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見限ることは悪か

見限るについて

人を見限る.能力を見限る.自分を見限る.そう言うと悪いイメージが着いてくると思う.実際にネットでは「見放す」「見捨てる」といった言葉と並んでネガティブな用語として扱われている.
しかし,それは本当に良くないことなのだろうか.

今の世の中では

この世の中では,いろいろな考え方,思想,価値観が渦巻いている.そして,私には,期待する度合いが高くなっている気がする.公衆の場で挙手する人が少なかったり,役割分担がはっきりしていないと,誰かが仕切ってくれるのを黙ってまっていたりする人が,しばしば見受けられる(大学生特有なのかもしれないが).そうした他力本願から「やらない」と「やれない」が混在していっていると思う.

「やらない」と「やれない」

「やらない」ならばまだいい.問題なのは「やれない」のに「やらない」であると思い込んでいたり,思われていたりすることだ.
自分が思っているほど,他人に思われているほど人間の能力は高くない.このような期待と事実のギャップによって摩擦,損失,関係悪化が生まれると考えられる.
そういった認識のズレを修正する機能こそ,「見限る」に含まれている気がする.

見限る

「やれない」人間に対して「(私には君は)やれる(と思っている)よ」というのは酷なことだと思う.できないやつはできない.大多数の人は大食いタレントやラグビー選手のようにどんぶりで5杯も10杯もご飯を食べることはできないだろう.大多数の人は帰国子女のように日常会話で英語を使うことはできないだろう.半分くらいの人は,妊娠することはできないだろう.半分くらいの人は,パソコンの使い方が分からないだろう.
そうやって細分化していき,その先に「この人は○○ができないだろう,苦手なんだろう」があると考える.そしてそういったもの(能力)は一朝一夕では身につかないことが多い.それをまず認め,考えることが大切だろう.

見限るには「期待をやめ,自分自身・その人自身を事実に基づいて認識する」という意味も含まれている気がする.そしてそういった見方を身に着けることも必要なコミュニケーションの一つであると考える.
思い込みを排除するのは難しいですが頑張っていきます.

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