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「大人になったね」に対する感情は定まらないけれど


日差しは強いが風は冷たい。ジャケットを羽織っていて心地よい気候だった。年中こうあってくれ。
スーツの袖を今季初めて折る。すると、お気に入りの銀の腕時計がチラ、と日光に反射する。なんだかそれがキャリアウーマン! って感じで、気分が上がった。気分は中村アン。ふぁさ……って髪かき上げたい。そんなスーツ姿で学生のそばを通ると、「大人になったな」と思う。中村アンに擬態した澄まし顔になっていたことは認めよう。

仕事柄、学生をよく目にする。信号待ちで、視界の左端に横断歩道を渡り始める高校生の男女を見た。男の子は徒歩、女の子は自転車を押している。まあ、たぶん、恋人同士。男の子が女の子から自転車のハンドルを取ったかと思うと、ふざけて跨がった。そのまま漕ごうとした。焦った女の子が「ちょっと!」と言いながら(実際聞いたわけではないけどそんな感じで)、急いで背中を掴む。もともと漕ぐ気などなかったらしい男の子は、ケラケラ笑いながら自転車を降りる。そのままの流れで、男の子は自転車を押し始めた。
男の子が押す自転車のカゴには女の子の鞄。自分の鞄は背負ったまま。隣で何も持たず、身軽で歩けるようになった女の子。……え、何、どこでそういうの習得してくるんですか?
笑い合いながら、私の視界を左から右へと動いていく男女。もとい、超絶さり気な紳士とその恋人。「青春」という言葉を作った神様の目の前には、たぶん、この2人がいた。


道ゆく学生たちを見ていると、表し難い感情になる。よちよち歩きの幼稚園児を見るときほど微笑ましくはないけれど、リア充め! みたいな僻みもない。あの頃は良かった、という羨望でもない、気がする。高校3年生だとして、6年前。……もう6年前? 「大人になったね」って、もっと良い意味の言葉だと思っていた。けれど友人たちと使うそれには大抵、ため息が伴奏する。

もう戻れないと思っているからなのだろうか。事実、戻れはしないのだけど。やっぱり羨ましいのか?
もうすぐ24歳になる女たちの恋バナには、中学時代のそれからスパンコールが失われた代わりに、ダンベルの質感がある。スパンコールを大事に大事に磨いてきた結果として宝石になったパターンもあるけれど、それにも宝石としての重量と硬質が付き纏う。そこで呟くのだ。「大人になったね……」と。そんな最近の感触が、道ゆく学生服への何とも言えない眼差しを生んでいるのかもしれない。


不意に、グレーな吐息を伴わない「大人になったね」を思い出した。年末、中学時代の部活仲間で集まった夜のこと。
その中の私を含む4人は、小学校からのチームメイトだ。けれど中学で仲間が増えて以降は、取り立てて4人だけで集まる機会はなかった。それが偶然、あの日は4人だけになった。深夜2時。他のメンバーが寝たのだ。潰れた、とも言う。

「え、やば」
「ん?」
「ねぇ、すごくない?」
「何が」
「いや、うちら大人になったな〜と思って」
要領を得ない一人の発言。それがみんなの頭の中で意味を成したとき、4人ともが笑みを溢した。
ユニフォーム姿で地べたに座り込んでおにぎりを食べた4人。股にてんとう虫が止まったのを、腰を突き出して見せびらかす1人とゲラゲラ笑う3人。理系も文系も期末テストもない4人。庭にテントを張ってDSしながら寝そべった4人。次第にふわっと分裂して個々が様々な輪を作り、今は1人が4つになった。そして23歳の暮れ、2時間だけ、4人に戻った。

あの夜の「大人になったね」は、朝露のように濁りなく綺麗に響いた。
アルコールの香りは漂っていたけれど。

たとえば私たち4人が、道ゆく学生服を見て想起する風景は4通り。それぞれ違う。場所も、服の色も、自分の隣にいる人物も。そこを遥かに飛び越えた先の、もっと未熟でもっと幼稚な風景の中で、きっと4人は4人を思い出す。それが誇らしく、嬉しく、ありがたい。煽った酎ハイで表情を隠しながら、10年越しに現れた4人の風景を抱きしめた。


24歳になる女たちの恋バナはたしかに重い。こないだ彼氏が自転車を押すのをさりげなく代わってくれてさ!、みたいな、煌めきのある話は今後どんどん少なくなっていく、かもしれない。キラキラした学生服を見たときの何とも言えない感情に名前をつけたい気もするし、名前がわかったそのときを想像したくない気もする。

それでも。

結局、ため息が伴奏していようと、アルコールの漂う感嘆だろうと、「大人になったね」と言い合える相手がいる事実は尊く、愛おしい。次に集合してバカ笑いする日を楽しみに、学生の前でかっこつけたいよくわからないお年頃な春を、歩んでいこうと思う。


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