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オアシス-1/物語/小説/この町には昔、天使がいた

 この町には昔、天使がいた。

 少女のような彼女は、いつも石でできたこの窓台に座って、月の砂漠を眺めていた。



***

 「出て行け!」と怒鳴る声が響いて、日干しレンガを積んでできた、白けた家の四角い戸口から、一人の少年が飛び出した。

「あなた、そんな大声出して。ご近所にご迷惑でしょ」

「何を言ってる。こいつが使えんのは、この町の全員が知っとるわ!」

「そういうこと言ってるのじゃないわ」

「だいたい、商人の息子のくせに、金勘定もできんのが悪い。使用人の息子の方がまだ筋がいい。ラクダほども働かん者に、食わせる飯などない……」

 少年は後ろから聞こえる声から逃げて、顔を伏せたまま足早に家から離れた。

 家の間からは、町に立ち寄った隊商キャラバンのラクダが顔を出した。

「おう、また泣いてるのか。」

 馴染みの酒商人の親父に声を、少年は無視して通り過ぎる。

「おいおい、愛想のないやつだな」

「ほっとけ。またヘマでもしたんだろ」

 隊商の集まる町の夜は、いつも喧騒が満ちている。夕方になると、次々と隊商の馬車が町に集まり、露店が開かれ、道には人が増え始める。定住する者は少なく、人とラクダと荷が行き来するだけの町だ。

 砂漠の真ん中にある、砂埃にまみれた白茶けた町並みは、同じような白けて四角い家がずっと並んでいる。砂漠に沈む強烈な夕日が、日干しレンガ町に差し込み、路地を通りかかるごとに少年の横顔を照らした。

 砂漠の真ん中に、隊商の集まるこの町があるのは、ここに オアシスがあるからだ。白く乾いた死の海の中で、唯一、草木の生える生の島の中心に泉がある。


 少年は、泉を囲むこの町の城にたどり着いた。小さなこの町で、水路の中心にあるのがこの城だ。日干しレンガと粘土でできた城は、泉番の男たちがいるだけで、風よけの外壁の内側は、小さな泉を囲む列柱廊の吹き抜けになっている。

 門番の前を通り過ぎる時、泉番の爺さんは、少年の顔を見て微笑み、何も言わずに通してくれた。

 草木の生える泉の列柱廊の外側を、さらに囲ういくつもの四角い部屋には見向きもせず、少年は一番奥の砂漠に面した庭にやって来た。

「あら、いけない子。またモモを盗んで来たのね」

「いいんだよ、あそこの婆さん、とっても意地悪だもの」

 声に混ざって、かすかに甘い匂いが、風に吹かれてやって来た。

「これ、メーデにあげる」

「しかたがないわね。お婆ちゃんに気がつかれないうちに、証拠を消してしまいましょうか」

 明るい声に誘われて、少年は庭に顔を出した。

 列柱で泉から離れた庭には、整えられた緑の草木と花の香り。屋根のついた、円形の水盤から流れる水音。そして、水盤の周りに置かれた石のテーブルには、子供達とこの泉の天使がいた。長くうねる髪を背中に垂らした娘は楽しげに微笑んだ。

リンゴにモモ

アンズにメロンにピスタチオ

甘い匂いに カラフルな色

私はどれも好き

あなたはどお?

「僕はクルミ」

「私はメロン」

 メーデの歌うような声に合わせて、子供達は口々に果物の名を口にする。その間に、五つのモモは皮を剥かれ、切り分けられた。

「……メーデ」

 庭のバラの影にいた少年が、ためらいがちに声をかけると、メーデは驚いたように振り返って、柔らかい笑みを浮かべた。

「そんなとこにいないで、こっちにいらっしゃい。一緒に食べましょ」

 メーデの周りには、いつも音と光とが溢れている。水しぶきと、子供とメーデの笑い声が、庭にキラキラ輝いた。


「また、お父さんと喧嘩したの?」

 すっかり日が暮れて、子供達が帰った後も、少年は石の椅子に膝を抱えて、メーデの隣に残っていた。

 少年の父は、この砂漠でも大きな隊商の隊長だった。この町で小さな隊商から商品を受け取り、また別の隊商に必要な分だけ分けている。今はいくつもの隊商から運ばれた油をこの町で下ろし、代わりに野菜や果物、織物などを空になった荷車に積んで帰すのが仕事だ。

 今日はその油の勘定が合わなかった。

「その場で油樽を見て、積む荷を決めているから。損はしてないはずなんだ。なのに、帳簿が合わなくて……。その帳簿つけてたのが、僕なんだ」

「そう」と相槌を打つメーデの柔らかい声に、少年はくすぐられたように、腹の底がむずむずした。

 列柱の間から、泉からのひんやりした風が吹き、メーデの細くて白い指が、ほわほわと頬をくすぐる巻き毛を耳に引っ掛けた。

 メーデの肌は大理石のように透き通った白い色をしている。この砂漠にずっといるのに、日にも焼けない、 オアシスの天使。赤い肌や、浅黒い肌の人々が行き交う、砂埃の町で、ここだけが美しい オアシスだった。

――メーデはなんで、ずっとここにいるの?

