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一粒のひかり、泳いでゆく藍の空

遠く。遠くの遠くで、どんと何かが鳴った。
どんどん。どん。
深くて重たい響きが田舎の静かな空気に染みわたって、帰宅して車を降りたばかりの私の耳に届いた。
あっ、と思った。
1年越しの音だった。
8月の夜。どこか遠くの空に、鮮やかな花が咲いている。咲いては消え、消えては咲く儚い花が。
それを知らせる合図の音だった。

確か今日は、川向こうで花火大会をやっているのだった。
バイト先で聞いた話題を頭の隅から引っ張り出して、現状と照合した。
そして、花火を観るために、土手の上まで行くかどうかを私は少し逡巡した。
母に「観に行かないか」と訊ねると、すぐに行かないと返事が返ってきた。

主張激しく鳴り響く花火の音を、耳は敏感に拾い続けた。
しかし、夏の暑さの中で疲労の溜まってしまった私の足は、母の背中を追って迷いなく玄関に向かって歩きだしたのだった。

・・・

年は気付けば20を超えて、私の行動範囲は高校生の頃の非ではなくなっていた。田舎では足がほとんどないから自分で運転もする。
お酒を飲めと言われれば飲んでも問題の起きない年齢でもある。選挙権もあるし、銀行のカードも持っているし、クレジットカードで電子マンガも読める。完全に大人と言われる部類にいるだろう。
炊事や生活費などたくさん家族の世話になっているとはいえ、外側から見ればきっと私は大人の一人だろう。

ふと思う。

もう、水飴や射的、スーパーボール、型抜きの屋台を前にして親の服の裾を引っ張り、小銭をせがむことはないかもしれないと。
人の目を気にせず、駄々を捏ねて泣いてわがままを言ったあの日々を懐かしく思っても、もう自分の自意識がそれをすることを到底許してはくれない。そしておそらく周りも。

小学生の頃、文房具屋に行くことさえ、大きな楽しみだった。自分一人では行けない場所に、車で連れて行ってもらうのはちょっとしたご褒美だった。店の文具コーナーで、ああだこうだと見比べながら鉛筆から筆箱に至るまで母と相談した。時には買う買わないで言い合った日もあった。
夜になれば、明日から持っていく新しい文具のことを考えてそわそわしながら眠った。そんな小さな小さな非日常があの頃の上質な幸せだった。小学生の小さな世界では一つ一つの喜びが相対的に大きなものとして映っていた。

今は、あの頃よりも少し(?)賢くなって、化粧をして見栄えを気にするようになって、お金を少しは稼げるようになって、ちょっと高いものを買えるようになって、あちこちに出かけられるようになった。私が動く分だけ、世界も広がっていった。

でもその分、少し不自由になったなと思う。もう私は守られて生きるだけの子どもじゃなくなってしまった。多方面に気を使い、画面の向こうの殺伐とした世界を憂い、時に自分に引き寄せて考えて疲弊する。スマホを通じて世界と繋がり、所有欲を刺激されたり人と比べたりする。
一人の個人として、社会と向き合うことを強いられる。

地位、冨、名誉、それらがないと生きづらい世の中。上を目指すことばかり求められるけれど、足下にいる人たちを踏み台にして、それは成し遂げられているようにも思う。
もっと自由に、もっとゆとりをもって生きてはいけないのだろうか。必要なものなんて、ほんとうは最小限のはずじゃないのか。
健康に家族と友人と平和な世界で生きられるなら、そこにこれ以上ないしあわせがあるはずなのに。そんな、小さな世界の大きな幸せを、この広い世界で手にするのははかえって難しいことのように感じるときがある。

