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オアシス−2/そこにいたのは、一人の戦士だった


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 ある出立の前夜。隊商の借りていた建物が火事になった。隊商の主人が、席を離れたすきに、積み上げていた紙の束が崩れ、燭台を倒したのだ。

 四角の窓から、燃え残った紙片が火の粉と灰に混じって舞っている。

 隊商の主人である父は、呆然とそれを見つめ、そして狂ったように喚きだした。貸し付けた金の証書に、様々な契約書類、隊商の通行手形、仕事で必要なものも、築き上げたものも全てが灰になろうとしている。悲鳴のような母の鳴き声や、罵り怒鳴る父の声を聞くうちに、荷車とラクダを逃がしていた青年の頭は、すっかり麻痺してしまった。

家が、家が燃えていく!僕を苛む家がなくなるんだ!
祭のように、炎が舞う。炎は青年に近づくとニヤリと笑って火を吹いた。途端、歓喜の炎は燃え尽き、灰を残して黒々とした不安が、青年をおし包んだ。集まる野次馬をかき分け、青年はよろめきながら家を離れた。

 青年は泉の城にまろびこんだ。夜中には閉まる門が、この夜は、火事の知らせを受け、門番たちが飛び出した後だった。大門の脇の小さな扉をくぐり、青年は泉の最奥、庭の小部屋に駆け込んだ。

「メーデ!家が無くなった」

 大人の背丈ほどもある、大きな窓は石の柱に囲われ、壁と同じ厚みのある窓台は、磨かれた石の延べ板でできている。腰丈のその窓台に腰掛けて、何もない南の砂漠を見ていた女は、青年の大声に緩慢に振り向いた。表の騒ぎが耳に入っていないのか、侵入者に対して明らかに不快な顔をした女に、青年はひざまづいてその裾にすがった。

「燃えたんだ。僕の家が。もう、ここには居られなくなる」

 女はますます怪訝そうな顔をした。

「頼むよメーデ、僕と一緒に来ておくれ!僕らの隊商はここから離れるんだ。きっともう、帰っては来られない。だから、ね、一緒に来ておくれ!」

 まくし立てた青年の言葉を聞いて、女はようやく目の前の男がわかったように、表情を変えた。一瞬女の顔によぎった、慈愛に満ちた少女の面影に、青年は幸福な予感を感じたが、女が不意に顔を砂漠の方に背けたことで、その希望は瞬時に打ち砕かれた。

「無理よ。私はここにいる」

 それは、メーデの口を借りて別の女が話しているようだった。笑顔も歌うような調べもなく、突き放すような冷たい口調に、青年はなおも取りすがった。

「どうして?君にはここにいる理由なんてないだろう。僕は、君を愛しているんだ!」

 女は応えず、表情も動かさずに砂漠を見つめた。青年では手の届かない、大人の表情をした女に、唐突に悪意が湧いた。

「君のあるじは、君のことを迎えには来てくれないじゃないか?」

 女は振り返ると、驚愕に彩られた目で青年を見返した。大人のようだった表情が、急に頼りない少女の顔に戻って、青年の心は疼いた。

「君はいつもそうやって、砂漠を見ているが、君の愛した人はやって来ない。こうして窓辺にいる君は寂しげで寒そうだ。僕はずっと、君の肩を抱いて温めてやれたらと思っていた」

 サッと表情をこわばらせた少女に、青年は後悔とわずかな欲望を感じた。

「メーデ、君は言ったじゃないか。主が天にいる、私は天におられる方にお仕えしているって。天にいる主は、もう、地上の君の元には来られない。君は翼をなくしてしまったんだ」

「違う!違うわ!」

 少女の目が、急激に生気を取り戻したように輝いた。メーデは裾に掴まる青年の手を振り払うと、窓台の上に立ち上がった。

「帰りなさい。私はあなたについて行くことはないわ」

 怒りのこもった目で、断固とした口調で言われて、青年は驚いた。メーデが、こんな振る舞いをするとは、想像だにしていなかったのだ。同時に、青年の胸を強烈な欲望がつきあがった。この娘を手に入れたい。天に結び付けられた天使から、最後の羽をも毟り取って、地上に引きずり下ろしたい。こんな気持ちは、青年自身も驚くもので、娘の腕に手を伸ばし、その柔らかな唇を奪う時でさえ、頭の片隅では、「自分は火事のせいで動転しているのだ」という考えが離れなかった。

