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浅葱色の花言葉【小説】

「ね、私のこと面倒だと思っているでしょ。」
 突然そんなことを言われても返事に困る。
「なんで?」
 日曜の夜。夏の終わりが近づく季節。開けた窓からカーテンをさらって吹いてくる風が心地良く感じる。東京にいても感じられる身近な自然は夏の夜風だ、とふと思う。
「態度でわかる。」
 そんなことを言われても、どこがどう気に障っているのか。付き合って二年半、同棲して半年。マンネリと言われても仕方ないほどには、お互いが隣にいることへの違和感はない。
「うん、ちょっと思ってる。でも、面倒なところも含めていいと思ってるよ。」
 当たり障りのない返事をする。明日も朝から仕事だ。あと二時間後には眠りにつきたい。
「そういうところだよ。なんでも受け入れますよ、みたいな態度で人に接して、相手を傷つけないようにとか思ってるかもしれないけど、自分が傷つきたくないんでしょ。人のことわかろうとしないの、そんなの私の欲しい優しさじゃない。」
 はっきりした性格だとは思っていたが、欲しい優しさではないなんて言われたことはない。人生で一度も。
「じゃあ、どんな優しさがいいんだよ。」
 ちょっと冷たくなってしまう自分に嫌気が差す。こういうときにこそ素直に優しくなればいいものを、こんな歳になってまで、優しくすることに恥ずかしさを感じる自分の幼さは、出会う前から変わらない。でも、面倒だと自分でもわかっているなら自分で変える努力をしてみたらいいじゃん、と思ってしまうところもきっと幼い。いいと思っていると返事をした手前、そんなことは言えない。
「私と話すの、そんなに面倒?」
「別に。」
「じゃあ、どうして避けるの?」
「避けてない。」
「嘘、避けてるよ。」
「避けてないよ。」
 避けているつもりはない。でも積極的に話をしようとも思わなくなった。話をするのはもともと得意じゃないし、無言でも居心地がいい空気が嫌じゃない。
「一緒にいて居心地が良くて、嫌じゃない。それ以上に何が欲しいの。」
 思ったことをそのまま口にした。彼女の表情が一瞬曇る。この空気知ってる。
「そういうことじゃない。もういい、寝るね。」
 ドアの閉まる音と振動が床を媒介して響いてくる。夏の夜風が汗を冷やしたのか、少し寒気がする。

 翌朝、目が覚めると同時に体の異常なだるさを感じる。昨日の寒気は夜風のせいではなかった。[37.8]体温計に示される温度とともに、ずっしりとしたしんどさを感じ、大人には辛い身体状態であることを示してくる。職場に連絡を入れて、有給を後日申請することを伝える。キッチンには昨日のことはなかったかのように朝食を作って朝の支度をする彼女がいる。
「おはよう。あれ、体調悪い?」
「熱ある。会社休んで病院行って1日寝てるわ。」
「そう。じゃあよるごはんは帰ったら私が作るから寝てて。お昼はスープとかお茶漬けとか、あるもので大丈夫?」
「うん、大丈夫。」
「じゃあ行ってくる。」
 その後ろ姿に嫌味な雰囲気はない。昨日のことを引きずっているのは自分だけなのかもしれない。
 それにしても、大人になって熱を出すのは久しぶりだ。風邪をひくことはあるから、別に生活できないわけではないが、年々物理的に身体的なだるさが増しているのはきっと気のせいではない。そんなことを考えながら用意してくれた朝食を食べる。

 朝は家を出るのが早い彼女が朝食を作る。二人分をまとめて作る方が楽だと言うのでそのルールで生活している。夜は帰宅が早かった方が作る。ここから数日はお任せになってしまう日が多くなるかもしれないから、体調が戻ったら彼女の好きな煮込みハンバーグを作ろうと思う。
 窓の外は見るからに暑そうな太陽の光がコンクリートを照りつけている。黄色やピンクやブルーのTシャツを来た小学生が、プールバックを持って周りの様子など気にする様子もなく、笑い声をあげながら歩いている。

