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時代に反逆し先端を突き詰めようとした男と女の「短い間」の物語

映画「シャネル&ストラヴィンスキー」
ブルーレイディスクを借りてきて見た。

映画タイトルにある名前。20世紀の文化を語るには避けて通れない二人の人物。生きた時代に逆らい、というより更にその先端を進もうと藻掻き続けた。簡単に言ってしまえばその時代の変人とも言えるだろう。

同じ向きを目指していたものの性格は両極端であった二人がどのように絡んでストーリーを編み出していくのか。「短い間」でも濃密なひと時にグッと引き込まれていった。

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20世紀のファッション界とクラシック音楽界を代表する人物である二人は「短い間」(1年程度)ではあったが付き合っていた。その情報は、どこで得たものだったか定かではないのだが、わたしの記憶の一部に存在していた。

その「短い間」にどのようなことがあったのか。シャネルの別荘にストラヴィンスキーが家族で住んだことは事実だが、その生活の詳細はよくわかっていないようだ。この映画はその「短い間」のことを創作した物語を映像にしたものである。

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この映画を見たいと思ったきっかけ。それはクラシック音楽ファンとして、ストラヴィンスキーという作曲家が登場するからである。

今では高い評価をされている作曲家だが、バレエ「春の祭典」の初演(1913年パリ)は、その内容が理解できない観客が騒ぎだし大混乱となりスキャンダルとなった。クラシック音楽ファンの中では有名なその史実の様子が、この映画では再現されているということ。それを見たかったからということが、見たいと思わせたもう一つの動機となった。

そのシーンはいきなり映画冒頭に出てくる。わたしにとってはいきなり、フルコース料理のメインディッシュが提供される形になってしまった。そして映像に現れたのは、混乱する様子に怯えたような、繊細で弱々しいストラヴィンスキーであった。

メインディッシュは終わってしまったが、それまでわたしが抱いていたストラヴィンスキーのイメージとは異なっていたことに強い興味を持ったのだ。

「春の祭典」をはじめとした当時の前衛的な音楽。それらは現代でも大きな驚きを持って聴かれる音楽なのだが、ストラヴィンスキーはそんな作品を作った人物なので、結構しっかりした自我を持ち、そして自身に満ち溢れた、でもやっぱり変人の側面をもった人物だと思っていた。しかし、この映画の中では、ちょっと神経質で弱々しい面が多く描き出されていたのが意外であった。

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もう一人の登場人物。ファッション界に大きな影響を及ぼしたシャネル。とても気が強く我を曲げずに突き進むシャネル。新しいデザインへの探求はもちろん、従業員の昇給希望をバッサリと切り捨てる。そしてちょうどあの香水「シャネルN°5」を生み出す過程が描かれるが、満足するまで多くの調合サンプルを作らせ徹底的に自らが望む香りを追求。それらのエピソードが、ストラヴィンスキーの弱さをさらに輪をかけてあぶりだす。

このような両極端な男と女。普通ならお付き合いするようには思えないのだが、やはり人はお互い持ち合わせない面に強く惹かれるのであろう。

しかし、時代に逆らい、いや逆らうというより、更にその先端を進もうと混迷の中、藻掻いていたことは共通点。この共通点がお互いを引き付けた大きな理由だろう。

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クラシック音楽ファンとしては冒頭に出てきた、あのスキャンダルを巻き起こしたバレエ「春の祭典」の初演シーンにどうしても触れざるを得ない。

バレエ音楽「春の祭典」。今では管弦楽作品としてクラシックコンサートのレパートリーにも比較的多く取り上げられる人気の作品である。

しかし、聴けばわかる通り、気分が良くなるようなものではなく、なんとも理解が困難なものである。旋律は口ずさめないし、楽器は不協和音で咆哮。目まぐるしく変わる変拍子はリズムを刻もうとしてもできないほど複雑。演奏する側はよくもまあ、間違えずに演奏できるものだと思う。しかし、実際は演奏者はミスしたり、指揮者も振り間違えるという話は聞いたことがある。それほどの難曲である。

