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『すずめの戸締まり』映画評・帰るべき場所へ

こんにちは。ササクマと申します。お久しぶりです。誰かに頼まれたわけではありませんが、自分が書きたくなっちゃったので映画評を書きます。

1年ぶりとなる今回の映画評は新海誠監督『すずめの戸締まり』です。ネタバレ卍解なので、未見の方はお気をつけください。

あらすじ

九州の静かな町で暮らす17歳の少女・鈴芽(すずめ)は、
「扉を探してるんだ」という旅の青年・草太に出会う。
彼の後を追って迷い込んだ山中の廃墟で見つけたのは、
ぽつんとたたずむ古ぼけた扉。
なにかに引き寄せられるように、すずめは扉に手を伸ばすが…。

出典:https://suzume-tojimari-movie.jp/

1. まえがき

本作品に対して、公式から「集大成にして最高傑作」なんて宣伝文句が飛び出しちゃってます。いくらなんでも大げさだと思いますが、その通りでした。

なぜなら、わかりやすいからです。物語の構造的には「行って帰る」だけ。マッドマックス怒りのデスロードと同じです。

出典:「マッドマックス 怒りのデス・ロード」予告篇

従来の新海作品は複雑な人間関係や、難解なSF設定がありました。それが監督の魅力であり、今作もファンタジー要素はあります。異なるのは明確な目的地です。

鈴芽と草太はダイジンを追い、行く先々で後ろ戸を閉じる役目を果たします。また、物語後半も草太を救うため、鈴芽の故郷である宮城県へ行く必要がありました。

目的地へ向かうロードームービーだったからこそ、複雑な人間関係も難解なSF設定も、ストーリーの余計な辻褄合わせになりません。ただ行きゃあいいんです。行けばわかります。そこには常世と通じる扉があって、閉じ師が土地を鎮める現世がありました。

正直、映画評を書く意義はありません。監督のメッセージもわかりやすいですし、誰にも伝わるように作られています。本作を観て感じたことが、そのまま観た人の映画です。

それでも、わたしが本稿に映画評と題して書くのは、作品を観て受け取った感情を整理したいからです。本作にコミットしたいオタクの拙い戯言となってはしまいますが、パンフとかの資料を調べて書いた上で、最後にわたしの考えをまとめます。


2. 鈴芽の死生観


愛媛にて学校の後ろ戸を閉じる時、草太は鈴芽に問いかけます。
「君は死ぬのが怖くないのか!?」と。

それに対し、迷いなく彼女は「怖くない!」と答えました。

震災を体験して母を亡くした鈴芽にとって、死は受け入れざるをえない事象だったのではないでしょうか? 来場者特典の「新海誠本」で知ったのですが、大切な人を失ったことを乗り越え、受け入れていく段階のことを、心理学では<喪の作業>と呼ぶらしいです。

大切な親しい関係の人を何らかのことで失った場合、残された人が一般的にたどる過程。精神分析学者ジョン・ボウルビィは以下の4段階にまとめた。

第1段階: 無感覚・情緒危機の段階
 死後1週間程度続く無感覚の段階。一種の急性のストレス反応。激しい衝撃に茫然としてしまい、死を現実として受け止めることができない。

第2段階: 思慕と探求・怒りと否認の段階
 喪失を事実として受け止め始め、強い思慕の情に悩まされ深い悲嘆が始まる。他方、喪失を充分には認めることができず、強い愛着が続いている段階。この時期には喪失に対する責任を巡り、怒りや抗議も見られる。

第3段階: 断念・絶望の段階
 喪失の現実が受け入れられ、愛着は断念される。それまで故人との関係を前提に成立していた心の在り方・生活が意味を失い、絶望、失意、抑うつ状態が大きくなる。

第4段階: 離脱・再建の段階
 故人の思い出が穏やかで肯定的なものとなり、新しい人間関係や環境の中で、死別者の心と社会的役割の再建の努力が始まる。

出典:https://www.humanfrontier.co.jp/eap_word/2019/01/post-66.html

無感覚・否認・絶望・再建というステップを踏むことで、鈴芽は母の死を仕方なく受け入れます。その結果、死は恐怖というより、諦めに近い感情で受け止めていたのではないでしょうか?

