは、怒声と共に何度も何度も殴り続けた。
 普段なら、手加減する。ケンカはデモンストレーションに過ぎぬ。目の前の敵のように本気で相手を殴ることは決してしない。それが掟だ。ぼくは暗黙のルールを心得ていた。
 だが、このときばかりは、堪忍袋の緒が切れた。殴るごとについつい力がこもり三発、四発と立て続けに拳が相手の顔面を痛めつけたのち、ひと呼吸置いて、これで最後の一撃にしてやるつもりで、五発目を食らわそうと大きく振り被って全体重を拳に乗せた。すると、その一発がズシリとかなりの強度で顔面を捉えたようで、重たい感触が拳から二の腕を襲ってきたのだ。
 相手はその場に膝をつき、両手で顔を覆ってうずくまった。
 怒りがおさまらないぼくは、相手がわざとそうしたものと思い込み、一度だけ足の裏でその上半身を蹴り倒した。その場に寝っ転がったヤツの衣服をつかんで立たせ、顔を覆っていた手を強引にはがして胸ぐらをつかむ。
 瞼は腫れ上がり、見事な青あざを拵えていた。鼻血が止めどなく吹き出ている。口の中まで切っているらしく、口元からも鮮血の一筋が流れていた。威嚇のため、目の高さに振りかざしていた拳をふと見ると、血に染まっていた。
 相手は怯えた目で、ぼくが動く度、手で顔面を防御する仕種を繰り返す。
 周囲の者は皆、あとずさって遠巻きに驚愕の目つきでぼくを見ている。
 胸ぐらをつかんでいた手を緩めてやると、相手はまたその場にうずくまった。かなり痛そうに顔をしかめている。
 ぼくはようやく状況を飲み込んで、大変なことをしでかしたのだと危ぶんだ。だが、虚勢は張り続けねばならない。ここで怯んで弱腰を見せればナメられてしまい兼ねない。
「二度とこんな真似はするな! わかったか!」
 怒鳴ると、相手は苦悶の表情で頷いた。
 聖人を苛めていた二つのグループの連中を見回し、一人ひとりの胸ぐらをつかむと鋭い視線を突き刺しながら歩く。と、誰もが一人残らず素直に頷いた。
 一通りのパフォーマンスを済ませると、ケガを負わせた相手を立たせて近くにいたそいつの仲間の真っ只中に、背中を力いっぱい掌で押し出した。
「誰か保健室へ連れて行ってやれ!」
 ヤツはよろけながら、仲間の一人の腕につかまった。と、取り巻いていた数人が手を貸してやり、一緒に教室を出て行った。
 ぼくは聖人のケガの具合を見てやり、思いの外、軽症だったので安堵した。


