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北島の巨大温帯林を巡る その① 〜人類が出会った最後の陸地は、深い森で覆われていた〜

忙しくて、ここ1年ほど新規投稿ができていませんでしたが、最近ニュージーランドの森の記事を再び書き始めました。長らくご無沙汰でしたが、お読みいただけると幸いです((^O^))。今回は、去年の5月、北島の山奥深くの森林保護区に行った時のレポートです。
5つに分けて投稿します。

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英語圏で人気のニュースサイト「Reddit」には、「Maps without New Zealand 」というジョーク掲示板があります(https://www.reddit.com/r/MapsWithoutNZ/)。その名の通り、ニュージーランドが載っていない世界地図を投稿するためだけの掲示板。ニュージーランドは、「世界地図に忘れられる国」としてよくネタにされているのです。

イタリアの食品会社が販売するパンの塗り物、「ヌテラ」の広告。
悲しいかな、ニュージーランドは枠外で忘れ去られている。

掲示板に投稿されている地図のほとんどは、地球儀をモチーフにしたアート作品や、企業のロゴなど、”地図としては使われていない世界地図”なのですが、時折「え、これは流石にマズイんじゃない?」と思ってしまうような代物も見かけます。その中のひとつが、こちら(↓)。

2016年に問題になったこちらの地図は、なんとニュージーランド政府公式ウェブサイトのエラー表示。メルカトル図法の世界地図が描かれていますが、見事にニュージーランドが忘れ去られています。「自分の国を忘れてしまうなんて、愉快な政府だ」と当時大きな話題になりました。個人的にSomethig’s missing…がいい味を出してると思います。

↑Google earthで南太平洋を映し出してみた。ニュージーランドがいかに隔絶されているかがわかる。

ヨーロッパを中心とした世界地図では、ニュージーランドが描かれるのは右下の端っこ。面積も大きくありませんから、もし描き忘れても地図全体の見栄えはあまり変わりません。これが、ニュージーランドが忘れられてしまう根本的な理由でしょう。
しかし、この国の歴史を考えると、「Maps without New Zealand 」を単なるジョークとしてバカにできなくなります。

実はニュージーランドは、地球上で最も遅く人類が到達した陸地。人類初上陸は今からたった800年前の13世紀。世界地図に描かれるようになったのは、わずか250年前の西暦1760年代です。人類は数万年以上、ニュージーランドの存在に気づいていなかった、ということになります。
地球の探検史全体で見ると、ニュージーランドが載っていない地図が”ホンモノ”として扱われていた時代のほうが、圧倒的に長かったのです。

↑ニュージーランドのオーストラリアの間に広がる、タスマン海。日本海みたいな距離感をイメージしていたが、幅は約2000km。ニュージーランド北部・アオンガにて。

ニュージーランドがあるのは、地球最大の海の南の端で、最も近いオーストラリア大陸からでも約2000km離れています。ヨーロッパから見ると、ちょうど地球の反対側の僻地です。
極端に広大な海によって、地球上の他の地域から隔絶された群島。”世界の端っこ”と呼ぶにふさわしい独特な地理条件が、この国を長らく人間の歴史から切り離してしまったのです。その反動で、人間が居住してからのニュージーランドの大地は、急激に変化してゆきました。

長きにわたって太平洋を放浪したのち北島に上陸し、開拓を押し進めた先住民たち。その先住民たちから土地を買い取り、牧畜を発展させ、「太平洋上のイングランド」を創り上げたヨーロッパ人たち。

↑人口150万人のニュージーランドの最大都市・オークランドは、19世紀初頭まで海岸沿いの小さな村落にすぎなかった。

新しく上陸した人々が、過去の歴史や自然を完全に塗り替えて、好きなように国土を改変していく。ニュージーランドは、そうやってできあがった国なのです。

しかし、数万年以上にわたって、人間が不在の歴史を歩んできた原始の島の自然が、たった800年間の急激な変化に耐えられるはずがありません。人類が到達する前、この国で展開されていたであろう原生的な自然の殆どは、すでに姿を消してしまいました。

今回は、そんな歴史の波に呑み込まれてしまった、巨木の森を訪ねるお話。この森の物語は、ニュージーランドに人類が初上陸した日から始まります。

ニュージーランドに初めて到達したのは誰?