 診察券と保険証、財布、携帯、鍵。最低限のものを白いトートバックに入れて家を出る。病院で診察を受けて五日分の薬を受け取って外へ出る。暑い。帰りにポカリスエットと冷えピタを買うために通りにあるコンビニへ寄る。
 外を歩いているときはあまり気にならなかったのに、家に一人でいると寒気とだるさが一気に押し寄せてくる。東京の街の騒音は寂しさを感じるスイッチを切ってくれるようだ。着替えてポカリを飲んだら頭痛がしてきてそのまま眠りについた。

「・・いまー。寝てるかな。」
 鍵でドアを開ける音が響いて目が覚めた。外はもう真っ暗だ。月明かりでぼんやりとした部屋全体を見渡す。全身汗をかいていて冷房の風が冷たい。手元にあったリモコンで電源を切る。冷えピタとなんとなくついでに買ったレターセットは袋に入ったまま無造作に床に置いてある。ベッドから降りて、隣にあった会社用のカバンにレターセットをしまう。冷えピタだけが入った袋とポカリを持って、キッチンへ行く。
「あ、起きた。あとちょっとでご飯できるから待ってて。汗すごかったら先にシャワー浴びておいで。ポトフだけど食べられるよね?」
「食べられる。ありがとう。シャワー浴びてくる。」
 幼児の三語文のような拙い返事をして、着替えを持って脱衣所へ向かう。熱は若干下がった気がする。昼間よりも全身のだるさは抜けている。ただ、寝すぎたせいでぼーっとする。その状態でぼーっとシャワーを浴びる。夏の暑い日でも病院は混雑しているんだなとか、昼間のコンビニはあまり人がいないんだなとか、小学校からの賑やかな声なんて久々に聞いたなとか、なんでもないことを思い出していた。
服を着て、髪を拭きながらキッチンへ行くと夕食が揃っていた。いつもと変わらない彼女もそこにいる。当たり前と言われればそうなんだけど、その光景になんだか驚いた。昨日あんなことを言われたからかもしれない。一緒に生きている、その事実を具体的にこの十畳のキッチンで今感じている。
「出来たよ、食べよ。」
 お茶碗に炊いたご飯をよそいながら彼女が言う。
「うん、ありがとう。」
 なんてことのない二人暮らしの食卓だろう。
「いただきます。」
 声を揃えて手を合わせる。
「体調、どう?」
「寝たからだいぶよくなった。薬ももらったし。」
「熱は?」
「たぶん、朝よりは下がってると思う。」
「うん、良かった。朝の辛そうな感じ、ひどかったもん。」
「ごはんもありがとう。週末は煮込みハンバーグ作るから。」
「やった。楽しみにしてる。」

 次の日は会社へ行った。熱も下がったし今週締め切りの仕事もある。一日仕事をしなかっただけでも、メールはたくさん届いていて、確認する書類は机の上にいくつもあって、やることがやけに多くあった。
「体調はもう大丈夫か?」
 昨日連絡を入れた上司が声をかけてきた。夏の暑い日だというのに、なぜかこの人はいつもネクタイをしている。
「はい、ご迷惑おかけしました。おやすみいただきありがとうございました。有給申請もあとで提出させていただきます。」
 季節に合っているのか合っていないのかよくわからない色のネクタイを見ながら、なんで日本語はこんなに、させていただくことばかりなんだろうと思いながら返事をする。
「そうかそうか、それなら良かった。」
 そう言ってフロアにいる他の社員へ声をかけに回っている。席について今日やるべき仕事を書き出す。忘れないうちに提出書類を確認して、机の上を片付けていく。職場はいつも通り賑やかで、電話やコピー機、空調、パソコンなどの機械的な音の中に、人の喋る声と足音が混ざり合っている。この箱の中にはルールがあって、ある一定の仕組みやコミュニケーションによって成り立っている世界でもある。過ごしやすいかどうかは別として、生き抜くことはまぁまぁできそうだと思っている。そんなことを考えながら次の仕事に取り掛かる。こうして時間が過ぎていくこと自体が許されるのが、この箱の中でもある。

