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過保護と放置の間をずっと探してる

ぼくは君のからだ

君はとっても心配してくれるけど

ときどき悲しくなるときがあるんだ

いや、

気にかけてくれること自体は嬉しいんだ

だって、昔は僕をずっと無視していたでしょ

どんなに痛いっていっても 真面目にとりあってくれなかったから

寂しかった

だから今僕のことをしっかり見てくれることは

とっても嬉しいんだ

でも、ときどき悲しくなる

君は心配してくれるけど

僕の話をちゃんと聞いてくれてる?

僕の声、聴こうとしてくれてる?

どうして先々決めようとするの?

ぼく、まだ返事してないのに。

それに、できない認定も実は悲しいんだ

確かに今の僕はまだ未熟で体力もないかもしれないけど

〜がないって決めつけないで。

今、がんばってる途中なんだ。

だから、もしよかったら

見守ってほしいんだ

いつもぼくと一緒にいてくれてありがとう。




この前、鍼の先生から
「(本名)さんは今からだに対して過保護になっているかもしれないね」
そう言われて、ハッとしました。

わたしは去年からからだの左右差や歪みと向き合っているのですが、
そこでこの言葉に出会いました。

たしかに、思い当たることはたくさんあります。

ただただ心配しすぎて、自分目線の知識だけで分析してしまったり、
からだの反応を待つ前に、いろいろなことを始めてしまったり、

今思うと気にかけてるわりには、
からだのことちゃんと見てなかったような気がします。


過保護と放置のあいだ


今回はからださん視点で書いてみたんですが、
実はこれは小さな頃の母に対する気持ちでもあります。
そして
生徒に対しての昔の自分への反省の意味もあります。
(人に関することは過保護メインになりますが)

過保護と放置のあいだって難しいなと思います。

それはどんな対象、出来事であっても。

おそらく正解はないし、人、出来事によっても違うし、
それはずっと試行錯誤し続けるんだろうなと思います。

「見守り」ということばが適切かはわからないけれど
今のわたしにはそのことばが
過保護と放置のあいだで
手をつないでくれているような気がします。

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