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【社会人4年目&妊娠~出産】8年前の私の話。

今回の記事は、↓の続きです。


ということで、【社会人4年目&&妊娠~出産】の8年前のことを綴ります。


今から8年前(2012年):社会人4年目(24歳)

この年、私は転職した。

しかもとある大学のスポーツ系学部の助手という、私にしては出来過ぎなほどの転職だ。(ほかの2人は院卒、私だけ大卒だったが、おそらく事務職員の経験を評価してもらえたのだと思う)

自宅から職場まで、約2時間の通勤となった。

初めて利用する路線、今までとは違う風景、そして何より教員という立場での仕事。

何もかもが私にとってはきらめいていた。

けれど、数か月すると、私は職場へ行けなくなってしまった。

教員というプレッシャーもあったと思うが、何よりHSP気質を持っていた私にとっては人間関係が一番の苦しみになっていたと感じている。

もっと周りを気にしなければ、もっと自分中心的な人間でいられれば、きっとあの場所でも生きていけたのだと思う。

でも、ダメだった。心も身体も完全にダメになってしまった。憧れの職場で楽しいこともたくさんあったのに、いつしかすべてがストレスとなっていて、もう本当にダメだった。社会人1年目の時とはまた違う、心身への影響を感じていた。

そんな中でも学びは続けよう、気分転換したら変わるかもと思い行った、大阪出張。しかし、その出張先のホテルでも吐き気をもよおした。正直、四六時中苦しくてたまらなかったのだ。


妊娠判明~重症妊娠悪阻で入院

でも、どんなタイミングでも気持ち悪い状態は続き、「これはもしかしたら…?」と妊娠検査薬を試してみたところ、陽性反応が出た。

どちらにしても職場へは行けそうになかったため、休ませてもらうことになった。

その後、母校の大学病院で妊娠確定の判断をしてもらい、「あまり食事ができないんですが…。」と相談するも、「水も飲めないくらいになったらまた来てください。」との医師の言葉を信じ、「妊娠するってこんなにしんどいんだー。」という気持ちを抱えながら、毎日過ごすようになった。

つわりはどんどんひどくなり、水一口さえ飲めなくなった。(何かものを口に入れると、すぐに吐いてしまうようになった)

「これはさすがにマズイ…。」と思い、夫と共に違う産婦人科の病院へ行った。尿検査をした。結果、ケトン体が出ていると分かり、重症妊娠悪阻と診断された。(飢餓状態に陥っていた)

この時、夫はプロバスケットボールチームへの転職が決まり、都内ではあるが転居をする必要があると言われたタイミングだった。その日の受診時には「点滴だけして帰って良いよ。」と言われた。

だが、夫がそのような状況だったし、私は結局一人家にいても身動きが取れず、ただひたすら横になっているしかできない状態だったので、お医者さんから「1週間入院したらだいぶ良くなるとは思うけど。」との話から入院させてもらうことになった。

1週間入院する中で、日に日に少しずつだが食事が取れるようになり、シャワーを浴びても大丈夫なようになった。入院中、看護師さんから「自由に歩き回ってもらって良いんですよ~!」と言われたが、ふらふらしていてとてもそんな状態ではなかった。けれど「入院は1週間。」と決めていたので、1週間で退院した。

退院した日、太陽の光がまぶしかった。「ちょっとお腹空いたな。」と思ったので、食べられるかどうか分からなかったけれど、病院近くにあったSUBWAYへ立ち寄った。「美味しそう~♡」とは思えたのだが、やっぱり食べられなかった。(一口か二口で、もうたくさんだった)

退院してからも、ただひたすら横になっていた。暑い夏だった。


つわり最中での転居

そんな中、引っ越しが決まった。

引っ越し先の家は夫が探し、下見に行き、決めてきてくれた。(まだ住んでいる人がいたので外見だけ)

引っ越しの荷造りは、すべて業者さんにお願いすることにした。引っ越し当日。夫は引っ越し業者さんの車で一緒に行くことになり、私は一人電車で移動することに。当時住んでいた自宅からは電車で50分ほどの場所、乗り換えは2回だった。

本当は不安でしかなかったが、「なんとかなるだろう!」と電車に乗った。しんどくてしんどくてたまらなかった。途中下車して休憩もした。なんとか引っ越し先の近くにある夫が確保したホテルに到着でき、すぐに横になった。(正直この時の記憶はただひたすらしんどかったことしかない)

そして新居へ。

新たに家族が増えるということで1LDKになり、多摩川近くの静かな場所だった。

正直私は大学教員として働くことを諦めたくなかった。産後もしかしたら復帰できるんじゃないかと思っていた。そんなある日、私のことを気にかけてくれていたある先生が私に会いに来てくれた。

先生は「その赤ちゃんはきっと、あなたを守るためにこのタイミングでお腹にやってきてくれたのだと思うよ。だから無理して復帰する必要はないし、むしろこのまま辞めた方があなたのためだと思うよ。」と言ってくださった。逃げるように仕事を休み、挙句の果てに妊娠判明したという私だというのにだ。短い期間ではあったが、とても美しく優しい心をお持ちで、強い信念に基づいて生きていらっしゃる素敵な先生だったと今でも記憶している。