草太の祖父・宗像羊朗も、常世へ向かおうとする鈴芽に問いかけます。
「あなたは死ぬのが怖くないのか?」

それに対し、鈴芽の答えは変わらず「怖くない」でした。
「生きるか死ぬかなんて、ただの運なんだって、私、小さい頃からずっと思ってきました」と。

「でも、草太さんのいない世界が、私は怖いです!」

なんじゃそらと、おじいちゃんも爆笑します。爽快すぎて、引き止めるのも馬鹿らしい。

ここまでストーリーの文脈道理であるならば、鈴芽は草太の喪失を悲しみはすれど、諦めて受け入れる流れも自然だったはずです。要石をミミズに刺して、世界を優先した張本人は鈴芽自身なので、

しかし、鈴芽の恋心から湧き出る生<エロス>の本流が、喪失と諦めの死<タナトス>を凌駕しました。見事なちゃぶ台返しであり、観客も彼女を応援したくなります。

理不尽な現実を受け入れることについては、以下の映画評でも書きました。よかったら参考にどうぞ。


3. 鈴芽と帆高


帆高は前作『天気の子』の主人公です。鈴芽と違って彼は観客から嫌われまくった大罪人なのですが、少なからず主人公同士での共通点があります。それが新海監督の描き方と関わっており、鈴芽の行動を知る上で役立つので三点ほど紹介します。

出典:公式サイト

① 物語冒頭での逆走


鈴芽は草太を追って通学路を逆走します。対する帆高も船内へ戻る乗客を押しのけ、土砂降りの甲板に上がります。作劇上の役割としては、「この少年は他の人とは反対の方向へ行ってしまう人」を示すシーンです。

なので鈴芽も、ただの良い子ちゃんキャラじゃないよと、たまにハメを外したくなっちゃう時もある普通の高校生だよと、監督はワンシーンで表現したかったのではないでしょうか?


② 家出の理由が説明されない


帆高の家出理由が作中で説明されない理由を、新海監督は次のように語っています。「過去のトラウマで駆動するよりも、前だけを向いて走り続ける少年少女を描きたかった」と。

家出する理由なんて人それぞれで、ありふれたものになってしまうし、かと言って特別にしても観客は共感できないとも述べておりますが、読み取ることはできます。

鈴芽は叔母と姪との距離感に、微妙な居心地の悪さを感じていたのではないでしょうか? 母を亡くした娘とどう接すればいいのかわからず、過剰なまでに愛情を注いでしまう環さんと、そんな叔母を気遣って甘えられず、鬱陶しいとさえ感じてしまう鈴芽。

複雑な関係ゆえ、たぶん今まで反抗期など無かったでしょうから、解放されたくて鈴芽は草太を追いかけ家出に踏み切ったのではないでしょうか? 知らんけど。


③ 個人の夢と世界の理想


『天気の子』では雨が降り続ける世界よりも、ヒロインの陽菜を選択した帆高。対して鈴芽は要石となった草太をミミズに刺し、大厄災を鎮めて多くの人々を救いました。

後ろ戸を閉じる道すがら、鈴芽は親切な人たちと出会いましたし、その土地にいた人々の声を聞く機会もあったので、世界の理想を優先する選択は自然と納得できるものでした。

これが帆高であったならば、「百万人がなんぼのもんじゃい!」と大厄災を引き起こしていたことでしょう。そう書いてしまうと、帆高とんでもねぇ奴だな笑。

しかし、世界を救った後で鈴芽は、草太も救う決断をします。これぞ観客が求めていた第三の選択肢ではないでしょうか? 世界も君も、自分も救う欲張りセットです。

監督は本作において『魔女の宅急便』を参考としています。鈴芽が旅の過程で様々な女性を見て成長したからこそ、過去のトラウマに囚われず、前を向いて走り出しました。

世界の理想も、結局は個人の夢が積み重なった集合体なのかもしれません。なんて解釈ができちゃうくらいには、鈴芽にも大切な人が増えたということでしょう。

ちなみに、わたしは『すずめの戸締まり』を観た後でも、やっぱり『天気の子』の方が個人的には好きです。なんというか、問題児の方が愛着がわくっていうか、思い出深い映画なので。


4. なぜ自然災害を取り扱うのか


新海監督の作品内で災害発生の設定が取り入れられたのは、2016年の『君の名は。』からです。それ以前は『秒速5センチメートル』や『言の葉の庭』など、人間関係の葛藤がメインの作風でした。メンタリティーが変化するきっかけとなったのは、3.11からだったそうです。震災当日、監督は『星を追う子ども』を制作中でした。

3月11日の10日後くらいだったか、東京でも桜が咲いたんですよね。当然と言えば当然ですが、心底驚いた記憶があります。自分の人生で見た桜の中で何か一番特別なものだった気がします。何があっても日々はこうやって続いていくんだという慰めと同時に、自然はどこまでも冷徹で人間には無関心なんだ、という底知れない怖さも感じました。

出典:新海誠本

・・・文章を抜き出してみましたが、改めて読み返してみると、ちょっと意味わからないですね。なんかわかるようで、やっぱりわからない笑。「こっちが大変な目に遭ってんのに、なにをテメェいけしゃあしゃあと桜咲かしとんじゃコラ!」みたいなこと? 絶対に違う。

