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#1 「これって、どうやって食べるの?」

日本人と一緒に食事に行ってよく耳にする言葉の一つにこれがある。
例えば、とてもガブつけそうにない巨大ハンバーガーや今まで食べたことがないご当地料理を初めて食する時など。また数種類のタレやソースなどの調味料が一度に出てきた時もそうである。
残念ながら私もそのうちの一人なのだが、食べ方の「正解」が気になるのだ。
間違った食べ方をしたくない。作った人にも失礼になるばかりか、間違った味を食してこの一期一会の料理の正しい味や、食べ方を逃すわけにはいかないのだ。

また、違った食べ方をして恥ずかしい思いもしたくない。
そのような思惑が相重なって、正しいのはどれなの?どれが正解なの?ねーねー教えて、となる。

だが海外でメシを食う場合、私の知る限りでは、特にこれが正しい食べ方とか、そのようなものはあまりない。
格式高いフランス料理(私は食べたことはないが)なら別だが、大概のふつうのレストランであれば、好き勝手に食っていい。というか、それは客の勝手であって、店の方もそれについてどうこう言わない。

食う方も適当に食べる。腹が減っているのだ。勝手に自分なりに食べる。本当に食べ方わかんなきゃ、チョット他を見渡すかもしれないが、真似して食う。
いちいち食い方なんて気にしてない。

私もよく妻に言われる。妻は韓国人なのだが、よく変わった韓国料理なんかを食べる時、「むむっ、これどうやって食べるんだ?」
だが、返ってくる答えは大体「適当に食べればいいんだよ。」だ。

なぜだろう?なぜこうも日本人は正しい食べ方を気にするのだろうか?
これは正しい食べ方というよりも、そもそも「正解」が気になるのだ。
間違いを犯したくない。間違いを犯して、恥ずかしい思いをしたくない。私は常に「正解道」を走りたい!のだ。

これは我々が受けてきた学校教育に問題がある。
常に一つの答えを導き出し、その答えに出来るだけ早く、正確にたどり着いた者が賞賛され、間違った者は落ちこぼれて行くのだ。
またそのように、正解を導き出すことに重きを置いた教育の中では、答えのない問題について、議論をすると言うような授業は我々は受けてきていないし、世の中には答えは無数にあるにも関わらず、あたかも諸問題についても、正しい答えがどこかに一つ存在すると言う錯覚さえ与えられてきた。
このように言うと、なるほどそのような気がしてくる。

しかしもっと根深い問題がある。と私は思う。
それは、「みんなと違うことに対する恐怖心」だ。
日本は世界でも稀に見る単一民族であり、日本語という単一の言語、単一の文化の中で全てが回ってきた。
一定程度、皆同じ考え方を持っているし、感じ方や、物事の捉え方などは、総じて統一化された中で生活が成立している。
皆がそんな中で生きているものだから、当然違っていたら目立つし、異質なものとして、理解できないものとして、距離を置かれる。
テレビでもそうだ。個性個性という割には、人と違う事をしたり、異質なものに対して、距離を保とうとする。
日本の中だけにいるとわからないが、異質なものや違ったものを受け入れようとしない。
村八分、仲間はずれが始まり、一度そのような対象になってしまうと、まあ生きづらい行きづらい。ということになってしまう。

しかし、これからの世の中はグローバル化を避けて通ることはできない。我々の文化や習慣外の人達と一緒に、いろんな事を進めて行く時代がやってくる。いや、もう既にそうなってきている。
人口がどんどん減っていくこの日本。発展していくには、いや、発展はともかく、現状維持で存続して行くためにも、海外の力、外国人の力を頼らずに入られない状況になっている。
逆に、あなたが日本を出て、広い世界で活躍するためには、いつまでも、このガラパゴス島の中で内側を向いて生きていくことはできない。
さあ、どうするか?

正解なんか無数にある。食べ方がわからない時は、自分で考え適当に食おう!


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