 しかし、その細く頼りない肢体を腕に抱いたのは、ほんの一瞬で、気がついたときには、青年は窓台から離れた、小部屋の入り口近くに突き飛ばされていた。少女のあの、細く儚げな身体の、どこにそんな力があるのか。身に起こったことがわからず、呆然としていた青年は、窓台に寄りかかった少女を見て、打たれたように身を固くした。

メーデはもはや、少女でも娘でもなかった。そこにいたのは、一人の戦士だった。青年はその苛烈な目に引きつけられ、目をそらすことも逃げ出すことも叶わなかった。

メーデが腕を振った時、彼女が何か言ったかさえ、青年にはわからない。青年はただ、逃げるように、城を後にすると、燃え尽きつつある家に帰って行った。

 暑い日だった。太陽が照りつけ、砂の白さが目に染みて、頭がクラクラする。ラクダの手綱を引きながら、青年は汗を拭った。

 荷車は三台。それぞれの車を二頭のラクダが引き、先頭の荷台には父が乗り、ビケがラクダを引く。真ん中には兄と父の部下が、最後には母が乗り、青年がラクダを引いていた。

 その周りを、隊商仲間が三人、槍を片手にラクダに跨っている。

 父は完全に焼け落ちた書斎を見て回ると、雇うことになっていた護衛士を全て解雇し、代わりに空いたラクダに、仲間を乗せ槍を持たせた。砂漠を行く隊商は、積荷を狙う盗賊に備え、必ず腕の立つ護衛士を雇うものだ。それをせず、仲間と荷だけを持って行くのは、父のようなベテランの商人にはありえないことだ。

 青年はぼうっとした頭でそんなことを考えた。昨夜以来、頭が上手く回らない。砂を踏みしめながら、全てがどうでもいいことに思え、父の仲間たちが平生としていることも、青年の目には見えていなかった。

午が過ぎた時だ。砂の丘の向こうから、笛が鳴り響いた。隊商がどよめいたときには、丘を超えて、ラクダを駆った盗賊たちの一軍が、姿を表していた。

それは怒涛の出来事だった。荷馬車を預かる父や兄、母たちは盗賊が現れるや、ラクダに鞭を入れた。全力で逃げる隊商を、両脇から現れた盗賊は、距離を狭めながら追いかける。

「荷を捨てなさい!重いものからよ」

なんとか置いて行かれずに、荷台によじ登った青年は、母の言葉に訳もわからぬまま、重い油樽を落とした。荷車が少し速くなり、盗賊は少し遅くなった。先頭の荷車からも、積荷が落とされ、盗賊たちは収穫物を確かめに、少しづつ立ち止まった。

 最後の盗賊が立ち止まり引き返した時だ。青年は背中に掌が押し付けられるのを感じた。次の瞬間には、青年はなぜか、走り去る荷車と指輪が光るのを見ていた。

 焼けた砂の上で、青年はしばらく身動きできずにじっとし、次どうするかを考えた。

 あちこち擦りむけて痛む身体で、青年は轍をたどって戻り始めた。重い足を引きずりながら、かなりの時間をかけて戻ると、盗賊たちに踏み荒らされた砂地と、砕けたりんごが落ちていた。青年はその場を歩き回り、砂の丘の向こうに、一つ残った油樽を見つけた。

 たとえ父たちが、配達の仕事を放り出し、積荷を自由に売りさばこうと思っているにしても、このひと樽は、大切な商品に違いない。護衛士を雇わない代わりに、捨て荷をするつもりだったのなら、捨て荷が一つ減るのはいいことだ。

 樽に拾った縄をかけると、なんとか背負うことができた。青年は樽を担いで次の町に向け、歩き始めた。

 日差しは照りつけ、青年から汗と共に、力も気力も搾り取っていく。どこまでも続く砂漠に、早々に前を向くことを諦めていた青年は、足元の砂に染み込む汗を、もったいない、と思いながら足を運んだ。日が暮れる頃には、青年の喉は乾きに飢え、縄の食い込む肩は悲鳴を上げていた。それでも、まだ町は見えない。

 青年は絶望的な気分で、足を動かしていた。

(水、水が欲しい!この喉を潤す水が。この乾いた砂漠の中で、水が、オアシスがなければ生きていかれない!)