――行く所がないからよ

――どこから来たの?

――さあ、どこかしら

――なんで天使って呼ばれているの?

――ふふ、知らないわ。私、天使なんかじゃないもの。

 メーデはいつも笑っていて、けれど問いにはあまり答えてくれなかった。

***

 声をかけると、水盤の奥の小部屋から天使が顔を出した。本を読んでいたらしい。

「いらっしゃい、また来たの?」

 メーデは少し困ったような顔で、それでも笑顔を浮かべてくれ、本を小部屋前の、猫をかたどった椅子の上に置いて、青年を見上げた。夏の盛りで、太陽は白く眩しく、水盤はキラキラ光り、庭の大きな葉を揺らして緑の風が吹いた。

「今度はいつ出発かしら?」

「五日後。次は大きな取引なんだ」

 青年は説明しながら腕に抱えた麻袋から、果物や果実酒の壺を取り出した。壺は氷で冷やしていたらしく、びっちりと水滴が浮かんでいる。

「この果実酒はどうしたの?」

「今朝届いた荷が、氷を積んでたんだ。王様に届けるために、何十台の荷車に、山の上から氷をおろして運ぶ途中のね。その酒はさっきまで、その氷のそばに置いといたんだよ」

「氷?この砂漠では、溶けてしまうでしょ?」

「そう。だから初めから、何百人がかりで大量の氷を山から下ろして、何十台もの荷車に積む。筵を重ねて幌を立てて、夜のうちに運ぶんだ。日の出る日中は、町の建物で休む。

積み込むまでにも氷は溶けるし、時間が経てば溶けてくるでしょ?だから、溶けて小さくなった氷はどんどん積み替えて、最後には一台分の氷が、王様の所に着くんだ」

 青年は木の盃に冷えた果実酒を注ぐと、女の前に置いた。

「どうしたの?」

 切り分けたパンを差し出して、青年は女の面をじっと見つめた。青年が子供の頃から、年をとっていないような少女。盃に落とされた目元には、長いまつ毛が影を落としている。

これまで微笑みを絶やしたことのない少女の、盃の中の琥珀色に輝く液体を見つめる、冷たく張り詰めたような顔に、青年は驚くと同時に、なんとも言えないぞくりとした怖気が、背筋を走るのを感じた。

「メーデ?」

 一声かけて、青年は後悔した。それまで満々と湛えられ、水盤の縁で震える曲線を保っていた水面が、一滴の言葉で、流れ出す水流になったように、女の顔には笑みが戻り、明るく軽やかな少女に戻ってしまったからだ。

「冷たくて、美味しいわ。私、ここに来てから、夜明けの オアシスの水より冷たいものを飲むのは初めて」

 メーデはそう言って、いつものように笑った。

 その日の帰り際、青年は門の石段の最上に立って、町の大通りを見下ろした。庇の影の石段と、日向の大通りには、くっきりと線が引かれている。目の奥から頭を貫く、太陽の照り返しに、青年が呻くと、子供の頃から顔見知りの、門番の爺さんが笑った。

シワだらけの黒い顔に長い白髭。頭にはいつも頭巾を被る爺さんは、その腕では役に立たないだろう門番の棒を持って、いつも彫像のように石段に腰掛けている。

「こんな水しかない所に、毎日やって来るから、暑い砂漠に出れなくなるんだわい」

 爺さんが笑うと、歯の数本欠けた、黒い隙間が見える。不快に眉を寄せた青年に、爺さんはそっと目を向けた。

「あの娘には、あまり近づかぬ方がいい。あれは、この オアシスの天使だ。人の手には入らぬ娘だ」

 机に叩きつけた帳簿で燭台の灯りが揺れ、注文書がびっちりと貼り付けられた壁に、巨大な人影が伸び上がった。机にも書棚にも、崩れそうになりながら、溢れるほどの書付が堆く積まれ、所々から紙片が舌を出していた。

 悪態をつきながら、帳簿を投げ出した隊商の主人に、婦人はため息をついた。

「火があるんですよ、気をつけてくださいな」

「全く、どうにも金回りが悪い。人手がかかりすぎなんだ」

「あなたのお薬にお金がかかるんですよ。そろそろ息子に仕事を任せて、隠居なさったら?」

「ええい、黙っていろ。お前がどんどんと、その指の物を買い込むからだ。俺たちは王族じゃないんだぞ」

 指輪をためつすがめつしていた婦人は、すっと目を細めて箱を閉めた。

「息子に譲るにも、長男はいい。だが、末のはダメだ。見習いの仕事すら満足にできん。番頭にするなら、ビケに任せたいところだが」

「任せればいいじゃないですか」

「人手が多いんだ。誰か削らんといかんのだ」

 婦人はふーっと鼻から息を吐き出した。

「なら、あの子には別の隊商に行ってもらったらどうです?ここは、長男が継げばいいんです。どこでもやっていることでしょ?ビケだって、そうしてうちにきたんじゃないですか」

