好きなことばかりやるのは悪いことか~そこに誰の許可がいるの?
最初独り語りして最後にいいたいことを伝えるパターンの文です。
なんかね、いいたいことだけ伝わるならいいや!と思ったので気が向いたらスクロールして最後の方から辿ってください。
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時々音楽が降りてくることがある。
頭の中で鳴り響くそれをこの3次元の空気を振るわせて奏でたくて夢中になっていたことがる。
でも音楽を学んでなくて絶対音感も持たないわたしにはしっぽを捉まえるのがせいぜいで、時間の経過とともに手垢や埃が付いたように到底似ても似つかないものになってしまうのが常だった。
「音楽はやっても食べていけない」と父に一刀両断され、ピアノを習わせてもらえなかった過去をずっと恨んでいた。
なによりもバイオリンの音色が好きで、高校合格を機に貯金に少し母の援助を貰って金沢まで出かけてバイオリンを買った。
母が探してくれた先生は神社の神主さんで年末に境内でコンサートを催したりしていた。教わるというよりいきなり小さなプライベートな楽団に入れてもらった形だ。
大人ばかりの場所。20人足らずのメンバーの中には中学の時の音楽の先生もいてコントラバスを弾いていた。
わたしはまずは小さな目標としてユーモレスクとか愛の挨拶なんかを気軽に弾いて楽しめるようになりたかったのだけれど、いきなりモーツァルトの交響曲第39番なんかを第2バイオリンの一員(といっても2人のうちの1人)として弾くことになった。
バイオリンを始めてからそれまで1年か1年以上あったのか記憶が定かではない。
そのときのわたしは楽譜が読めなかった。
少なくともスラスラではないし、初見で弾くなどとんでもない。
相対音感があったので聴いた曲をさほど苦なくは弾ける程度だった。
大人のおじさんばかりで、今から思えばセクハラもあったような、とにかく重圧を感じる場所で音を楽しめる空間ではなかった。
憧れの音楽を愛する人たちの集う場だったはずなのに。
できない言い訳がやりたい意欲より勝ってしまった。
わたしはあんなにやりたかったバイオリンを自分でやる機会を手にしたのに、その道から降りてしまった。
大学受験を理由にした気がする。
今でもバカだったなぁと、思う。
今でもこんなにバイオリンが好きなのに。弾かなくなったバイオリンをずっと持ち続けているというのに。
開きすぎた距離を埋める努力をする、そんな熱情を失ってしまった。
なんか男女の関係のようだ、と書きながら思う。
そんな色めいたことに縁はないのに他のことでそんなニュアンスが生まれるなんて、わたしの道はやっぱり探究と表現の方にあるのだなぁとつくづく思う。
バイオリンを弾かなくなってもわたしの生活にずっと音楽はあって。
それは大多数が聴く音楽ではなかったりもしたけれど、わたしを励まし、支え、いのちを繋いでくれた。
音楽・・・というより、音、声。
それを使って仕事をしたい。仕事じゃなくて音や声で遊びたい。なにかしたい、という願いにも満たない想いみたいなものが小さなころからあって、それは劣等感に押しやられながらも消え去ることはなかった。
こんな時代になって、わたし自身も変わって、自分に許可が出せるようになってきている。
表現したい形を少しずつ模索していたら、今日久しぶりに音楽が降りてきた。
慌てて声に出して音を確認して、その音を確かめにピアノに駆け寄った。
単音だから音は拾えた。
集中力が少しは上がったのも助けになったのかもしれない。声で音を確認するとき1回でその音に当たらないと耳からの自分の声で頭の中が急速に靄がかかったようになっていく。本当の音を見失う。
わたしにとってその作業は音の香りを留めようとするような感覚に近いのだ。
今日は間に合った。
でも楽譜に起こせなくて、とっさに近くにいたピアノをやっている娘を捉まえた。
娘の手を借りて、初めてわたしの中の音が3次元の座標に収まった。
今までも子どものときに書いたものなどあるのだけれど、音符の表記があってるか怪しいし、速さもわからない。しかも音楽の断片。
もとの姿を掴む手掛かりには到底なりそうもない音の残骸みたいな稚拙なものしか書き留められなかった。
変性意識のときに書いた走り書きなどは文章でもなにを言っているのかわからないどころか、書いた記憶さえ怪しくなるようなものがたくさんある。
そのときはクリアに理解できているというのに、だ。
いわんや、音楽をや。
だから楽譜という形で住所ができたわたしの音楽を見るのは感慨深かった。
そして思った。
こういうことは、やっぱりもっと苦も無くスラスラできちゃう人の仕事なんだろうな、と。
そういう人たちのやるべき仕事なんだ。
わたしは人の手を借りて、それでもやっとこれだけ。
そんなようではやっていけないと。
でも同時ぐらいにわたしは聴いていた。
もう一つの声を。
「だからといって、やってはいけないという理由にはならないよ」と。
なにかやりたいことをやるのに、「困難が多い」ということはやってはいけない理由にはならない。
ハッとした。
本当にそうだ。
笑ってしまうほど単純な視点を見逃していた。
楽にできるからやるんじゃない。
やりたいからやってる。やってしまう。
素晴らしいものを世に出したいとかそんな考えなんてなくて、ただその音を味わいたくて、その音を捉まえたくて、拾い出したくてやってしまうことなんだから。
今回拾った記念すべきメロディーがどこへ行くかはまた見えるときが来るのだと思う。
わたしはそれをどうこうしようと頑張らなくていいのだと。
必要ならまた来る。
肩の力が少し抜けた気がした。
好きなものは好きだ。
なにかができるわけじゃなくて、誇れるものがあるわけじゃなくても好きだって言ってもいいんだ。
才能や努力以前の場所に「好き」という感情や衝動は存在している。
誰かには当たり前であろうことばがこころに染み渡っていく。
今までなにかを「好き」と位置付ける度にどこか白けた気分を感じたのはそこに無力感があったからだと思う。
でもそこは切り離していい。
「好きなものは特にない」と言っている人もきっと同じことが起きているのではないかと思う。
好きなことをやっていい理由を探して、見つからなくて、手放したり諦めたフリをしているのだと思う。
でもそんなものはいらない。
好きなものは好き!
好きだからやる!
それだけ!!!
独り言なのか誰かに語っているのかわからない書き方しているけれど、いつも本当に誰かのこころに届くなら・・・って願っています。
今日もありがとう。
ありがとうございます╰(*´︶`*)╯♡ お預かりしたエネルギーが人と地球のために廻っていくよう活動します!