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欲しい言葉はたったそれだけ【母と娘】

こんばんは、はるねずみです。

この記事は、ちょっとだけ愚痴っぽい話になります。

ちなみに今顔のパックをしているのですが、そろそろ乾いて干からびそうなので手短に話そうと思います。この記事を書き終えたら急いで乳液でフタをしないと・・・(そっちを先にやれい)


先日、妹と映画に行きました。そのときに、私が刺繍をして作ったものを妹と母それぞれにプレゼントとして渡しました。

二人にヘアゴム、母には刺繍した布を小さな額に入れた、ファブリックフレーム?のようなものを贈りました。


左から妹、私、母のぶん。母にはミモザのリースを。


かすみ草のブーケ ファブリックフレーム


母は一人暮らしをしていた頃、部屋の壁にドライフラワーを飾ったりもしていたので、なんとなく母が好きそうなものはわかっているつもりでした。

母の分も妹に託して、その数日後。

母から「受け取ったよ!」とお礼のLINEが来ました。

「ありがとう!こんなの作れるようになったんだね!」と、喜んでくれて、とても嬉しかったです。

本当は直接渡してびっくりさせたかったけど、家が遠いこともあってそれができなかったので、妹から母に渡るまでの間、すこしドキドキしていたんです。どんな反応が返ってくるかな?と。

だから、そのLINEがとても嬉しかったのですが・・・

一つだけ、どうしても引っかかる部分がありました。

それは、

「ありがとう!こんなの作れるようになったんだね!」

に続く、

「隠れた才能!」

という言葉。


。°+°。°+ °。°。°+°。°+ °。°。°+°。°+ °。°+ °。


母は昔から、私がそこそこ勉強ができることにたいして、

「○○(私)は頭がいいからね」

と言い、

私の肌が母やほかの兄弟よりも白いことについて、

「○○(私)は△△さん(実の父方の祖母)に似て色白だからね」

と言いました。

その言葉に、悪意はおろか、それほど深い意味はなかったのかもしれません。

ただ、私はそうした言葉を言われるときに、かすかに傷ついていました。


理由は二つあります。

一つは、「あなたは私(母)に似ていない」「自分たちとは違う」と突き放されているように感じたからです。

母の学歴は、もともと中卒でした。詳しい経歴は知りませんが、50代になってから、仕事をしながら高卒認定試験に合格し、今は高卒となっています。(その年齢で、しかも一人暮らしで休みも少なく仕事をしながら勉強して合格するというのは、ものすごいことだと思います。)

母はもともと、中学校の頃は英語が得意で先生から褒められていたという話を聞いていました。その後どうしてそうした学歴になったのかどうかは知りませんが、もしかすると、学歴について何かしらのコンプレックスを持っていたのかもしれません。

そういう気持ちは、私にもなんとなく理解できます。

「私(自分達)とは違うんだ」
「その人は元からそうなんだ」
「才能があるからできるんだ」

こう決めつけてしまう方が、自分の心にとって楽なんですよね。

逆にそう決めつけなければ、「自分の努力が足りなかった」という事実を受け入れざるを得なくなるので、つらいんです。

もちろん、学歴や職歴は、本人の努力だけではどうにもならない事情だってあります。自分を取り巻く環境や、経済的事情、心身の健康状態など・・・

努力をさておいても、「自分にもできるかもしれなかったけど、できなかった」という悔しさが、他人の努力を素直に認められない原因になるんだと思います。


と、ちょっと脱線したので話を戻します。


とにかく、一つ目の理由としては、そういう言い方をされるのは「自分と似ていない」と暗に言われているような気持ちになり寂しいからです。

私はまぎれもなく、母の血や遺伝子を受け継いだ子供です。

身長が低いのだって、髪質だって、重ためのまぶたと細い目とか、声が高めなところとか、似ているところを探そうと思えばいくらでもあります。

そうした生まれつきの身体的特徴に限らず、母の影響で好きになったものだってたくさんあります。

母が作ってくれたお菓子や料理が今でも大好物だし、母の影響で本を読んだり映画を観たり、絵を描いたり手芸をすることの楽しさを知りました。ハムスターを初めて飼ってくれたのだって母です。

生まれつき似ている部分、育つ過程で似てきた部分は簡単に見つかるのに、どうしてわざわざ「似ていない」部分を探そうとするんだろう、と悲しくなるんです。


もしかして、私が自分の子供であること、似ていることを嬉しく思えないのかな・・・と思ってしまいます。


「○○は私のこういうところが似たんだね」
「○○のその性格は私譲りだね」

私はこういうことを、母に嬉しそうに話してほしいんです。


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二つ目の理由は、「頑張り」を無視(否定)されるのが辛いからです。

私は、別にIQが異常に高く生まれたわけではありません。五体満足の健康体ではあるものの、知能指数はいたって平均だと思います。

ただ、先生から褒められるのが嬉しくて、そのために勉強を頑張っていた気はします。

中学校に上がるときには、「勉強が難しくなる」「一日休んだら三日遅れる」のような話を小耳にはさんでいて、その危機感から、授業の終わりには必ずと言っていいほど先生に質問をしに行きました。

傍から見ればがり勉の優等生気取りだったかもしれません。

でも、私はただ自信がなく、何とかついていかなければと不安で必死だっただけなんです。

夏休みには塾の夏期講習に体験で行かせてもらい、個性豊かな明るい先生たちの授業が面白く、夏期講習のあとも塾に通いたいと申し出て、通わせてもらえることになりました。

それから、学校と塾でそれぞれ定期試験や学力試験なんかがあり、嫌でも勉強しなければならない環境に身を置くことになりました。

その甲斐あって、高校は地元でトップの進学校(大学進学が9割以上、就職を選択する人はかなり珍しい)に入学しました。そして、周りが当たり前のように大学進学を目指していたため、同じように勉強して大学に入学させてもらい、なんとか4年で卒業しました。