もともとはバレエ音楽なので音楽に合わせて舞台ではバレエが踊られる。この理解が困難な音楽を聴くだけでは一体どんな踊りが繰り広げられるのか想像も出来ない。

今は演出を変えたバレエ上演をされることもあるが、初演と同じ内容で上演されることもある。バレエと言ってもあの「白鳥の湖」や「くるみ割り人形」の舞台を想像してはならない。落書きのような稚拙なメイクと衣装、そして常に痙攣しているような奇妙な踊りは、究極の美を求めるバレエとは思えないもので「一体なんだ、これは?」と思ってしまう。

初演の失敗について振付師(ニジンスキー)の立場からすれば「音楽が悪い」となり、作曲家(ストラヴィンスキー)の立場からすれば「バレエが悪い」と双方の応酬が映画の中では交わされる。当時の観客からすれば、音楽も確かに理解しがたいものだが、バレエも音楽以上に意味が分からなくて当然ではないか。

初演の場所パリ・シャンゼリゼ劇場での「春の祭典」初演100周年記念公演。こちらは演奏後、当然「大喝采」である。


ブーイングと拍手が入り乱れで、公演どころではなくなる。警察まで投入される大混乱になる。それでも、幕は下ろされずオーケストラは演奏しつづけ、ダンサーたちも踊り続ける。興行主(ディアギレフ)が話題作りを狙ったことでもあるのだが、演奏者も踊り手も自分たちの芸術を意地でやっているというようにも見える。本心では戸惑っていたのだろう。

客席の混乱する様子はブルーレイの特典映像にあるメイキングがとても面白かった。劇場から怒って退席する人。舞台へのブーイング。良い、悪い双方の間で起こるののしり合い。

監督の指示は「衝撃的な事件を目に前にしているのです。だからその時の気分をもっともっと表すように」と客席の役者たちにリクエストをする。本編ではよく確認できなかったが客同士の殴り合いのケンカシーンも撮影されていたようで、新聞や文献など、今では文字でしか伝わらない情報。それをできるだけ表現したというのだ。このメイキングの情報により、わたしにおけるこの映画の価値が高まった。

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クラシック音楽ファンとして、もうひとつ面白かったのは、ストラヴィンスキー役の俳優(マッツ・ミケルセン)が、往年の名ピアニスト「ミケランジェリ」にそっくりであること。ストラヴィンスキーは作曲家なのでピアノを弾くシーンがあるが、それが余計にそう思わせた。

弾く作品は当然ストラヴィンスキーの作品。「春の祭典」もある。たとえピアノ少し弾ける俳優だとしても、難曲のストラヴィンスキーの作品は簡単に弾くことはできない。演じる役者の使命として相当な練習をしたのだろうか。

これもメイキングでその秘密が映されていた。別のピアニストが弾いて音を出しているが、それに合わせて俳優は腕と指を動かしていた。しかし音は出さないにしても、腕と指を合わせるだけでも至難の業であるのは間違いない。俳優はどのように練習したか?楽譜ではなく、右を何回叩き、次は左で何回叩くなど、図式化したオリジナル譜面を作っていた。

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シャネルについても少し言及しておこう。映画の中でシャネルの来ている衣装はすべてシャネルのものう。他の登場人物の衣装はシャネルばかりではないだろうが、登場人物全員の衣装デザインが良くて綺麗な映画というのは、私が見た映画の中では他にないと思う。それだけでなく、家の内装やインテリアもなかなかセンスあるもの。見ていて美しい映画であった。

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初演に失敗した「春の祭典」は、その後話題を呼び、シャネルはその再演に関して多額の資金援助を行った。

「短い間」をともに過ごし、その後、別の道を歩いた時代の先端を進んで行った二人。1971年、偶然ではあるが同じ年に亡くなった。

今なお多くの影響を残し続ける二人の功績。当時は決して受け入れられることばかりではなかった。

現代においても「これはいったい何なのだ?」ということであっても、それは時代の先端を突き詰めようしているもので、今後は身の回りにあふれているものかもしれない。わたし自身もそういうものを考えてみたいと思った。

【推薦CD】
「春の祭典」を聴くなら、おすすめはこちら。初演時の楽譜を再現して演奏したもの。


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