ニュージーランドに、誰が、いつ、最初に到達したのかは、未だにはっきりと分かっていません。
今のところは、西暦1250年〜1300年の間に、ポリネシア東部からの移民が北島に到達したのが最初であるとされています。この移民は、他の民族と出会うことが無かった(人類初到達の土地に居住していたので、他者に自分自身の民族的アイデンティティを伝える必要が無かった)ため、自分たち自身の呼称を決めていませんでした。それゆえ、後にヨーロッパ人がニュージーランドに上陸した際、彼らは自らを「普通の人間」を意味する”マオリ”と名乗りました。

↑マオリがニュージーランドに到達した際に使用したと思われるカヌーのスケッチ。1769年に描かれたもの。
このタイプは”ダブルカヌー”と呼ばれており、2つの船体が1つの帆を共有している。この形状は長距離の航海に向いており、マオリの祖先はこの船で数千キロ以上の船旅をこなしたと考えられている。画像はpolynesian-voyagingより引用

近年行われた遺伝子学的解析によると、マオリの祖先は台湾にルーツを持つそうです(!)。日本がまだ縄文時代だった紀元前3000年ごろ、彼らは台湾を離れ、カヌーに乗って大海原へと繰り出しました。
島から島へ、数千キロの船旅をこなしながら、広大な太平洋を縦横無尽に駆け回る…。この生活スタイルが何世代にもわたって受け継がれ、台湾出発から経つこと4000年。彼らが最後に到達したのが、太平洋の南の外れの、巨大な陸塊でした。
彼らはその陸地を、長く白い雲がたなびく土地ー”アオテアロア(Aotearoa)”と名付けました。現在のニュージーランド北島です。

↑マオリがニュージーランドに到達するまでの道筋。マオリと台湾の原住民族との間には、遺伝子学的・文化的な類縁関係が見られる、というのは、1970年代から示唆されていた。
マオリの祖先が台湾を去ってから5000年以上経った現在でも、マオリの社会構造・言語構造は台湾原住民のそれと似ている、という指摘がなされている。


↑ニュージーランド最北端、レンイガ岬(Cape Reinga)。ここから最も近い他の陸地は1400km北西のニューカレドニアだが、レインガ岬とニューカレドニアの間には強力な東向きの海流が流れているため、ポリネシア系移民はニューカレドニア→ニュージーランドの航行ができなかった。
それゆえ、ニュージーランドへの人類初到達はニューカレドニアよりも2500年ほど遅れている。

有人史以降の森の収奪

さて、マオリが初到達した13世紀ごろ、ニュージーランドはまさしく"森の国"でした。当時の森林率は85%以上で、特に北島に至ってはほぼ全域が鬱蒼とした温帯雨林で覆われていました。
この温帯雨林には、樹高50mを超す”超高木”がひしめき合っており、深々しい原生林が海岸線ぎりぎりまで迫り出していたのです。

↑1840年に描かれた、ニュージーランド北島北部の風景画。現在の牧草地とは似ても似つかない深い森。(Alexander Turnbull Library, Ref: C-025-024)

台湾を去ってからの4000年間、マオリ(の祖先にあたる人々)は、南太平洋のど真ん中にポツポツと浮かぶ、ごく小さな島々を転々としていました。山1個だけからなる火山島、もしくは島のどこからでも海が見える小さな環礁州島で、わずかな耕地と水産物を頼りに細々と暮らす…。
そんな生活を送っていた人々が、いきなり世界で14番目に大きい陸の塊に上陸し、どこまでも続く深い深い原生林を目の当たりにしたのです。当然ながら、彼らの生活様式はガラッと変わることになります。

ニュージーランドの森の衰退が始まった瞬間でした。

↑14世紀ごろ、現在の北島南部ワイララパ付近に築かれていたとされる、マオリの集落。中央部の小高い丘の上に見えるのが、クマラの畑。mori-horticulture-growing-kmara--other-crops-the-traditional-way

マオリが初めにやったことは、森への火入れでした。

当時の彼らの主食は、ニュージーランド在来のワラビ(blecken,Pteridium esculentum)の根茎と、太平洋諸島から持ち込まれたクマラ(kumara,さつまいも)でした。ワラビは日照条件が良い場所で、大規模な群落をつくる植物(これは日本のワラビも同じです)。この性質を理解していたマオリは、森を火で一掃し、ワラビ群落を意図的に拡大させたのです。肥沃になった焼け跡には、クマラの畑も造成しました。


↑かつて北島の森林地帯に生息していたとされる、モア。(moasより引用)