何をして1日過ごせば、正解ですか。充実した人生を送れますか。誰と生きればいいですか。大人にならないといけませんか。

「花火だ花火だ」と大騒ぎして駆け回る夏は、気付けば私のものではなくなっていた。そう思っていた。
歯医者の待合室の隣、遊具やお人形が迎えてくれる明るい光の灯った空間も。
ファミレスのメニューの最後に載っている、ちょうどよくて華やかなお子様ランチも、おまけのおもちゃも。
いつの間にか私のためのものではなくなっていた。
年を重ねていく度に、少しずついろいろなものを手放して、手渡していく時期になっていた。
なにか、大きなものを掴まないと幸せになれないような気がしてしまうのが大人なら、大人になると言うことは少し淋しいことだと思う。
でもせめて、今の子どもたちがあの頃の私たちと同じように、たくさんの優しさを手渡されて育って欲しい。そんな世界をのこしたい。
今、そう思う。
彼ら彼女らが何も心配せずに大人になっていけるように。
世界に希望を感じられるように。
いつか、大人と子どもの狭間で息苦しくなってしまったとき、子どもの頃の思い出を胸にいつでも灯せるように。

・・・

どん、どんどん、どんどん。どどん。
一際大きな音がした。うちがわに響くものに対抗しようとしても、理性や論理はあまり意味をなさないのだと知った。意志はその時すでに固まった。

家で夕食の支度をしている母に「花火見てくる」と言って、充電2%のスマホと首から提げるライトを掴んで私は家を飛び出した。
どうせ行くのに、どうしてためらってしまうのかな。コンクリートの道路を蹴り上げて、髪を振り乱しながら思った。

走り出してしまえば、後は足を動かすだけだった。
走っている途中に花火が終わってしまうほど、その状況において空しいことはない。
暗い夜道を走っていると、不思議と子どもの頃の自分と繋がりを感じられる気がした。階段をライトで照らしながら、歩を進める。
ふっと上を見上げると、先客のシルエットが大小いくつか揺れていた。私は足に力を込めて土手の上へと急いだ。

「こんばんは。まだ観られますか」
先客に挨拶をして、私は土手の上で揺れる影の1つに加わった。私は、先刻までシルエットだった人々に話しかけた。
すると子ども2人を連れた親子が愛想良く私に言葉を返してくれた。
「こんばんは。まだやってますよ」
私は、息を整えながら思わず口角を緩める。そうして花火の見えるだろう方角に、目を凝らす。タイミング悪く、藍色の空があるだけだ。
子どもは、花火の合間にも、はしゃいでいた。
「花火が見られて良かったねぇ」と声を掛ける私は、きっと子どもらからすれば大人の女の人なのだろう。

ひゅう~
という音とともに、一粒のひかりが夜空を垂直に揺らめきながら泳いでいった。たった一粒のそのひかりは、川を挟んだ土手上にいる私の目にまばゆく映る。その推進力は、藍の空をいきいきと泳ぐ魚のようだ。
登り切ったひかりは、すっと1度静かに消えてしまう。
しかし、次の瞬間にはすっきりとした藍の空に色鮮やかな花を咲かせてくれるのだ。
一粒のひかりが、無数の粒子を生み出して、四方に散らばっていく。
時に規則正しく中心方向から外側へ。
時に、それぞれのひかりが不規則な軌道を描いてゆく。
どこかで花火を打ち上げている人のことをそっと思う。
昔は、花火をどうやって打ち上げているのかなんて考えもしなかった。コロナ禍を経て見上げた花火は、以前観たことのないものがいくつも混じっていて、月日が経つことは決して悪いことではないのだと教えてくれた。そこにある誰かの努力に気づける人間になれてよかったと思った。

・・・

何者かになりたい。最近よくそんな事を思う。
何者かにならなくてはいけない。就活をしている友人を横目に、そんな風に思う。それがどこか息苦しくて、でも早くその目的地のわからぬ場所に到達して安心したいとも思う。
花火のように、主張激しく個性的に咲き誇り、散るような生き方。そんな生き方もよいけれど。
花火を穏やかに見つめられるような、静かで落ち着いた心。そんな心で、ささやかな幸せを大事にするような生き方もまたよい。
そんな気づきを胸に。
私はどんどんと音が鳴る夜空を背景にして、土手を下る階段をライトで照らした。

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