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「他者によるコントロール」がもたらすもの

こんにちは、りょーさんです。
現在、「自己決定」がこのノートの主要テーマになってきていますね。
前回の、ゆこさんの「自己決定に必要なもの…」で書いてあった、「自己決定は元気な時に!」っていうの良いですよね、本質をついています。

前回の、僕の書いた「自己決定について」はこちら。

それを受けて、今回は、「自己決定的ではない状態」をテーマにします。。
大人、特に親にとっては、耳の痛い話になってしまいますが、それでも読んでじっくり考えていただけると嬉しいです。

他人にコントロールされることとは?

自己決定的ではない状態とは?
とりあえず、本来は自分が取り組むべきこと、自分が考えるべきことのさまざまに対して、「自分ではない誰かにコントロールされている状態」ってことにしてみます。

さらに話をわかりやすくするために
親に勉強のことについてコントロールされている状態」を考えてみます。

勉強についてコントロールされるってなんでしょう?
たとえば、こんなことです。
「勉強しなさい!」「塾行きなさい!」っていうことを口うるさく言われる。
塾行くことを勝手に決められる。
勉強内容を細々と命令され、チェックされる。
・勉強するたびに「やり方」を細々指示される。
苦手なことや先々躓くであろうところを推測されて、そこをチクチク言われる。たとえば、「あんたこれがきっとできなくなるだろうから」って言われてその対策をやらされる。
点数をとっていたり、勉強やっていれば、褒められる。またはグチグチ言われない。もちろんそうでなければグチグチ言われる。
勉強できないこと、しないことに対して人格否定をされる。あるいは不安を煽られる。「こんなこともできないの?」とか「〇〇できないと将来就職できないよ」
あらゆることに「勉強」と結び付けられる。「〇〇したいんだったら勉強しないとね!」「ユーチューバーになりたいんだったら、いろいろ知識必要だよね!」

日常的にこんな状態だとしたら、「勉強についてコントロールされている」って考えていいかと思います。

多かれ少なかれ、多くの親はこれをやります。
塾の先生として、あるいは父親としての僕もそういう時期がだいぶありました(反省)。
上記を一概に否定するつもりもありません。
そうしないといけない時もあるかもしれません。
が、原則としては、やっぱりこれはあまり良くないなーって思います。

なぜでしょう??

遊ぶがなぜ楽しいか?っていうと自己コントロール感があるからだと思います。ゲームでもなんでも、「できるようになる」「達成できる」「負ける時もあるけど勝つこともできる」っていう、自分次第でコントロール可能っていう感覚があるから、「自分のこと」として楽しみまくれるんだなーって思います。

「自分のこと」として考えられなくなる

人は自分でコントロールできることについて、主体的に考え、動機付けることができる。逆にいうと、誰かのコントロールの下にあれば、動機は失われやすく、もっと言うとその事柄が「自分のこと」ではなくなっていきます。

勉強が親のコントロール下にあると、勉強自体が自分の課題ではなく、親の課題になっていきます。
「それはお母さんが決めたことだから」
「お母さんがそれをやれって言うから」
「やらないと親に怒られる」

と主語が自分ではなく「親」になっていくのです。
勉強の内容を決めるのも、するかしないかを決めるのも、どんな成績を目指すのかも「親」になっていくのです。

その先にあるものは?
勉強よりも大きなこと(たとえば、進学)についても自分のことではなくなっていく、なんてこともあるし、勉強に対する強い嫌悪感や親への反抗、あるいは静かな反抗につながっていくのです。
以下、静かな反抗について、よくある事例です。

大人は長く生きている分、子供にレールを敷いてあげたくなります。ある程度は当然のことです。でも本当にこのレールだけなのでしょうか?レールから外れてもOKって視点があっても良いし、もっとたくさんのレールがあり得える。そんな視点で「乗り換え可能」なレールがたくさんあればいいなーって思います。

静かな反抗、高校進学におけるよくある事例

親は勉強にいちいちガミガミとチェックをしてきたのです。
そんな親が行ってほしい偏差値の高校があるとします。A高校。
親は「A高校くらいは目指しなさい!」
って言います。
そのために塾に行くのも、目指す成績も親がある程度決める。

本人に聴いても表面的には「A高校に行きたい」と言うんです。
その言葉を聞いて、大人は「頑張らないとならないね、頑張ろう」とハッパをかけます。
でも、塾では本気出しているようには全く見えない。
塾ではソツなくこなして、家でもなんとなーく机に向かっているように見える。
でも、成績が全然伸びない。
点数が悪くてもあまり気にしているように見えない。

親は「A高校行きたいって本人は言っている。でもやらない!!」「口ばっかりだ!!」と憤る。
そして、さらにコントロールが入る。
「やりなさい!」「やったの?」「本当にやっているの??」
あげくは、部屋を覗きだしたりして。
口うるさく言えば、机に向かってまたやり始める。
親は言います。「言わないとやらない」

で、本人、やっぱり表面上は「A高校行きたいです」と言う。
でもあきらかにそのための努力も成績も足りない。
そして受験の時期が近づく。そしてタイムオーバー。
どう足掻いてもA高校は目指せない時期がやってきます。

親は今度はこう言います。
「A高校がダメなら(その1ランク下の)B高校を目指して欲しい」と言う。「そのための頑張って欲しい」と。
本人も「あらためてB高校目指して頑張る」って言う。
でもやっぱり成績は足りないし、頑張っているふうには見えない。

そして、最終的に、親が全く望まない、C高校に進学する。

濃淡はあれど、僕は、こういう事例を多く見てきた気がして思います。

問題は、静かな反抗だけでない、、、

このようなよくある事例をパターン化すると、
①親(大人)が本人の意向を無視(あるいは本人が決めたかのように誘導)
②本人はそれに従う(フリをする)
③でも行動や結果に現れない
④親はさらにコントロールかけようとする
⑤本人はさらに従う(フリをする)
⑥タイムオーバー。親が望まない、そして本人がある意味望んだ結果がやってくる。

って感じです。

僕はこういうのを「静かな反抗」だな、って思います。

そして、パターンとしては「静かな反抗」だけでないです。
他者のコントールによっていろいろ「うまくいってしまう」と、とらさんが今事例として出している学生さんのような感じになる場合があります。
「命令に従う方が楽」っていう…。

他者のコントロールに対して一時的にでもうまくいってしまう、、、っていう事例は、「問題の先延ばし」になっている可能性があります。
そして、そこに発達凸凹の問題も絡んできます。
これは次回、書いていきたいと思っています。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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