 昨日の分の仕事もあって、帰宅したのは八時半過ぎ。部屋着に着替えてカバンからペットボトルを出そうとすると、昨日買ったレターセットが入っている。なんのために買ったかなんてあまり具体的な目的はないが、なんとなく手紙を書いた方がいい気がした。なんの代わり映えもない[封筒三枚+便箋六枚]のレターセット。封筒は浅葱色、便箋は白。そのまま、ペットボトルだけを持ってキッチンへ行く。薬を飲まないといけないので夕食は抜けない。
「ご飯の前に先にお風呂入っちゃった。今日はね、冷しゃぶにした!」
 面倒なのは圧倒的に自分の方なはずだ。相手の言動や行動が面倒だと思うこともあるけど、言動や行動で伝えてくれる姿はとても素直で、まっすぐで、正直で、羨ましいくらいに嘘がない。
「メニューあまり考えずに決めたけど、食べられそう?」
 そういう配慮が自然とできるところが彼女に惹かれた理由でもある。直接伝えたことはないんだけど。
「うん、大丈夫。」
「お昼は?いつも通り食べたの?」
「忙しかったからコンビニ。」
「その食生活のせいかもよ。コンビニでも選んで食べてる?」
「そうかも。気にした方がいい歳だよね。」
「もうなんだかんだ若くないからね。」
 そんな会話をしながらテーブルに料理を並べていく。いつもの他愛ない会話。でも職場ではこんな会話ほとんどしないよな、させていただいてばっかりで、自分のことを自分のことかのように自然に考えてくれるのは、今まで親ぐらいしかいなかった気もする。大人になって出会った人と家族と同じくらい自然な生活ができるようになるものなんだ、とふと思う。

 水曜日。[ノー残業デー]と決められている。そもそも残業が必要な分だけ、人が足りていないんだなぁとちょっと他人事のように考えながら定時を一時間過ぎて仕事を終える。今週締め切りの仕事の大きな打ち合わせも終了。あと二日で資料の微調整とレジュメを作っておかないといけない。今日来た新しい案件も、工程表が必要なので同時進行の必要がある。
 仕事って毎日続くんだな、なんて社会人になってずいぶんと経過した今、当然のことに不思議さを感じる。学校生活には卒業があって、入学があって、また卒業して、最後のゴールのようにこの会社に入社をした。会社を卒業する制度はないから仕事は続く。それだけのことなんだけど、自分でいる場所や時間や機会が少なくなった気がする。冷房が効き過ぎている満員電車に揺られながら帰路につく。今日は自分が夕食を作ると話をしたので最寄駅についたらいつも行くスーパーに寄って帰る。
「ただいま。」
 まだ誰も帰っていない夏の部屋は冷たい空気とじめじめとした空気が混ざって気持ちが悪い。窓を開けて空気を入れ替えてから冷房を入れる。
 夕食はサラダと冷やし中華にした。昨日の話をして野菜を食べようと思った。そんな単純な理由だが、お互いに好きなメニューでもあるから、久々に食べたかったというのも純粋な理由。昨日のメニューで残ったレタスと海苔でサラダを作って盛り合わせていると彼女が帰ってきた。
「ただいま。」
「おかえり。」
「疲れたー。暑いー。あ、冷やし中華!やった。醤油ダレだよね?」
「もちろん。あとタレかけるだけだけど、ごはん先でいい?」
「うん。手洗ってくる。」
 こうして日々が過ぎていく。大人になって働き、生きるというのはこういうことなんだと言われたらそうかもしれない。でもなんか、ここ数日の気持ちのわだかまりは何だろうか。

