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「少年少女」という言葉の魅力ー私がお店を開いたら扱いたいもの(古本編vol.8)ー

アナトール・フランス「少年少女」三好達治訳

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 最近、アナトール・フランス「少年少女」三好達治訳、岩波文庫、1987年第40刷を読んだ。

 全100頁の短編集である。

 私がこの本を手に取ったのは、「少年少女」という題名に惹かれたからだった。

 そして、表紙に描かれた以下の言葉に惹かれたからでもある。

「ここに収められた19篇の短い文章は、すべてあどけない子供たちの単純で無邪気な生活を描いたもの。アナトール・フランス(1844ー1924)はこれによって、童心の世界を失った世の大人たちには、あたかも覗き眼鏡をまるように数かずの懐かしい想い出を思いおこさせ、また明日を生きようとする少年少女には、優しい有益な忠告を与えてくれるのである。」

 大人たちに懐かしい想い出を思い起こさせる。

 それはまさに、私が古いものを扱う店を開くことで目指すものだった。

 それゆえ、私はこの本を手に取ったのである。

 訳者のあとがきによると、これは、アナトール・フランスが1886年にパリのアシェットという本屋から単行本として出した「我々の子供たち」(Nos Enfants)という本の全訳だそうだ。

 この本は1900年に改めて上下2冊本として刊行され、上巻には「我々の子供たち」、下巻には「少年少女」(Filles et Gqrçons)という題がつけられたらしい。

 また、この本には版画が挿入されているが、エディー・ルグランという画家のものだという。

19の短篇の感想

「ファンション」                          童話の赤頭巾のような始まり(おばあさんの家に行く)から、小鳥たちを通してちらりと世の厳しさ、そして喜びを教えてくれる。思わずにこりとした。

「仮装舞踏会」                           仮装の魅力は、「英雄たちの着物を着るのに、もしもまたその心のほうも持たなければならないなら、決してそれは楽しいことではありますまい」という一文に現れている気がする。その人物ではないからこそ、彼ら英雄の心の苦しみを味わうことなく、着物を着るだけで、その人物の栄光を感じることができる。

「学校」                              得意不得意は、みな違う。「いい点数は何の役に立つの」と訊いた娘へ母が返した言葉は秀逸。

「マリ」                              子どもならではの好奇心や行動の描写が微笑ましい。だから大人たちは心配し、理解できないと思うことも多々あるかもしれないが、子どもにとっては当然の思考回路の結果。

「牧羊神の笛」                              行商人が持ってきた品物は、牧羊神の笛のように並んでいる少年たちにはさぞ魅力的だったのだろう。何か特別なことが起こるわけではないが、一場面の描写に美しさを感じる。

「ロジェの厩」                           人生と馬を関連付けた作品。二頭の馬に乗れ、というのはなるほどと思う。一頭は勇気、もう一頭は親切、とは、確かに、と思う。子どもたちへの忠告、アドバイスという感じかな。

「勇気」                              女の人が見ているから男の人の勇気が生まれる。全部が全部そうだというわけではないと思うが、一つの理由としてはそうだろう。少女に勇気を見せたいがために(その気持ちはおくびにも出さないが)頑張る少年が可愛らしい。

「カトリーヌのお客日」                       礼儀を子供に(特に女の子に?)伝える話として書かれたのかな。カトリーヌが自分で「礼儀とはなにか」に気づくのは、なかなかできないことだろうなと思うので、すごい。こんな風に人形遊びしたなあ、と思い出す。

「海の子」                             海が育てる船乗りの魂。これまでも思っていたけれど、描写の言葉や比喩が美しい。

「回復期」                             病気になると、いろいろなことが見えてくる。普段とは異なる状況で、いつもの人々がどう振る舞うか。それが見て取れるし、元気な頃が懐かしく思われる。回復期は希望。

「野あそび」                            姉と弟の様子が可愛らしい。自然の中での遊びが、賑やかさが、夕暮れと共に恐ろしいように思われる。そして、家に帰るとほっとする。そんな思い出が、私にもあった。

