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しあわせだった頃の自分


今日は、わたしの幼少期のはなしをします。


私は、7人兄弟(厳密にはあと1人いるらしい)の長女で

昭和63年12月31日に生まれました。



3人妹弟だった頃の話です。

わたしは両親にとって初めての子どもで、小さい頃はとても大切にされ、可愛がられて育ちました。

家族は仲良しで、小さな2DKのアパートで、幸せに暮らしていました。


私は遊びが大好きで、妹弟と近所の子と、毎日暗くなるまで外で遊び、家の中では寝るまで絵を描いたり本を読んだりして、のびのび過ごしていました。

母方の実家が好きで、祖母と従兄弟と会えることが一番嬉しい時間だったことを覚えています。広い家を走り回って、寝るまで祖母の部屋で語り合うのが大好きでした。


祖母が優しく孫の私たちをありのまま肯定してくれるため、私は祖母が大好きで、”父が迎えにきた合図のクラクション”が嫌で帰宅拒否は日常茶飯事。

祖母は、”私達が帰るとき、車が見えなくなるまで笑顔で手を振り続ける”という習慣があり、私は車がカーブに入って遠い祖母が見えなくなるタイミングで、車内で泣くのが習慣でした。


誕生日が大晦日だったので、毎年12月はわくわく過ごしていました。

幼稚園を卒業する頃までは、クリスマスにサンタさんが来るだけでなく、

大晦日に父の友人宅に大勢で集まっていました。

大晦日は毎年、大きなケーキと、沢山の人からの「おたんじょうびおめでとう!!」コールがあるので、幸せいっぱいな気持ちで、誕生日と年越しで1年が締めくくられていました。



雲行き怪しくなったのは・・・小学校にあがった頃


私が小学1年生くらいの頃から、両親がよく喧嘩をするようになりました。


最初の頃は、妹弟と一緒に両親に声をかけたり、止めに入ったりしていたと思いますが、敵わないし、自分達も被害に遭うので、そのうち布団に潜ってやり過ごすことしかできなくなります。


投げ飛ばされたことはありますが、いちばん辛いのは、目の前で母や弟が殴られている声と姿。

喧嘩の最後は、いつも”父が家を出る”シーンで終わるので、それまで激しい争いが続きます。


当時のわたしには、なぜ争いが起きるのかよくわからず、怖い。妹弟と布団の中で作戦を立てて、何をしたとしても、どうにもなりませんでした。立ち向かっていく1人ひとりが投げ飛ばされていくので、両親が痣になったとしても、どんなに悲しくても、妹弟だけは守らないといけない。


大事な家族が目の前で傷つけあうショックは、言葉で言い表せません。

争いが起きたときは、祖母も父の友人も先生もいない、父はどこに行くのか、自分達子どもにはこの争いが止められないという現実を知り、絶望感に苛まれる日々。


よくわからないけど、”お金のことで頻繁に言い合いになっている”ということは、わかるようになっていきました。



お金は、人生を変えるもの


お金に問題があるとわかっても、自分には、”それを解決する力”がありませんでした。


お金がなんとかできれば、この喧嘩は止まりそうだ。

となんとなく感じる。


お金さえあれば・・・


だけど

わたしには、1円たりともお金をなんとかする力がない・・・


妹弟と3人のお年玉を両親に渡すくらいしか、方法はありません。


そんなことをしても、1ヶ月ももちません。

というかお年玉あげたくない、おもちゃ欲しいし・・・


どっちにしろ、お年玉を隠しても、そのうち見つかってなくなり

なくなっても喧嘩がなくならないので


子どものわたしには、できることはありませんでした。


信じた人はいなくなる


そのうち、”一緒に遊んでくれる近所の子の家に助けを求めに行く”と思いついて行動を起こすようになります。


しかし、仲良しだったはずの家族が、親身になってくれていた順に、引っ越していなくなっていきます。


「引っ越すことになったんだ」と言われるたびに

悲しさと恐怖のような感情に襲われる。


助けを求めたお母さん達は、うちに来て両親の喧嘩の仲介をしてくれました。今思えば大人でも怖かったと思います。



アパートの仲良しの友達、5家族くらいと別れたかな?

私はだんだん”次は、この人達がいなくなってしまうかもしれない”と察することができるようになり、その通りになったりするので、どうしても辛くて耐えられないときだけ助けを呼びに行くようになります。



”助けを求めた人はいなくなってしまう”

”いなくなったら嫌だ”

”いなくなったら嫌だから、助けは求めてはいけない”


それでも、友達だけでなく、お子さんのいない仲良しだった人も、新しく仲良くなった人も、次々といなくなりました。






そのうちアパートにいた仲良しだった人は、全員いなくなりました。




そして、父までも、家に帰って来ない日が増えていきました。


その頃くらいからかな?

学校への行き渋りが強くなり、わたしは学校を休みがちになりました。



今思えば、生きる意欲が足りなかったのかもしれません。



学校は楽しかったです。優しい友達や先生がいたから。

だけど、ついていけなかった。


朝起きれない。登校班にも学校にも間に合わない。

月謝も宿題も準備物も催し物も色々なことがしんどい。ついていけない。

勉強も授業も楽しいイベントも頭に入らない。


友達との会話は救いで気が紛れていたけど、家に帰ったらまた辛い時間が待っている。それは、いつ起きるかわからない。


とりあえず、月謝袋や物を買うための袋を渡された日が危ないということは知ってる。


怖い。


・・・ああ、めんどくさい


もうめんどくさい



どうでもいいや



私にとっては

母も父も、妹弟も大切な存在で

ただ幸せに暮らしたいだけなのに

幸せだったはずなのに


なんでこんな毎日なんだろう。



ある年を境に、大晦日はアパートで母と妹弟と過ごすようになりました。


あれ?

もう誕生日を祝ってくれる人もいなくなったんだ。


わたしはどうして生きているのかな?



わからなくなってきた・・・



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