「これで先方に送っておきますね。お疲れ様でした。」
 どうにか今週締め切りの仕事を終えたのは金曜日の夕方六時半。他の同僚たちと一緒に最終確認のミーティングを行い、上司にも確認を依頼して先方にメールを送る。仕事のルールなんて大体同じように流れが決まっていて、内容をカスタマイズしていくような感じ。だからと言って、承認をする側の上司のような仕事をしたいかと言われるとそうでもない。今の仕事が楽しくないわけではないが、生きるってなんかもっと、新鮮なことがたくさんあって楽しかった気がする。新鮮さって大人になってからどうやって見つけていくんだろう。
 子どもの時は毎日が新鮮で新しい何かに溢れていた。そんなことを考えながらセミの声が響く帰り道、ふと新しいことをしようとカフェに寄った。なんのために買ったかなんてあまり具体的な目的はないレターセットがカバンに入っていることに会社を出るときに気づいたのもきっかけだったかもしれない。

[ちょっと寄り道してから帰る。]

 その一言だけメッセージを送る。既読がつかないのでそのままにしてレターセットを開く。封筒が紙の帯で閉じてある。どうせちぎって捨てられてしまうのに、どうしてかご丁寧に包まれている。とても大事なものが離れないようにまとめられているかのように、きっちりと。
 先に便箋を二枚出す。三枚の封筒に合わせて二枚ずつ用意された便箋。ここ数日間感じたことや思ったことも含めて、思ったまま手紙に綴っていく。平日の病院の混雑具合に驚いたこと、大人になって出す熱が想像よりもしんどいこと、仕事がなんとなく続く日々の不思議さのこと、日常の新鮮さが子どものころよりも少なくなってきたこと、そして、家での行動に対してモヤモヤした気持ちがあったこと、そのあと変わらず過ごす姿にも少し嫉妬したこと、あと、面倒だなんて思っていないということ。ふと時計を見ると三十分が経過している。

[うん、わかった。ごはんは食べるよね?]

 携帯の画面に浮かぶメッセージ。なんでって聞いてこないところが好きなところだなとふと思う。

[ありがとう、食べる。あと三十分くらいで帰る。]

 メッセージを送って席を立つ。会計を済ませて駅に向かう。さっきよりも濃くなった紺青色の空の下、夜が深まっていく空気の中を歩きながらさっき書いた手紙を思い返す。手紙を書くなんて恥ずかしいと思い始めると同時に改札を通る。冷房の効いた電車に揺られながら冷静さを取り戻そうとする自分の意識が、手紙を書くことに恥ずかしさを感じていたことをより意識させる。
 この一週間の中で話をしていなかったことがたくさんあって、伝えなくてもいいくらいの小さなことも含めてなんだかちゃんと伝えておこうと思った。だから恥ずかしさもありつつ、こうして伝えるのも悪くないなって考えてもいる。電車を降りて家までの帰り道を歩く。冷静さを取り戻すためにいつもより少しゆっくり、夜風を感じながら。