「観兵式」                             一番小さなエティエーヌの、最後に、自分一人の将軍になって満足するところ。誰も見ていないところで、こっそり、自分の野心を味わう。こういう何気ない描写に心が惹かれる。

「落ち葉」                             労働の大切さ。「働いて得たスープよりも、おいしいスープはありません」という一文。これはわかる気がする。いやいや働いて得る、ということではなく、自分が納得して働いた結果なら。

「シュザンヌ」                           意外に子どものほうが明確に答えを指摘できる。大人は難しく考えすぎる。そういうことが、世の中には結構あると思う。

「魚釣り」                             兄妹の魚釣り。こういう日常の場面て、意外に記憶に残っている気がする。別にそこに特別なことがあったわけではないのに。

「大きな子供たちの失敗」                      私もエティエーヌのように、大きい子供ではなかった。でもまあ、小さいからこその利点も、今回の話のようにあるのだなとは思う。欠点や不運は見方を変えると意外に利点や幸運。

「ままごと」                            ままごとをした覚えがよみがえる。ままごととか人形遊びって、結構、想像力を駆使する作業だよなあ、と今思う。でも、子どもの頃はそれを難なくやってのけていた。子どもの想像力が、時々うらやましくなる。

「芸術家」                             何かの不運や困難、つらいこと、そういう、マイナス面を乗り越えようとして、芸術というものは生まれると、個人的には思っている。「才能というものは、困難にうち克っていくものです」という一文に共感した。だから諦めたくなるし(自分は才能がないから打ち勝てないと)、逆に頑張ろうと思う(これに打ち勝てたらよい未来が生まれるかも、と)。

「ジャクリーヌとミロー」                      自分の崇拝していたものが、実はあまりに簡単に扱われている、その現実を見て、悲しくなる。こういった覚えがある。自分が大切にしていたもの、感情、感覚が、他の人たち世間一般からすれば、まったく違うもので。それを知り、どちらが正しいのかは分からないけれど、子どものときに抱いた崇拝を忘れていく。そうして世間に合わせて大人になっていく。でも、やっぱり、悲しい。

「少年少女」という言葉の魅力

 私は「少年少女」という言葉に惹かれる。それは、自分が「少女」と呼ばれる時期を過ぎても。

 少女と呼ばれた時代にそれほど幸福な思い出があるわけではなく、むしろ自分にとっては暗いような、空白の時期ではあったが。

 読書を通して、私は長らく、少年少女が活躍する話の中に入り込み、ともに冒険してきた。

 私はたぶん、「少年少女」という言葉から、自分の過去ではなく、その読書体験を思い出して、その言葉に惹かれるのだろう。

 大人になると、昔より、話の中に入り込む、という体験が難しくなった気がする。

 それは私だけかもしれないけれど。

 昔、夢中になってお話を読み、はっと現実に戻った時、自分がどこにいるのかわからなくなったり。ここはどこだ、と一瞬、思ってしまったり。

 それは、今から思えば、ちょっと危ない子だったかもしれないが、あまり好きではない現実から逃れるのに大切な時間だった。

 「少年少女」と呼ばれる時期は、とても不安定な時期であると思う。

 でも、その不安定さに、どこか特別なものを感じる。

 不安定さが、冒険を呼び込むような気がする。

 その時期に戻りたいというわけではないけれど、私の冒険を求める心が、不安定さを残す「少年少女」という言葉に惹かれるのだろう。

 また、もう一つの理由としては、「少年少女」の時期には、大人になって忘れてしまった沢山のことをまだ持っていると思うからだ。

 今回のアナトール・フランスの「少年少女」では、特別な冒険は起こらない。

 けれど、その登場した少年少女たちにとっては、あることに気づいた大切な冒険かもしれないし、宝物かもしれない。

 重要でないように思われることに、実は大切なことがある。

 大人ではなく子どものほうが、それに気づきやすいと思う。

 だから、何度でも書くけれど、私は「こども心」を忘れたくないのだ。

 だから、「少年少女」という言葉に惹かれるのだ。

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