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「この人、本当にそう思ってくれてたんだ…」【恥をかく勇気】

ものすごく失礼なことをしているという自覚があっても、簡単に人の言葉を信じることができないことがある。

それは特に、優しく親切にしてもらえたときや、嬉しい言葉をかけてもらえたときに多い。

「気を遣ってそう言ってくれているだけなんじゃないか」
「お世辞だから真に受けてはいけない」
「無理をさせて申し訳ない」

私が自分で自分を信じていないから、肯定できていないから、卑屈になってしまう。自分という人間が、自分がしたことが、その言葉や行為を受けるに値すると思えないから。


子ども時代も含めて、これまでの人生で私は、あまり多くの人と関わってこなかった。友達も少なく、学生時代は「親友」と呼び合う子1人とだけべったり一緒にいるような、そんな感じだった。

だから、人間関係でうまくやっていく方法については、自分自身の経験から学ぶことももちろんあったけれど、「人の振り見て我が振り直せ」をモットーに、他人の失敗を見て、「自分はこうならないように気を付けよう」と密かに修正したり対策してきた。

人とあまり関わってこなかったことや、育った環境が色々ワケありだったことで、自分がズレている自覚はあった。世間知らずで「脳内お花畑」なことを遠まわしにからかわれていることも知っていた。

だからこそ、ズレた自分視点だとうっかり信じてしまいそうなことも、念入りに疑う癖がついたのかもしれない。


私は騙されやすいというか流されやすい方だった。

大学生の頃も、夜遅い時間に訪ねてきた新聞の定期購読のセールスを断ることができず、読む気は微塵もないのに、その場で契約してしまったことがある。

玄関先での立ち話で、「契約しないとこの人の生活が…」と、学生の身分ながら思わず同情してしまいそうな、落ちくぼんだ目に浅黒い肌をした中年男性の悲壮感漂う顔を見て・・・。

そして、まだ「契約する」とは一言も言っていないのに、

「話聞いてくれただけでも嬉しいので!」

などと言って、契約特典のお米やビールなどの粗品を紙袋から取り出して、困惑する私に次々押し付けてくる。ここまでされたら、もはや断るなんて申し訳ない・・・

そして、私は半年間の購読契約をした。案の定、ほとんど読みもせず、新聞受けに入った新聞は、そのまま新聞用のゴミ袋へと押し込まれていった。


こういう、押しに弱いとか、人に騙される・流される系のエピソードはそこまで多くないのだけれど、それでも私は周りの友達などから、

「将来壷とか買わされそうだよね(笑)」

と、よく心配されていた。(半分冗談だと思うけど)


その後も、大人になってからはネットの悪徳ビジネスや宗教の勧誘などについて、Youtubeで知り、自分でよく調べ、時には人の善意をも疑うことの大切さも学んでいった。自分が弱っているときは特に危険だから、甘い言葉には気を付けなければならない、と。

あと、恐らく自己肯定感が下がっているときには、「人から良く思われたい」「好かれたい」という欲求も強くなっているからこそ、必要以上に親切になるという心理もあるのかもしれない。


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また、そういう実害があるものとは別に、「お世辞を真に受ける人は恥ずかしい」みたいな世間の風潮も、子どもの頃からたびたび目にしていた。

だから、何か褒めてもらっても、必ず謙遜したり否定する必要があると思っていた。

「いやいや、そんなことないよ」
「全然だよ~!」
「私なんて〇〇だからさw」(自虐ネタ)
「〇〇ちゃんの方が~~だよ!」(褒めカウンター攻撃)

気を遣ってお世辞を言ってくれた相手にたいして、極力気分を悪くさせないような言葉で、かつ、きちんと「お世辞だとわかってますよ!」という謙遜アピールをしなければならず、そのレパートリーを増やすことに必死だった。

一方で、

「褒めてもらったときには『ありがとう』と素直にお礼を言い、相手の好意を受け入れるほうがいい」

という意見にも同意した。私も、もし自分が「褒める立場」なら、そうして喜んでもらえた方が絶対に嬉しい。

自分なら、相手を褒めるときに嘘はつかないし、お世辞を言うのは面倒くさいと感じる性格だから、嘘をつかなきゃいけないくらいなら「何も褒めない」を選ぶ。


でも・・・そうじゃない人がいることも知っている。

本心で思っていなくても褒め称え、それによって相手がどんな反応を示すかを見て楽しむ・・・そして、「ありがとうございます!」なんて返してこようものなら、

(うわっ、この人お世辞で言っただけなのに信じちゃってるよ!アイタタターw)

