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ベジタリアンが肉を食べた話と他あれこれ

わたしは緩くベジタリアンです。無精卵と少量の魚を時々食べます。鶏肉は体調と気分で。稀にいただきます。

以前は出汁とか味付けにビーフ、ポーク、チキンなどの表記があるものも避けていたのですが、色々あって食生活全般緩くなりました。全般、というのは小麦と砂糖、乳製品も避けていたからで。今も砂糖は最小限、牛乳はクリームやチーズの形で稀に摂取する程度です。

そんなわたしがお肉を口にしていたのは娘がご飯を作ってくれるとき。上の子は母の日、誕生日や結婚記念日などというときご飯をよく作ってくれます。進学して学業が忙しくなる前は妹と企画して1日限りのバイキングレストランを何度か開いて、余興を用意してくれたりしていました(小学生の頃の話です)。

そういう時、なるべくわたしが食べられるメニューを考えてくれるのですが、自分と他の家族も楽しめるように「鶏肉なら食べれる?」と聞いた上で料理を作ってくれるのです。

そして娘が料理してくれたチキンは臭いも無くて、嫌な感じがしなくて安心して食べられるのです。シンプルに言えば美味しい。
娘が料理してくれるんなら当たり前でしょって言われちゃうかもしれませんが。言うなら鶏が幸せなんだなぁ、癒されたかなっていう感じがします。夫(元調理師)の時は・・・ことお肉に関していえば娘の時とちょっと違うっていうか普通に思うけれど気のせいなのかな?

大須の有名な唐揚げ屋さんの鶏肉を子どもが買っていて味見したことがありますが、売れているお店でもそんな幸せな感じではないのです。つまり多分ですが鮮度による臭いではないものをわたしは感じているということです。

そんなこんなでちょっとお肉を食べることに興味を持ったわけです。

哺乳類の食物連鎖の頂点に立ちたくない、という選択の結果肉を食べないことも、動物が最後の瞬間の恐怖によって放出する物質を間接的に摂取したくないということも自分にはあるのですが、既に殺されてしまった生き物が無駄にその身を朽ちさせていくという選択に少し迷いが起きました。

自分はそのサイクルの外に身を置きたいと思うけれど、家族は食べることを選択しているので料理には携わることになります。だったらその命をできる限り祝福してあげたい、とも思うようになりました。

「美味しく食べて欲しい」という気持ちが美味しい料理のための1番の味付けだとは思うけれど、命を捧げてくれた生き物に対して心を尽くしたいと思いました。

それで…ある日のことですが突然思いつきでヒーリングをすることにしました。対象は料理前の鶏むね肉です。
馬鹿げているかもしれないのですが、その思いつきに逆らうことができなくてインスピレーションのままに決行しました。

その時は蒸し鶏のようなものを作ろうとしていたのですが、お酒をかけて清めた後、味付けと前処理で塩と砂糖を溶いた水に鶏の胸肉を浸して、その状態でヒーリングしました。

途中下の娘がやってきました。

「…何してんの?」
「んー、ヒーリング」

笑われました。オーラもみえて私の奇行にも動じない娘ですが流石に生き物としての全体性すら失われたただの部位にヒーリングしている姿は不思議に映ったようです。
自分でも何やってんだろうなーって思いましたが、気が済むまでやりました。

その日は家族の都合で別のメニューになって、鶏は翌日か翌々日か遅ればせな登場になってしまいました。実を言うと値引きで購入したなるべく早い消費が求められる状態だったのですが…(夫は元の職業柄脳で下痢を起こす人なので賞味期限情報は無駄に知らせないことにしています)

で、結果はどうだったかというと・・・
普通にヤバそうだったので流石に心配したのですが・・・
とっても柔らかくて全く臭みのないお料理になって、家族にも大好評でした!

自分で最初食べてみて信じられなかったぐらいです。
料理前はいつも肉類は臭すぎて触るのも嫌なぐらいなのに。スーパーのお肉コーナーも近寄らないようにしているぐらいなのに。

半信半疑でやってみてよかったと心から思いました。

今から思うと、なるほどなことがあります。
ヒーリングのエネルギーは時計的な時間の流れ方には支配されていないのです。変な表現しかできませんが、過去に向かってヒーリングのエネルギーを送ることが可能なのですね。
もしかしたら鶏さんの恐怖や怒りがちょっと癒されたのかなぁって思いました。

今日お客さまにヒーリングの説明をする機会があったせいか、ふとこの出来事を思い出しました。

思えばそれから一度も鶏肉料理を作っていないです。1ヶ月以上になるかも?夫がせっせと釣ってきた魚を連日のように料理していたのと、わたしの仕事の状況が完全自営に変わって忙しかったせいかもしれません。

食の思い出は時に人の力の源になったり命を繋ぐものになったりします。わたしの命との向き合い方は変わっているかもしれないけれど、それで命が癒されるなら、生きているものへ愛を伝える力に変わるのなら、この方法で「死んでくれた」命を家族へのバトンとして繋ぎたいと、そう思うのです。

* * * * * * *

谷川俊太郎さんの絵本「しんでくれた」をお読みになった方はいらっしゃるでしょうか。
わたしは読み聞かせのボランティアをしていた時、題材となる本を探していて偶然出会いました。ギョッとするタイトルですが、こども目線のシンプルな言葉で命への感謝を綴ってある本です。妙に生命力のあることばの表現とその陰でいのちを捧げてくれている「死」があるという事実とのギャップが異様な違和感がありつつも、深く感じ入って何度か読み返した記憶があります。

ことばの表現は易しくても、低学年・中学年には伝わりにくい本かもしれません。
大きくなってから読ませてもまたいいかもしれない、と思いました。ペットとの暮らし、祖母や親戚の死を通じて命のサイクルが身近になった今の方が届く言葉というものもあるかもしれません。

お写真Tome館長さまからお借りしました。
何度かお世話になっております。いつも素敵なお写真を使わせていただいてありがとうございます。

ありがとうございます╰(*´︶`*)╯♡ お預かりしたエネルギーが人と地球のために廻っていくよう活動します!