 青年の心は、天使のいる泉に引き戻されていった。

 メーデに会いたい。会って謝らなければ。――そして、泉で喉を潤すのだ。

 終わりの見えない時間が過ぎた。重い樽にふらつき、足を砂に取られ、ギシギシと軋む縄が肩を噛む。何度も投げ出しそうになりながら、足を運ぶうちに、青年は夜更けの町にたどり着いた。

 泉番の詰め所を叩くと、眠そうな親父が出てきた。名前と隊商を告げると、男はパラパラと帳簿をめくった。

「ああ、あったよ。お前の言う隊商だ。だが、金は人数分しかもらってないぜ」

 泉のある町では、町に入るとラクダと人の人数分、金を払うことになっていた。水路と泉の管理にかかる費用だ。それを払わなければ、水は使えない。

 そんなはずはない、と食い下がる青年に、男はすまなそうに言った。

「それに、悪いがこの隊商、ついさっき出ていったぜ。まだ夜も開けないっていうのにな」

男の言葉を聞いた途端、ピーンと糸を張ったように、音が消えた。やはり、という思いはずっとどこかにあったから、それほど悲しくはなかった。青年は笑った。自分はどうやら捨てられたようだと気がつくと、おかしくてたまらず、青年は男の足元にうずくまった。

その夜は男から水をもらい、翌日店が開くと油を売って、金を払った。残った小銭を持って、青年は元いた町に歩いて帰った。けれど、この町には青年を待つ家も、人もいなかった。

***

女は旅をしていた。いく先々で、廃墟となった町を見た。まだ人の住む街でも、泉は枯れはじめ、砂によって消されていこうとしている。夜空と砂の間にその町を見つけた時も、その人気ひとけのなさにここも死んでいるのではないかと思った。

近づくと、泉を囲う城で、一人の老人が砂を掻き出しているところだった。腰が曲がってはいたが日に焼け、シミとしわだらけの身体は、その労働のせいか筋肉が残っている。

「あの、すみません。この泉はまだ、生きているでしょうか?」

 風と砂よけの布を取りながら、女は聞いた。

「どこも、泉が枯れているのです。廃墟になった町には、卒塔婆クロスがたくさん立っていて……。人がそれだけ、死んだのでしょうか?」

 そう問いかけながら、月に照らされた砂漠から、目を転ずると老人は口を震わせていた。

「メーデ、よく帰って来てくれました……!」

 女はしばしば怪訝そうに老人を見つめたが、その男に昔知り合った、少年と青年の面影を見ると、目を見開いた。メーデの表情を見て、老人は女の足元にひれ伏した。

「ああ、あれから何も変わらない。あなたはやはり天使だった。謝りたかったのです。ずっと。ここで一人、泉番をしながら、あなたをお待ちしていました」

 初めは驚いているようだった女は、少しすると暗い表情で老人を見下ろした。

「ああ、なんとういうことを。あなたは悪魔のために、その命を無駄にしてしまったのね」

「いいえ、私にとっては、あなたは砂漠の中の唯一の泉だったのです」

 即座に顔を上げた老人を、女はじっと見つめた。静けさをたたえた戦士の目に、様々な感情が浮かび、せめぎあった。審判を待つような思いで、老人は女を見上げた。風が吹いた。メーデはそっと手を伸ばすと、老人の頬に触れた。

「ならば、もっと早く帰ってくればよかったですね」

 

 女は老人に寄り添って、枯れていく泉のほとりに暮らした。老人が女の腕の中で死に、泉が枯れると、女は姿を消した。泉であった砂漠には、卒塔婆クロスが一本残された。


最後まで読んでいただいてありがとうございます。
はじめまして、ハルノキです。
この「オアシス」は二年以上前に書いたもので、最後に急にファンタジー度が上がる終わり方は当時も今も悩みどころです。

TwitterもInstagramもTikTokもやっていないため、インターネット上でフォローされるという経験がありません。フォローしていただけると大変喜びます。
よろしくお願いします。

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