なんて、心の中で笑ったり、ひょっとしたら周りの人に陰で言いふらして、複数人で笑い者にしているかもしれない。


こんなことを思ってしまう私の心は汚いと思う。

でも、実際に見たことがあるから、どうしてもそっちの可能性もあるんだということを、自分の中から消せない。

こういうパターンでなく、素直に「ありがとうございます!」と言っていい場合だったら、当然それに越したことはないし、その可能性だけを信じられるならそうしたい。

でもやっぱり、人って不安とか恐怖とかの方に引っ張られるものなんだと思う。嬉しいことより、良くないことの方が信じやすい。それは、危険から自分を守ろうとする本能だから、生き物としてごく自然なことだ。


それでも、本来喜んで受け入れるべきことをすんなり受け入れられず、一旦自分にブレーキをかけて、

「信じていいのか」

と心の中で審議してしまうことは、相手に失礼だよなと思う。


リアルでもネットでも、人と知り合い、親しくなっていく過程で、こういうタイミングがかならずある。

「大丈夫かな、大丈夫かな・・・」

とドキドキしながら、相手の出方や温度感を観察し、できるだけ自分もそこに合わせていこうとする。

だって、もしそれを見誤ってしまったら、

「この人、何勘違いしてんの?」

と思われてしまう。せっかく親しくなれそうだったのに、自分の勘違い、距離感を間違えたことで、嫌われてしまうかもしれないから。怖い。


だから、「大丈夫なんだ」って思えるかどうかは、相手次第。

そういう審議を何度か経ることで、

「本当にそう思ってくれてるんだ」
「この人には、素直でいていいんだ」

と気づく。

そして、その人は自分にとって特別な存在になる。

会ったことがあるかないかは関係なくて、自分が自分のままで嘘をつかず、相手も嘘をついていないと信じられることが大切。


なんで急にこんな話をしたかというと、昨日実はそんなことがあった。

自分に親切に、笑顔で優しく接してくれる相手にたいして、私はまだ心のどこかで、

「無理をさせているんじゃないか」
「気を遣せていたらどうしよう」
「私と一緒にいたら疲れるに決まってるのに…」

と、相手の好意を信じることができずにいた。でも、昨日のやり取りのなかでやっとわかった。

なぜならそれは、「社交辞令」と片付けるにはちょっと難しそうな「具体的な約束」をしてくれたから。

(えっ・・・そんなこと言って大丈夫!?私、信じちゃうよ?💦)

と、なぜか私の方が心配して焦ってしまうくらい、本当に実現されそうな計画について率先して提案してくれた。


それでやっとわかった。

その人が今まで私にかけてくれていた言葉や、一緒にいるときの笑顔や態度の意味について。

「この人、本当にそう思ってくれてたんだ…」

自分がこれまで素直に受け止められずにいたことが申し訳なくなった。でもそれ以上に嬉しかった。


たぶん私はこれからも、簡単には人を信じられないと思う。少なくとも3回くらいは心の中で審議会を開いてしまうと思う。


でも、これもたぶんだけど、こういう出会いが増えてきたのは、自分が今の活動を始めたおかげでもあると思う。

Twitterを始めて、今までのような生き方なら出会えなかった多くの人たちと繋がって、そして、いろんな手段(文字、音声、写真、絵、工作など)で、自分の素顔を知ってもらおうとしてきた。

自分の弱さや、「あんまりそういうこと人に話さないほうがいいんじゃない?」と思われそうなことまでも、結構さらけ出してきた。

それをしてきた理由は「嘘のない自分」で人と関わり、仲良くなりたかったから。そういう出会いを求めていたから。


だから、昨日はすごく嬉しかった・・・!!!!


「嘘かもしれない」とか「本当はそう思ってないかもしれない」って、自分の手で遠ざけてしまうのは、すごく寂しい。

それなら、「勘違い乙w」って笑われたり、恥をかいたとしても・・・
相手が示してくれた好意や嬉しい言葉や態度は、素直に真に受けちゃう方が、人生楽しくなるかもしれない。


それによくよく考えてみたら、「勘違い乙w」って陰で馬鹿にするような人に配慮するより、本心で好意を示してくれる人にきちんと「ありがとうございます」と言う方がよっぽどいい。

自分を大切に思ってくれた人を疑って傷つけたりする方が問題だ。


というわけで・・・

今これを書きながら、大切な人のため、ひいては自分の人生を楽しくするために、「恥をかく勇気を持とう!」って思った。


バハムート「へ?あんたそれホントに言ってんのォ?」


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