「ただいま。」
「おかえり。遅かったね。」
 時計の針は八時四十七分を指している。
「うん、ごめん。」
「え、ぜんぜん。連絡くれてたし。でもごはん先食べちゃったよ。」
「うん、ありがとう。」
「なに、どうしたの。」
「いや、別に。」
 いつもと変わらないつもりだったのに、何を気づかれたのだろうか。女の勘なんて言葉は信じていないし、人それぞれだと思うけど、僕の彼女は何かを察知する感覚がなんだか優れている。誰に対してもそうなのか、僕に隙があるからなのかはわからないんだけど。先日も話をするのが面倒だと思っていたのは事実で、だけど、そうやって向き合ってくれるから一緒に居られるわけであって、そこで何が欲しいかなんて聞きたいことではなかったし、二時間も話し込むようなことではないはずだから話をちゃんと聞けば良かった。そんなことを考えながら部屋着に着替えてキッチンへ行き夕食を食べる。書いた手紙はカバンに入ったまま。
「あ、明日は一日出掛けてくる予定。」
 ソファでラジオを聴きながらのんびりとくつろいだ顔でこちらを見ている。
「うん。そしたら作るって言ってた煮込みハンバーグ明日作るよ。」
「わーい。夕方には帰ると思う。」
「わかった。」
 基本的にのんびりとした会話が多いので週末のことはもう覚えていないのかなと思うくらいにはノーテンキな返事だなと思い、面白ささえ感じる。
「なに。バカにしたでしょ。」
 ちょっと笑ってしまったらしい。そんな姿を見逃さずに指摘をしてくる。
「してないしてない。変わらないなーと思って。」
「どうもありがとう。これが私だからね。」
「うんうんそうだね。」
 出会った頃から相手や周囲を評価したり自分と比較したりすることなく自分で自分を評価して自分らしさを持って生きている。本当にずっと変わらない。いつまでも敵わないなと思う。

 朝は平日と同じ時間に起きる。太陽が昇るのが遅い時期は二度寝することもあるのだが、夏はカーテンの隙間からの眩しさに目が覚める。珍しく彼女はまだ寝ているので朝食を作る。いつも作ってくれているメニューを真似して作るだけなので代わり映えはしないが、この量に慣れているので他のメニューはあまり思い浮かばない。ぼーっと朝食を食べて二杯めのアイスコーヒーを注いでいると、彼女が起きてきた。楽しい予定があるとわかりやすく心が躍っていますよ、という様子が目に見える。
「おはよう。」
「おはよう。アイスコーヒー置いておくね。」
「ありがとう。」
 バタバタと洗面所に向かい朝の支度をし、着替えを済ませてから朝食を食べている。
「今日、東京駅に行くんだけどなにか欲しいものある?」
 自分でトーストした食パンを齧りながら話しかけてくる。
「んー、とね、明日の食パンないから好きなパン屋さんあったら買ってきて。」
「ん、わかった。」
 何か考え事をしながら彼女は返事をする。窓から見える太陽は相変わらず熱そうな光でコンクリートを照りつけている。もうすぐ夏が終わりだなんて信じられない。
「食器、一緒に片付けるから置いといていいよ。」
 シンクへ食器を下げる彼女の後ろ姿は、夏の暑さなんて気にせずに今日という日を楽しむぞ、という勢いを感じられるほど足取りは軽やかで彼女の周りからは夏の重たい空気がなくなったようだ。
「ほんと!じゃあお願いしちゃおうかな。」
 そう言って台拭きを洗ってから、出かける準備を始める。夜遅くならないときは出かける相手などを詳しくは聞かない。全部を僕に話して欲しいとは思わないし、言いたいと思った時に話してくれると思う。きっと今日の様子だと帰ってきてから何があったのかを話してくるかなというのが僕の予想。
 この食器を洗ったら洗濯物を干そうと思っていると、支度を終えた彼女が先に干してくれている。天気がいい夏の日に洗濯を干すのは冬のそれとは気持ちがまったく違う。同じ行為なのにパリッと乾いてくれる夏の洗濯物干しは気持ちがいい。
「じゃあ行ってくるね。」
 サンダルを履き、玄関の鏡を見ながら彼女は言う。
「いってらっしゃい。」
 掃除機をかける準備をしながら応える。掃除や片付けは一気にやるのがいい、というのが大人になって気づいたことで、最初に始めた勢いで全部をやりきってしまうのが大事。途中で休憩なんてしてしまったときには、掃除スイッチが切れてしまって大変なのだ。
 一通り家中の掃除をし終えて、一息つくために水切りカゴにあるグラスをひとつ残して食器を片付けてグラスに氷とアイスコーヒーを注ぐ。夏はひたすらアイスコーヒーを飲んでいるような気がする。
 時刻は十一時半。近くのスーパーに買い物へ行く。夕食のためにいつものレシピを参考に材料を確認して買い物かごへ必要なものを入れていく。もちろんアイスコーヒーも。安くなっているハーゲンダッツを見つけて二つ入れる。バニラと期間限定のチョコミント。アイスをかごに入れたところで買い物は終了。レジで会計をして袋に詰めて外に出る。太陽がさらに上に昇って刺さるような暑さが容赦なく肌を照りつける。夏だ、と改めて感じながら帰り道を歩く。
 帰宅して昼食を用意する。水曜日に食べた冷やし中華三食入りの一食が残っていたので食べないと、と買い物の途中で考えていた。家には平均で人が三人いる前提なのか、一日三食という前提からくる三食入りなのか、なんて考えながら錦糸卵を作る。
 昼食を食べ終えてソファに座ると朝から動いていた体と頭が停止して突然の眠気に包まれる。土曜の昼下がりのテレビ番組で、かき氷特集が流れているのを横目にソファでうとうとしながら眠気に身を委ねる。時間を気にしないでまどろみを感じられる感覚が好きだ。寝てしまったら一時間は起きられない。そうわかっていながらも瞼が重くなって耳からかすかに入ってくるいろんな音が少しずつ遠のいていく。

