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憧れの「ミルラ」の香り〜Jo Malone London の香水を手に入れた話

幼いころから憧れていた香りがある。「ミルラ」という香りだ。

小学校低学年のころ、週に1コマ「読書の時間」があった。クラス全員で図書室に行って、先生の読み聞かせてくれる絵本を、体育座りして聞く。そのあとは各自で、先週借りた本を返し、今週分の本を探して借りてゆく。

その当時人気があったのは「かいけつゾロリ」シリーズ、「こまったさん」シリーズ、「王さま」シリーズなどだろうか。私も読んだことはあるが、私が1番好きだったのは「まんが世界ふしぎ物語」シリーズだった。

ピラミッド、マヤ文明、インカ帝国など、古代文明をテーマにした学習まんがである。全10冊ほどのシリーズだったが、それぞれの巻を何度も何度も読んだ。

特に好きだったのが、ミイラの話題だ。古代文明にミイラはつきもので、有名なエジプト以外でも、ミイラはたくさん発見されている。南米における生贄のミイラ、日本における即神仏などである。
だがこの中でも、「ミイラといえば」のエジプトのミイラはやはり特別だ。死者の肉体がのちに復活できるよう、遺された人々の手によって加工されているからである。加工にはさまざまな香料が使われたが、殺菌・防腐効果の高い「ミルラ(没薬)」がその代表格だ。そしてこの「ミルラ」が「ミイラ」の語源とも言われている。

「どんな匂いがするんだろう、嗅いでみたい」と子ども心に思ったものだったが、思っただけのまま大人になってしまった。

香りものは好きで、部屋で焚く用のアロマオイルは何本か持っていたが、香水は数年前に1つ手に入れたのみだった。結婚前の夫にプレゼントしてもらった、ジョーマローンのネクタリンブロッサム&ハニーである。
知り合いが働いているお店があるからそこで香水をプレゼントしたい、と連れていかれたのが表参道のジョーマローン。洒落た店内でいろんな匂いを嗅がせてもらって、私が選んだのは桃の香りだった。普段からよくつけているので、何となく「これが私の香り」と思っている。

他のブランドは知らないというだけなのだが、私の中では「香水といえばジョーマローン」だった。
先日、たまたま立ち寄った百貨店にジョーマローンのコーナーを見つけた。何となく目をやると、そこには「Myrrh & Tonka」と書かれた黒いボトルがあるではないか。

あなたはミルラ、あのミルラなのですか?

ムエットに吹きかけてみる。好きな匂いだ。
ネクタリンブロッサムは透明なボトルだが、黒いボトルは高級ラインらしい。ミルラは現代においても高貴な香料なのだ。でも、きっとこれは運命だ。私は悩むことなく、憧れのミルラを手に入れた。

手首につけるには濃厚な匂いだったので、胸元にひと吹きしてみた。
バニラのようだけど甘くない、暖かいけれどトロピカルな南国ムードとも違う、何とも色っぽい香り。防腐効果があるというので、ミルラには何となく理科室や薬局のような、薬臭いツンとした匂いを想像していたのだが、まったく角のない香りだった。

憧れの香りが、自分の好きな匂いでよかった。文字で見て憧れていても、生理的に受け付けないということもあるのが香りの世界である。その場合はやはり、憧れのミルラが手に入ることはなかっただろう。

小学生のとき、図書室で借りたミイラの本を抱えて教室に戻る途中、「Rayちゃんは、なんでそういうのが好きなの?」とクラスメイトのカホちゃんに聞かれた記憶がある。
なんで、好きか? なんでかなんて、わからない。幼い私は理由を説明する言葉を持たなかった。何と答えたか覚えていないということは、おそらく適当にお茶を濁したのだろう。

大学生のとき、哲学科の友人にこの話をしたことがある。
小さい子がミイラ好きなんて、確かに気持ち悪いよね、と私は寂しく笑った。すると彼女は何でもないふうに、「死は人を魅するものだからね」と言った。誰かの言葉だということだったが、忘れてしまった。詩人のリルケだっただろうか。どんな文脈なのか読んでみたくてたまに調べるのだが、数年経った今もわからない。

ミルラが使われたエジプトのミイラはまだ見たことがないのだけれど、国立科学博物館の日本人のミイラと、インカ帝国展のミイラは見に行ったことがある。
なぜこんなにミイラに惹かれるのか。ミイラを見ながら考えていたのは、「本当に人が生きてたんだなあ」と思えるからかもしれない、ということだ。

昔から、急にものすごい恐怖に襲われることがあった。
今この瞬間に世界が誕生して、歴史や、私の昨日の記憶も、今この瞬間に過去のものとして作られただけなのかもしれない。本に歴史が書いてあっても、全部嘘っぱちかもしれない。
何が本当なんだろう。何なら信頼できるんだろう。

そんな不安を吹き飛ばして、生命が生きてきた大地に私を引き戻してくれるのが、ミイラだったのだと思う。かつて私と同じように息をしてご飯を食べながら生きていて、亡くなったあとも地球とともに時を刻み続けてきた、ひとりひとりの人間。その姿にミルラの香りを重ね合わせて、私はミイラとミルラに憧れていたのかもしれない。





香水について書いていて、思い出した小説があったので本棚から引っ張り出してみた。小川洋子さんの『凍りついた香り』だ。久しぶりに読み返そうと思ったら、十数ページ目でミルラの話が出てきた。初めて読んだのはいつか覚えていないが、学習まんが『ねむりからさめたミイラ』と「ミルラ&トンカ」の間で、私のミルラへの憧れを高めるのに一役買ったのは間違いない。とても美しい小説なので、ミルラが気になった方、香水・数学・チェコというキーワードにピンときた方は、ぜひ読んでみてほしい。

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