学校に行けないんじゃない、行かないんだ
小学校3年生の2学期から、娘が不登校になった。始業式の日の放課後、学習指導室で担任の先生と初対面。もちろん本人は家で留守番だ。
何がダメなの?
先生に「これからどうアプローチしてほしいか、お母さんからご希望はありますか?」と聞かれて、私は答えた。
「始業式なら行けるかもしれないって期待してたんです。でも、今日もダメだったから、この先どうすればいいか分からなくて……」と。
言葉を体の外に吐き出したあと、胸の奥がモヤッとするのを感じた。カルピスを飲んだあとに、のどの周りを膜で覆われたような感覚。
しばらくして、私は、娘が始業式の日に欠席したことを「ダメだった」と表現した自分が、すごくすごく嫌だったんだ、と気付いた。
言葉選びが雑な自分に嫌気がさした。
「学校に行けてなくて」
そういえば、娘の不登校が始まったばかりの頃、私を心配して連絡をくれたママ友やライター仲間にも「2学期の頭から学校に行けてなくて」と説明していたっけ。
改めて考えると「学校に行けない」って、行かなきゃいけないみたいな言い方だよね。
そりゃあ、以前みたいに登校してくれれば、圧倒的に負担は少ない。お昼ごはんの準備も、オンライン授業の打ち合わせも、配布物の受け取りのために学校へ行くこともないのだから。
そういう意味では行かせたいのかもしれない。
でも、そうじゃないんだ。私は娘を無理して通わせようとは、これっぽっちも思っていない。だから「学校に行けていない」っていう言い方は絶対に違う。
探していた言葉
私が見る限り、今は娘に「学校に戻る」という選択肢はなさそうだ。
「まだ本人は行動したがらないけれど、学校以外にどんな場所があるのか調べてみよう」と、自宅から行ける範囲内の不登校児の居場所を探してみた。
そこで、ある教室の公式サイトに目が留まった。そのページには確かに「学校に行かない選択をした子供たち」と書いてある。
その言葉を、何度も何度も目でなぞった。そう、これだよ。私が探していた言葉は。
娘は学校に行かないことを自ら選んだのだ。そういう選択肢があったって、何もおかしくない。選んでいいんだよ。学校が全てじゃないのだから。世界は広いのだから。
自分で違う居場所を探したって、誰も文句は言えないのだから。
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▼娘の不登校について、親である私が思うことを素直に綴ったエッセイです。
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