「それができれば苦労せん!奴が仕事できないのは、ここらの隊商は皆知っているんだぞ」

「あなたが、人目もはばからず怒鳴ってばかりいたからでしょうに」

 眉を寄せた主人を、婦人は腰に手を当て見下ろした。

「あなたは、こういう時に怒鳴ることしかできないのですね。情が先に立って、人を切ることができないから、こんなことになるんです」

 父と母の罵り合う声に、青年は戸口から身体を離し、気配を消すように階段を降りた。

 青年は、この家で息をするにも神経を使わねばならない。まるで猫になったようだ、と青年は階段を降りながら、声も出さずに笑った。

 青年はどうも、親とも家業ともうまくいかない。努力はしたが、いつまでも、父の期待に応えることはできなかった。ビケが息子だったら良かったろうに。青年は年の近いこの使用人を見るたび、本気でそう思い、両親もまた、それと近いことを望んでいるとわかっていた。

 面倒見のいい父の仲間は「お前は魂がふわふわ浮かんでいるのだ。ビケや兄貴のように、しっかりこの地に足をつけろ。でないと砂漠で生きていかれんぞ」と言っていたが、その通りだ、と青年は思う。町を一歩出れば、そこには乾いた死が待ち構えている。骨とサソリが転がる砂漠では、兄たちのように、現実を踏みしめる強さがなければ生きていかれない。だが青年にはその強さがなかった。砂漠は辛く、苦しみに満ちた場所であり、この家にも砂漠の砂は吹き込んでいる。砂に埋れていく町で、青年にとっては オアシスだけが、砂漠を忘れられる場所だった。



「メーデ、君はなんで、天使なんて呼ばれているの?」

 夕方になり、茜の日が庭の壁の上端を照らしている。子供達の帰った後、テーブルを拭いていた娘は、くすくすと笑った。

「私、天使なんか知らないわ。見たことないもの」

「でも、みんな言ってる。メーデは天使だって。この城にいるのはなぜ?」

 メーデは働かない。少なくとも青年はその姿を見たことがなかった。子供達の相手をし、そして夜には、この庭の奥の小部屋にある、大きな窓の窓台に腰掛け砂漠を眺めるのだ。

 それはきっと、青年しか知らないメーデの姿だ。夕方になっても、家に帰れなかった少年が、ある夜ふと見かけた姿だった。窓台から重たげに裾を垂らし、砂漠を見つめるメーデの肩は寒そうで、青年は何度も駆け寄って温めてやりたいと思った。けれど、そうした時のメーデには、近づきがたい寂しさがあり、青年は小部屋の入り口に立ちすくんで、その美しい女を眺めることしかできなかった。


「私は、拾ってもらったのよ。ずーと、ずーと大昔、砂漠の真ん中で。この町に来る隊商の人たちに。初めは言葉も分からなくて、それで困って、ここに置かれたの。ここの泉の番をして、時々、やって来る隊商の人たちから食べ物をもらって。そうしているうちに、このお城の天使になったみたい」

「それ、おとぎ話?」

「そう。今作ったの」

 少女は笑って布巾 ふきんを洗うと、水盤上に渡された紐に干した。細かな色タイルで幾何学模様が描かれた、水盤に架かる丸屋根は、六本の柱で支えられ、メーデはそこに紐を渡していた。

「ねぇ、天使ってどんなものなの?」

 メーデが椅子に座ると、たっぷりした裾にひだができた。

「僕の知っている天使はそらの上で、神様に仕えているんだ。その背中には翼が生えていて、神の御使として、天から人の元に降りて来ることもある。悪や悪魔に対峙する、善と神の側の聖なる存在」

「それで私を天使だと言うの?やっぱり、おかしいわ。私、翼など持っていないもの。それに、あなたの言う通りなら、私は悪魔の方よ。私は、神様に嫌われているもの」

「神が、メーデを嫌うもんか。……だって、こんなにも美しい。全ての美は神によって愛されるんだ。……って、どこかの本で読んだよ」

 真っ赤になった青年を、メーデの明るい笑い声が包み込んだ。

「それは光栄ね。でも、ダメ。あなたに私が美しく見えているなら、それは悪魔にもらった美しさだわ。きっとお目にかかれば、神様は私を嫌うでしょう」

 メーデはふーっと息を吐きながら、石のテーブルに頬杖をついた。白く細く指が、滑らかな頬に添えられる。伏せられた長いまつ毛を見つめていると、薄く茶色い瞳がこちらを見ていることに気がついて、青年はうろたえた。茶色の目はすっとそらされた。

「でも、そうね。私は、天におられる方にお仕えしているの。その意味では、天使と同じかもしれないわね」

「……それは?その、方って?」

「私のあるじよ」

 それだけ言うと、メーデはまた、ふっと笑みを浮かべた。

 ――メーデのあるじ、主

 側で鐘を打ち鳴らされたように、その言葉が頭に反響した。夜の砂漠に見つめるメーデ。その先。あの儚げな肩の、首筋の、目の見る先が、急にはっきりと、わかってしまった。

 女は待っているのだ。ずっと、この砂漠の真ん中で。


続きがあります。
https://note.com/haru_to_naru358/n/na29ed1c66775
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