マオリが火入れを行うまでは、ニュージーランドの内陸部は人間にとって”未知の領域”でした。巨木が密集した深い森が、人の視界と交通を遮り、広大な大地を枝葉のベールで包み込んでいたのです。

しかし、火入れによって”森の砦”は瞬く間に崩壊。マオリは内陸へ、内陸へと進出してゆきました。この過程で、北島と南島の東海岸の森の大部分が焼失し、ニュージーランド全体で見ても元からあった森のうち40%が姿を消したと推定されています。

視界が利くようになった草原では、ニュージーランド固有の飛べない鳥・モア(Moa)のハンティングが行われ、その個体数は激減。マオリの到達からわずか100年後の1445年、モア科に属する全ての種が絶滅しました。

↑森への火入れ。19世紀半ばごろ、北島西部タラナキ地方にて。Alexander Turnbull Library, Ref: E-453-f-008

18世紀以降にヨーロッパ人が入植を始めると、森の減少はさらに加速しました。

前述したように、ニュージーランドの温帯雨林には樹高50mを超す巨木がわんさか生えています(生えていた)。温帯の森で、樹木がここまで巨大化している場所は、世界でも数カ所しかありません。もちろん当時のヨーロッパ人たちは、天を突くような巨木の森など見たことがありませんでした。

地球の反対側に位置する絶海の孤島で、今まで見たことがないぐらいに巨大な樹木が、鬱蒼とした森を作り上げている…。この景観を見た入植者や商人たちは、莫大な富の到来を予感しました。この巨木、伐って輸出したら大儲けじゃないか…。

↑1840年、北島北部での大木の伐採(nzhistoryより引用)

商人たちの予想は見事に的中。ニュージーランド産の巨大な丸太は、1830年代にイギリス海軍の目に留まり、船のマストの建材として重宝されるようになりました。
また、当時はお隣のオーストラリアの植民地が発展し始めていた頃。当然ながら建築材の需要も増すわけで、膨大な量の木材がニュージーランドから伐り出され、タスマン海の向こう側まで輸出されました。

こうした木材貿易は、開拓が始まって間もないニュージーランドにとって、唯一の外貨獲得手段でした。1830年代半ばには、北島に住むヨーロッパ人の30%が木材貿易に携わるようになり、1853年には木材の輸出額がニュージーランドの輸出総額のうち31%に達しました。この頃の木材産業が築き上げた富が、後のニュージーランドの開拓を大きく前進させたのです。

ニュージーランドが持つ一番魅力的な資源

しかし、木材産業には大きな弱点があります。資源量に限りがあるのです。
ニュージーランドの面積は約27万㎢で、本州と九州を合わせたぐらい。よくよく考えると、それほど広いわけでもありません。いくら森が深いとはいえ、伐採を進めていけばそう遠くない未来に木材資源は枯渇します。

このことに気づいたヨーロッパ人はニュージーランドが持つ「もうひとつの資源」に価値を見出し始めました。
その資源とは、気候です。

ニュージーランドがあるのは、おおよそ南緯34度〜南緯46度の範囲。下の地図を見るとわかる通り、国土の大半は日本の東北地方や北海道と同緯度ということになります。

↑日本近辺の地図に、同緯度同縮尺のニュージーランドを重ねるとこんな感じ。

北日本と同じ緯度、と聞くととんでもない寒冷地を想像してしまいますが、ニュージーランドの気候は驚くほどマイルドです。北島北部のタウランガは、仙台とほぼ同緯度ですが、真冬の日中でも気温は17度ぐらいで、降雪は全くありません。東北というよりも九州南部の気候に近い。
赤道付近から南下してくる暖かい海流のいたずらで、ニュージーランドは緯度の高さの割に非常に温暖なのです。

それでいて、夏の気候も非常に快適。気温が30度を上回ることは稀で、上がっても25度くらい。周囲2000km以内に海しかないので、それがクーラーの役割を果たすのです。

↑タウランガの干潟にはマングローブがある。生育樹種は日本の八重山諸島にも分布するヒルギダマシ(Avicennia marina)。仙台と同じ緯度というのが信じられない。

冬は温暖で、夏は涼しい、典型的な西岸海洋性気候。実はこれ、西ヨーロッパの気候とよく似ているのです。

開拓時代初期のニュージーランドに入植した白人たちは、生まれ故郷と酷似した風土に対して、やがて大きな商機を見出すようになりました。
このことが、後にニュージーランドの森の更なる衰退を招くことになるのです…。

その②へ続く

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