終 章・武装解除

 帰宅し、ひとり、部屋でぼんやりしていたら、自ずとさっきの出来事が目前に蘇る。
 自分の拳は敵を捻じ伏せた。だが、そのために敵も自分と同等の武器を手に入れた。最初に武器を使ったぼくの行為を真似たのだ。ぼくの一撃が思わぬ反撃を食らった。しかも、ぼくだけに向けられるばかりか、聖人をも巻き添えにする羽目になった。
 拳を振るうのはこのぼくだけに与えられた特権なのだと身勝手に思っていた。だが、暴力の連鎖は歯止めがきかなくなる。それで、ぼくは相手より一層強い拳が必要になった。武力の行使は、同じか、またはそれを上回る力で返ってくるのだ。幸い、一番の強者はぼくだった。敵を難なく捻じ伏せることはでき、結局、勝負には勝った。一応は安心したものの、一歩間違えば、この自分が餌食になってしまう危険をはらんでいたかもしれないのだ。
 ぼくはたった今、取り返しのつかないことをしでかしていた、と気づいた。が、遅過ぎた。敵はまた自分よりも強大な力を見つけて向かってくるに違いない。
 ふと、聖人の姿が目に浮かんだ。
 ぼくが彼を殴ったとき、どうにか強くなってもらいたい一心で、いわば教育のつもりであんな愚行に及んだのだが、その間中彼は無抵抗のままだった。敵に対しても態度を変えはしなかった。今、その理由を深く探ってみる。
 ──聖人の無抵抗は心の強さゆえなのか?
 再びこんな考えが湧き上がってくる。
 ──聖人は無抵抗という抵抗を必死に貫いて主張していたのかもしれない……
 ぼくはハッとした。
「初めからわかっていたよ、君の気持は。ありがとう」 
 ぼくに殴られたあとにもかかわらず、
「ありがとう」
 などとぼくへの感謝の言葉で締めくくった真意を今、やっと理解できたように思う。何と深いいたわりなのだ。親友の真心に気づきもしなかった自分が恥ずかしくてたまらない。敵を暴力のみで捻じ伏せようと躍起になってきたぼくは、本当は弱虫なのかもしれない。
 ──暴力に頼る心は、真の強さとはかけ離れているのではないだろうか?
 そんな疑念が胸底から湧き出てきたとき、聖人は間違いなくぼくより強くて数段勝っている、この上もなく優れた人間なのだとぼくは認識せざるを得なくなった。 
 暴力は単純で効果絶大だ。一瞬で恐怖を植えつけ、支配できる。だが、力を維持し続けられれば問題ないが、翳りが見え始めた途端、立場は逆転する。挙句、互いに憎悪が蔓延し、分断は決定的なものとなろう。そんな結末を回避するには、決して暴力に頼るべきではないのだ。どんなに時間がかかろうとも、誠意ある対話を重視すべきである。それが人間不変の真理、最たる知恵なのだ。聖人を見るにつけ、そんな考えに思い至った。
 ぼくは拳を見つめた。ゆっくりと握り締めていた手を広げる。掌には血が滲んでいた。相手を殴ったとき、己の爪が掌に食い込んで突き刺さっていた。人を傷つけるという行為は、己も無傷ではいられないのだ。
 傷痕きずあとを見つめるうち、掌がズキズキと“いたみ”出した。
 ぼくは、爪切りを持って庭に続くサッシ窓を開け、座り込んだ。
 十指全ての爪を切り終えると、庭先に怒りと共に放り捨てた。芝生の上に散らばった爪の残骸を見つめながら心底悲しくなる。
 思わず身震いした。
 ぼくの右の拳に肉塊の潰れた感触がこびりついてしまっていた。拳に刻まれた記憶は時間が経っても消失などしなかった。敵の肉体がぼくの拳でグチャグチャにミンチ状に砕け散るイメージが湧く。ぼくの目の前には人間ではなく死肉の塊だけが映し出される。胸がムカついて吐き気がした。
「怖い……」
 思わず口を衝いてつぶやいた。
 相手を打ちのめし、まるでボロ雑巾のように、単なる物同然に人間を扱ってしまったことがショックで、心底恐怖を覚えたのだ。殴り返され、傷ついた痛みではない。己の肉体の痛みなど取るに足らない。攻撃される恐怖に勝る恐怖におののいたのだ。
 聖人が羨ましい。聖人はきっとこんな後ろめたい感情に取り憑かれはしないはずだ。  
 ──正義の心を持っていても、人を傷つけてしまえば……
 ──それは正義ではなくなる!
 結局、暴力の先に見えるものは、死そのものだ。極小規模な攻撃といえども、相手を死に至らしめる行為に他ならない。そのことに目を背けてしまえば、人間の皮をかぶった魔物でしかない。必ず報いを受ける羽目になる。人である以上、暴力を振るう時、己も死を被る覚悟をすべきなのだ。だが、そんな覚悟など、自分には微塵もないことがわかった。聖人は正真正銘の“人間”なのだ。
 ようやく聖人の全てを理解できた瞬間、突然目頭が熱くなり、涙がこぼれる。敵だとしても生身の人間を傷つけてしまったことが、悲しくて悲しくて、恐ろしくて恐ろしくてたまらないのだ。仕舞いには耐え切れず、声を上げて泣きじゃくった。
 しかし、その涙に喜びを見い出したのだった。
 両の掌を目の前に広げた。傷ついた右の掌を見つめながら、魂の髄が疼き出す。
 と、自ずと身も震え出し、ぼくは歓喜した。
 ──なぜなら?
 ──ぼくの中に、魔物は棲みついていない!
 とわかったから。
 ぼくは震えながら思わず叫んでいた。
「ぼくは、まだ人間だった!」
                                                 
             〈第四次世界大戦終結〉


 






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