 気づくと時刻は三時過ぎを指している。一時間どころではない時間眠りについていたらしい。テレビではかき氷特集が終わり平日夜に枠があるらしいドラマの再放送が流れている。
 手紙。はたと思い出す。カバンに入ったままの昨日書いた手紙。部屋に取りに行ってテーブルの席に座って改めて読んでみる。なんの脈絡もない話題が順に並んでいる文章を書くことはあまりないなと思いながら封筒にしまってテーブルの端に置く。今日三杯めのアイスコーヒーを注いでソファから見えるいつもの景色を眺めつつレシピの手順を確認する。テレビで流れているドラマのラストシーンを見届けて席を立つ。キッチンの脇に並べているエプロンをかけて夕食の支度を始める。一通り準備をしてあとは、煮込みだけの状態にしたところで火を弱めてエプロンを外す。洗濯物を取り込むためにベランダに出ると、東の空が紅掛空色に変わっていくところだった。昔から見ていて飽きない変化する景色を作ってくれる空が好きだ。そう思いながら空が見える位置に座って取り込んだ洗濯物を畳んでいく。
「ただいまー」
 充実した日のただいまは語尾が伸びる。彼女の癖だが本人はきっと気づいていないと思う。
「おかえり。楽しかったんだね。」
「わかる?ミキと久々に会って来てさー」
 話をしながら荷物を置いて洗面台へ向かっている。僕はキッチンで鍋に火をかけ直して冷蔵庫に入れてあったサラダを取り出しドレッシングをかけて必要なお皿を取り出していく。彼女はテーブルに置いたものから食パンを取り、いつもの定位置に置いてキッチンに入ってくる。
「お、美味しそう。」
 鍋を覗き込んでミキちゃんとの話をしながら、炊飯器からお茶碗にご飯をよそっている。僕は温まった煮込みハンバークをお皿によそってテーブルに運んで席につく。テーブルの端には僕の手紙と対になる場所に花束が置いてある。
「なに、それ。」
 すぐに手紙を見つけて聞いてくる。こういう素直なところが嫌いじゃない、というかやっぱり好きなんだよなぁと考えてしまう。
「とりあえず食べよ。」
「ん、いただきます。」
「いただきます。」
「で、それなに?」
 煮込みハンバークを口に運びながら彼女の目線は浅葱色の封筒に向いている。ちょっと意地悪そうな声色に変えてくるところがずるいなぁ。
「そっちこそ、それなに?」
 負けじと先に聞いてしまおうと突っ込んでみる。同じように煮込みハンバーグを口に運ぶ。お互いに目を合わせる。美味しい。
「ん、これ、かわいいでしょー。花屋さん通りかかったら売ってて買って来ちゃった。」
「なんでこれにしたの?」
「えー、なんとなく。色が可愛かったから。」
 僕の手紙の封筒と同じような水色と紫とうっすらと白のグラデーションがかった小ぶりの花。葉の緑色は濃く小さいながら生命力を感じる。
「どうして花屋さんに寄ろうと思ったの?」
「花は生き物で命があって言葉も持っているでしょ。一本ずつに個性があって季節によって種類や色も違う。だから生き物を飼っていない私たちには、何か一緒に愛でるものがあったらいいなと思ったの。いい発見でしょ。」
 先に質問をしたのは彼女の方なのに、結局自分から話をしてくれてこんなことまで恥じらいもなく話せる純粋さに驚かされながら、自分は何を話せばいいのだろうかなんていろんな言葉が頭の中を巡っていく。
