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何もしないでいるうちに、終わる

こんにちは!遅めのお昼休み中のはるねずみです。

突然ですが、私かなりズボラなんですよね。時間にもルーズで、朝はいつもバタバタ&時間ギリギリです。予定の時間から逆算して、それに向けて動くのが苦手なんです。

だから腕時計や洗面所の時計は、わざと数分進めて設定しておいて、強制的に5分前行動ができるように工夫しているのですが・・・ギリギリで間に合った経験をすると、そのギリギリに体が慣れてしまって、結局どんどんギリギリを攻めていく流れになるんですよね。(なんだそりゃ)

家事では洗濯が一番好きです。と言っても、別に手洗いとか特別なことをするわけじゃなく、ただ洗濯機のボタンを押すだけです!洗濯した後の柔軟剤の香りを嗅ぐのが好きで、さっぱりして気分がよくなるから好きなんですね。

休みの日、朝ごはんを食べてからすぐに洗濯機のボタンを押すと、「今日は有意義な一日になりそうだ」とウキウキしてきます。

が、洗濯機が回ってる間にコーヒー飲んだりnote書いたり動画見たりなんだりしていると、洗濯していたことをすっかり忘れて時間が経過してしまい、だいぶ経ってからやっと干す、なんてことがザラにあります。どうですか?めちゃくちゃズボラですよね。トホホ。

せっかく洗濯機を回しても、すぐに干さなければ生乾きになり、細菌が繁殖して、悪臭がしたり、服がシワシワになったり、結果また洗濯し直しともなると、衣類も余計傷むし水や電気を無駄にすることにもなります。

つまり何が言いたいかというと・・・

蓋をして、(ボタンを押して)、ほったらかし。

これによって、その前よりもその後の方が、状況が悪くなることがあるなぁと、最近あらためて気がついたんです。



私は、最近対人関係のことが、今までよりさらに分からなくなってしまいました。

人との接し方や距離の縮め方、取り方、適切な話題や好印象を与える方法など・・・これまで、本を読んだりYouTubeを見ては実践して、たくさん試してきました。

そのたび手応えも感じてきました。

でも、慣れないことや自分のキャパを超えることをすると、どうしても疲れてしまうんですね。

そうなると今度は、疲れた時にどうすればいいのかを考え始めました。自分をいたわること、自分を大切にするとはどういうことか、などなど、また調べ始めました。

その結果、人と距離感を保ち、一人の時間を意識的に作ったりするようになりました。余裕がないときは無理して関わろうとしなくてもいいんだと、自分に言い聞かせながら。

でも、それに慣れてくると今度は、心に余裕がある時でも、人とどう関わればいいのかがわからなくなりました。

人と関わらないことで、うっすら寂しいなと感じながらも、関わることでエネルギーを消耗することの方が今は辛いなと判断した結果でした。



私自身、人と接するときには、相手に無理をさせていないかは常に気になります。「今話しかけてもいいかな」「私といると疲れるんじゃないか」と心配して、結局色々悩んだ末、何もアクションを起こさないということが9割です。

一人でいることが多くても、人から話しかけられたときには、もちろん拒んだりせず、笑顔で応じますし、実際嬉しいし楽しいんです。

だから、基本受け身です。

私が、「今話したいな」などという私の気分を優先して、相手の時間を奪ったりエネルギーを吸い取ったりすることが申し訳なく感じるのですが、相手から来られた場合、それは相手が望むことだから安心して両手を広げて受け入れられるんですね。

相手が望まない、嫌がること、負担になることを、したくないんです。

それをするくらいなら、自分が一人で退屈だとか寂しくても、別に一人で何か楽しめることを見つけられればそれでいいと思うんです。



そんな感じで、私は人と距離を置くことにさほど問題を感じていませんでした。むしろ、その方が自分の心が安定しているような気さえしていました。


それに、今は色々疲れて消極的になっているだけで、また「人と話したい!」「交流したい」という気持ちが自然と出てくるだろうし、そのとき積極的に動けばいいか、くらいの考えでした。



でも、人と人との関係って、そんな自分に都合のいいことばかりじゃないんだって気づきました。

人の気持ちは常に変わるものだし、昨日言ってたことが今日は変わっていることもザラにあり、それが何日何週間、何ヶ月ともなれば、人付き合いや趣味嗜好、生活スタイルから価値観まで、まるっきり変わっていてもおかしくないんですね。

そのときたまたま共通項があり、意気投合したとして、それがずっと変わらないなんてことはありえないんです。



それなのに私は、とても都合よく、シンプルに考えすぎていました。

ねじまき式のオルゴール箱が目の前にあるとして、そのねじが回りきる前に蓋を閉じておけば、またしばらくして開いたときに、その続きから音楽が流れだしてくれる。

人間関係も、それと同じだと思っていたんです。というか、「同じであってほしい」と願望を抱いてたと言う方が正しいかもしれません。

何年も時間をともにしてきた親友であれば、何ヶ月何年ブランクがあったとしても、まるで昨日会ったばかりのように、顔を合わせた瞬間に心が戻ってきて、普通に話せたりするかもしれません。お互いがお互いのテンポを掴めるというか。


でも、そうでないのなら、やっぱりブランクがあると、どうしてもズレは生じます。

オルゴール箱の蓋を閉じている間も、実際には箱の中で、音楽も人形たちのダンスもずーっと続いているんです。ただ、私がそこに蓋をして、見聞きしていなかっただけで・・・

だから、しばらくして続きを聞こうと開いたときには、全然予想もしていない所から始まったり、あるいは既にねじが回りきっていて、音楽は止まってしまっていることだってあるんです。



一人で立ち止まって、目をそらし、耳をふさいでいる間に、私の周りの世界は刻一刻変化して、すぐそばにいた人だって、もうとっても遠くまで離れてしまっているんです。

その気になって、思い切って蓋を開けたときに、やっとその事実に気がつくんです。

そして、失った時間のことや、変わってしまったことを寂しく思い、後悔します。



でも、よく考えてみたら当たり前だなと思いました。私はなんておこがましい考え方をしていたんだろうと。

花に水をやるように、相手に目や耳を向けたり、声をかけたり、相手のために何かをしたりなど、愛を注いでいなければ、現状維持はできないどころか、枯れて終わってしまうんですよね。

お花もそうだし、洗濯機に入れた汚れた衣類も、炊飯器で炊いたお米も、そうです。放置すれば劣化していきます。

考えてみればとても簡単なことなのに。

私は、人間関係についてはなぜか、蓋さえすればその状態をキープし続けられる気でいたんです。都合が良すぎるんですよね。



自分を大切にすることは大切です 。

でも、それと同時に、自分が立ち止まっている間に変わっていくことも受け入れる勇気というか、その責任を自分で持つことも大切なんだな、と。 

蓋をしている間、変わらないでいてほしいとか、また途中からとか、そんなふうに願っちゃいけないって思いました。それに、そんなことは不可能ですから・・・



自分にとって大切で、変えたくない(失いたくない)ものであるなら、蓋をせず、休みながらでもちゃんと手をかけていかなければならない。

そのことに気づきました。



最後までお読みいただきありがとうございました!
(仕事戻るため、今日は特にしり切れとんぼ🏃💨)


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