理想とはほど遠い、私のマタニティライフ

そんな私の妊娠生活は、正直全く輝いたものではなかった。

日に日に大きくなるお腹を抱え、見つめながら、「あなたがいるから私は死ねないわねぇ…。」「このまま道路に飛び出たら死ねるのかな。でも、この子がいるから死ぬわけにはいかないか…。」そんなことを思う日も少なくなかった。当時、夫の所属するチームの応援に週末出かけるくらいで、あとはスーパーに少し買い物へ出る程度、この時期もほとんど横になって過ごしてばかりいた。

おそらく私の精神状態がこのような状況だったことは、もしかしたら夫もいまだに知らないかもしれない。外では仮面をかぶり続けていたと今振り返ると思うし、誰にも心配されることはなかった。むしろそれだけ闇が深かったような気がしている。

当時24歳の私の周りには、誰一人妊娠や出産を経験した友人はいなかった。母親学級などで「ママ友を作りたい!」と思っても、やっぱりそんなにうまくはいかなかった。

イメージとはかけ離れた出産

25歳になった3月下旬。長女が生まれた。

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我が子が生まれて初めての写真。

我が子が生まれ、隣に連れて来てもらったら、嬉しくてたまらなくて喜びの涙や感情があふれ出てくると思っていたのだが、正直全然違っていた。

申し訳ないが、私は全く喜びや幸せを感じることができていなかった。これこそが、私の辛い妊娠期間を表す最たるものだと思っている。


予定日よりも4日早く、夜の20時から始まった陣痛は、翌日の14時近くまで続いた。LDR室だったので入院時から移動することなく出産までできたのは本当に良かったと思っている。(2人目の時は陣痛室と分娩室が分かれており、それはそれで恐怖の経験をしたからだ)

途中何度も「赤ちゃんの心拍がとれなくなるから動かないで!」と看護師さんに言われ、動きたくても動けず、ひたすら仰向けの状態を維持。「陣痛時にはテニスボールが良い!」と知り持っていくも、使い方がいまいちわからない。看護師さんや助産師さんは全然来てくれない。「まだ開いてませんね。」と言うと、すぐにいなくなってしまう。もう、自分の身体がどうなるのか、本当に赤ちゃんが生まれてくるのか、ただただ不安でしかなかった。(この病院は付き添い1人までOKだったので、夫がずっといてくれたのだが、この時ばかりは母親にいてもらった方が良かったのかも…と振り返った時に思った)

そしてなかなか子宮口が開かないとのことで、陣痛促進剤を使うことに。そこからはもう記憶にもないほどの痛みだった。会陰切開もした。無事生まれ、我が子を抱かせてもらったのだが、我が子だという実感が持てずにいた。ちなみに夫は泣いていた。(我が子が生まれた喜びもあるはあるけれど、私の頑張りに涙したと言っている)

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入院中の私と長女。授乳後、ゲップをさせようと必死になっている私。会陰切開した傷跡は激痛だし、胸も激痛だし、でも昼夜問わず3時間置きにきちんとミルクをあげて、痛む身体に目をつぶって我が子を抱いて体重を測りに廊下を歩いていっていた…。本当に必死だったなぁ~。(この時自分自身、真面目過ぎるほど真面目な人間だと知っていれば、もっと手抜きをして過ごせただろうにな)


初めての妊娠・出産だったので、私は里帰り出産を選択していた。夫は毎週試合があり、日本各地への遠征もあったため、重症妊娠悪阻のこともあり一人で乗り切る不安の方が大きかったからだ。

幸いにも自宅から実家までは鈍行でも約2時間で帰れたので、まだ良かった。夫はたった10分だけでも私たちに会いに来てくれた。そんなハードな生活を送る夫が出産に立ち会えたのは、まちがいなく長女がお腹で話を聴いていてくれたからだと思っている。

入院中、私は胸がパンパンに膨らみ、脇の下まで激痛が走っていた。ナースコールで尋ねるも「冷やすしかないので。」と放送で返されるだけで、どこをどの程度どれだけ冷やしたら良いのかすら分からなかった。だって触れるだけで痛かったのだから。

「この痛みのまま実家に帰っても我が子に母乳があげられない!」と思い、母に相談して退院してすぐ桶谷式の相談室へ連れて行ってもらった。そこから約1~2週間はほぼ毎日のように通い、里帰りを終えるまでお世話になった。

そんな出産を経て、時は2013年4月になっていた。

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赤ちゃんの頃から活発な子だったようで、新生児期から寝ながらよく動いていた。


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起きたと思って布団をめくってみたら、こんな格好になっていたことも。


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赤ちゃんあるある!?変なところから足が出ているバージョン。

今こうやって振り返ってみると、この赤ちゃんが小学2年生になったなんて、感慨深いなぁ~…。よく頑張ったな、私。


*


今日は今から7年前のことを綴りました。思った以上のボリュームになったため、今回はここまでにします。

次回は今から6年前、ママ1年目の日々を記します。

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