つまり何が言いたいかというと、私はただ、そのときどきで、不安やプレッシャーに駆られながら、目の前のことを一生懸命やっただけなんです。

生まれつき頭がいいとか、勉強が好きだ(できる)とか、そういう特殊能力のようなものがあるわけではありません。

ただ、やらなきゃいけなかったからやった。それだけです。


だから、それにたいして「頭がいいからね」「勉強できるもんね」と片づけられてしまうのは、なんだか悔しい気持ちになるんです。

生まれつき頭が良かったなら、もっと楽にやれていたかもしれない。どうして、たいした苦労せずにできたと思われてしまうんだろう?

もちろん、人によって能力の差はあるかもしれません。その他にも、それまでの人生・習い事などで身につけた知識や経験を活かして、他の分野も伸ばせるということもあると思います。

ただ、そうは言っても、苦労せずに何かを覚えるとかできるようになるとか、そんな人は極めてまれだと思います。

どんなに、今すごくて、輝いていて、堂々として見える人でも、そうなるまでに必ず努力して、汗や涙を流していた時期があったはずなんです。

どうしてそれを、まるで「無い物」みたいに言って片づけてしまうんだろう、と残念な気持ちになるんです。


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そもそも、二つ目の理由については、昔、私が知人から全く同じ話を聞いたことがありました。

そのときは、

(そっか、そういう風に感じるのか。私もつい褒めるつもりでそういう言い方をしてしまうことがあるから気を付けなきゃな・・・)

くらいに思っていました。

でも今は、その知人の言葉・思いを、そのまま自分の思いとして胸に抱いています。


世の中は結果がすべて、結果が重視されるものかもしれません。

「結果が出てないんだから、努力が足りなかったってことでしょ」

高校の吹奏楽部で、一年生の中からコンクールに出られるメンバーを選抜する試験に落ちたとき、私が顧問の先生から投げかけられた言葉です。

ものすごく悔しかったです。

他の一年生の子たちが、先輩がいない間に練習をサボっておしゃべりしている中でも、私は一人、孤立しても基礎練習を続けていました。誰よりも一生懸命やっている自信がありました。

私にとってはコンクールに出られるかどうかはもちろん大切なことでしたが、それ以上に、顧問の先生のその言葉で何もかも否定された気持ちになり、立ち直れないほど落ち込みました。

どんなに努力しても、結果が出てなければ(他人から認められなければ)意味がない。


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話が脱線しましたね。

世の中では過程より結果が見られます。というよりも、「結果だけが見られる」と言ったほうが正しいかもしれません。

だから、「頭いいもんね」「勉強できるもんね」という褒め言葉は、そういう意味では正解なのかもしれません。

長い期間毎日勉強を続けた過程の結果として、”今”「頭がいい」「勉強ができる」という結果(状態)になっているということなので・・・


でも、私は母からそうした言葉をもらって、嬉しいとは思えませんでした。


ついでに言うと、私は生まれつき色白なわけでもありませんでした。

小学校の頃は、外で遊ぶことが圧倒的に多かったので、クラスの男子と肌の色の黒さを比べ合いっこするくらい日焼けして肌が黒かったんです。

けれど、小学校高学年あたりからだったか、ティーン向けのファッション雑誌を読んでいるうちに、徐々に肌の色が白い女の子に憧れるようになりました。

それから、洗顔フォームや化粧水を「美白」と書かれているものを選ぶようにしたり、「ビタミンC」を取るために、おやつは「かむかむレモン」、ジュースは「ビタミンウォーター」「アセロラウォーター」を選ぶようにしていました。

それは今に至るまで”ずっと”続いています。

洗顔・化粧水・乳液・パックなどのスキンケア用品は、どこのドラッグストアでも買えるような安価なものではありますが、「美白」効果が期待できそうなもの選んでいます。それも、事前にSNSやクチコミなどで、めちゃめちゃ時間をかけて調べて、悩みに悩んでから買います。

日焼け止めも、春夏秋冬毎日塗っています。冬でも顔や首には、外出するしないに関わらず塗っています。(窓からも紫外線は入ってくるため)

母の言う、私の「肌の白さ」は、(祖母譲りももしかしたらあるかもしれませんが)長年のスキンケアの積み重ねによるものだと、私は自負しているんです。


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赤の他人からであれば、「結果」だけを見て評価されても「仕方ない」と諦められます。

だって、自分と無関係の人の「過程」なんて興味持てないですもんね?


でも、母には「過程」もちゃんと見てほしいと思ってしまいました。

「できて当たり前」「あなたはそうだから」「あの人に似てるから」とか、生まれ持ったもので苦労せず手に入れたものだと片づけないでほしいんです。

別に難しいこととか、山のような褒め言葉は望みません。


ただ一言、「頑張ったんだね」と言ってほしかっただけなんです。


母のために頑張ったんだ!と押し付けるつもりはないんです。

特に刺繍は、私自身が好きで楽しいと思ってやっていることだから。プレゼントするのはそのついでであって、”余力”を使ってのことなので・・・

だから、「好きなことが見つかってよかったね」とか、「頑張ってるね」とか、ただそういう風に母から認めてもらえたらそれだけで嬉しいんです。


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さてと・・・

顔に貼り付けたパックがティッシュペーパーのように干からびてはがれています。そろそろ寝ないとですね。

手短に話すと言いながら、こんなに長くなっちゃいました。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!

また次回の記事でお会いしましょう(*´ω`)ノ

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