「ふーん、可愛い色だね。」
 サラダを自分のお皿に取り分けながらありきたりな返事をする。
「で、その同じような色をしている封筒には何が入っているんですか?」
 同じようにサラダを取り分けながらすかさず聞いてくる。
「いや、先週、怒らせちゃったかなと思って。」
 箸を置いて手を膝に乗せると自然と背筋がしゃんとする。彼女は取り分けたサラダを口に運びながら頷いている。
「気にしてた?」
「うん。」
「ごめん。」
「え、こっちこそごめん。」
「ちょっとむきになり過ぎた。」
「俺も。話聞けばよかった。」
「じゃあ、明日は聞いてくれる?」
「うん、聞く。」
 静寂の中で、冷房の機械音が部屋に響いている。
「で、それには何が書いてあるの?」
 真面目な顔からすぐに表情を変えて、ちょっと意地悪そうな笑顔で聞いてくる。
「この一週間にあった、話をするまででもなかったこととか、家での様子を見ていて思ったこととか、なんとなく伝えておきたいこととか。」
 僕だけ背筋を伸ばしたまま話を続ける。彼女は僕と料理を交互に見ながら箸を動かし続けている。
「手紙って思ったより書けてさ。もともと話をするのは得意ではないかなと思っていたんだけど、手紙も別に好きで書いた記憶はなくて。でも書いてみると真面目に考えると別にどうでもいいこととか、いつもは思っているけど伝えていないこととか、言葉にしやすくて。だから、書いてみた。」
 そこまで一息に喋って、ドレッシングが掛かってシュンとなっているように見えるサラダを少し多めに口に運ぶ。彼女はバランスよくメニューを口に運んで食事を味わっているようにも、僕の話の終わりをつかむ方法を考えているようにも見える。何か変なことを言ってはいないか、話したことを頭の中で復唱しながら、口をもぐもぐさせる。
「それ、いい発見だね!」
 彼女は小さな子どもが何かいいものを見つけてきたときのような顔で、うんうんと嬉しそうに頷いている。ちょっと安心した僕はハンバークを一口分切り分けて、口に運んでいく。
「じゃあさ、花を買ったときに話をする。で、話すかどうか悩むかもしれないこともあるかもしれないから、手紙が書きたかったら手紙も書く。テーマは花にもらうの。どう?」
「花にもらうってなに?」
「花言葉をテーマにする。」
「テーマトークするの?」
「そうだよ。別に無理にたくさんのことを話さなくても、きっと私たちはこうやって過ごしていけるかもしれないけど、でもさ、なんかそれって寂しいでしょ。でも話そうと思うとタイミングが見つけられなかったりとか、お互いにむきになっちゃったりとか。まぁ私が幼いからなんだけど。だから花や手紙はきっかけ。」
「うん、わかった。じゃあ食べ終わったら花言葉調べるところからスタートね。」
 彼女が僕と同じように話すタイミングを考えていたり、自分のことを幼いと思っていたり、なんだかんだ似ているんだなと嬉しくも感じながら、少し冷めかけたごはんを食べる。明日は温かいうちに全部を食べられるといいね、と思いながら。

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