まぁ、なんにせよ、この体験から天啓を受けた新海監督は、自分の住んでいる場所がどうしようもなく失われていく感覚や、何かが終わっていってしまう感覚に、自分の気持ちが常に浸され続けるようになります。それを考えながら作ったのが『君の名は。』らしいです。

ただ当時は東日本大震災そのものを映画の中で扱うことは非常に難しいのではないかという感覚があって、それは今でもそうなんですが、とにかく『君の名は。』は震災をどこか迂回しながらも遠回しに触れていたような映画でした。

それはきっと、同じ年に公開された『シン・ゴジラ』もそうだったと思うんです。きっと2016年というのは、物語としてだったらエンターテイメント業界にいる自分たちでも震災のことをある程度は考えることができる、という時期だった気がします。

でも、それで何かが消化できたわけでも、自分の中で気がすんだわけでもなかったんです。ずっとわだかまりというか、課題のようなものは自分の中に残り続けていた。描くべきことを描けないままにしてしまっているような気分が残っていた。

そこにもう一度手を触れるべきではないのか、触れるならばもう今しかないのではないか、今作はそう思いながら作った映画でもあります。

出典:パンフレット

・・・文章を抜き出してみましたが、改めて読み返してみると、わからないでもない。なんだろう、気持ちを整理したいというか、これをやっとかなきゃ前に進めないというか、クソったれな世の中に対するせめてもの抵抗みたいな、言葉にした途端にダサくなるけど、悲劇に屈しないような強い意志を持ちたい感覚でしょうか?

てか、ルックバックですよ! 藤本タツキ先生の読切漫画『ルックバック』! もう他に説明なんざいらねぇ! ドン!(突然の責任放棄)

新海監督映画の主なターゲット層は多感な十代です。うかうかしてたら震災の記憶が昔話の世代になってしまうので、『君の名は。』と『天気の子』を踏まえた絶妙なタイミングで、ようやく状況を受け入れて作った映画が『すずめの戸締まり』となります。


5. 震災を描く覚悟


自然災害を取り扱うにしても、「作中の出来事は東日本大震災のことです」と明言してしまうのは、とてつもない勇気がいることでしょう。実際、公開後まだ数日ですが、震災を描写することに否定的な意見も散見されます。

町が燃えているビジュアルを見せることで、とある人にとってのトラウマがフラッシュバックし、不快な気持ちにさせてしまう可能性もあります。だからこそ、生半可な覚悟では震災を描けません。その心情についても、新海誠本から引用します。みんなこれ、もらった方がいいよ?

鈴芽の心の中では、町はまだ燃えているのだと。だとしたら、鈴芽はそこで何をすれば良いのか。ミミズを封印するだけで良いのか。考えていくうちに、鈴芽はその場所にあったはずの声を聴かなければいけないのではないかと思い至りました。鈴芽は--、というよりも、自分はそれを今、あらためて想像しなければいけないのではないか。そういう風に考えていったときに、「おはよう」「いってきます」「いってらっしゃい」という言葉が出てきました。

出典:新海誠本

なんかもう、サラッと声を聴くとか書いてありますが、それがどんなに暗く苦しいことか。声ってのは、つまるところ死者ですよね。それを想像するということは、普通だったら恨み悲しみの類であるはずで、絶望の怨嗟を真正面から受け止める行為なのでは?

気が触れそうになりながら耳を傾け、深く集中して、噛み砕いた末の挨拶

ネテロ会長、感謝の正拳突き!?!?

出典:集英社

一体、監督の中で何が起こって、どんな心境の変化があったのかはわかりませんが、常世の中で鈴芽は自分が何をすべきか見つけました。過去の不安な自分に、今の自分が嘘偽りのない言葉をかける。それだけでもう、わたしは本作に関わったスタッフ一同に対し、感謝の気持ちでいっぱいでした。

なぜなら、わたしは自分が何をしたらいいのか、わからなかったからです。

出身は福島県の過疎地で、東京から戻っても家業を継ぐわけでなく、ただ漠然と仕事してました。一方で地元は震災復興のムードが強く、わたしもイベントの手伝いに駆り出されたりしてましたが、どこか冷めた目線の自分がいたのも確かです。

なーんか、自分も郷土愛を抱いた方が人格者になれるのかなー? と思っていたところに本作を観て、そんな後ろめたい考えは吹き飛びました。

別にボランティアは偽善だと切り捨てたいわけじゃなくて、残された者としての罪悪感から行動するのではなく、どうせなら前向きな精神で貢献したいじゃん! っていう話です。

少なくとも、生まれ故郷の町興しが己の使命だとは思わなくていい。課題ではあるし、どうしようもないこともあるけど、自分のやりたいようにやっていい、という救いにわたしは受け取りました。ありがとう。


6. 距離と喪失と獲得


新海監督作品に共通する演出については、「距離」と「喪失」の話が有名です。知らない方は以下の記事を参照してください。

はい、これであなたもシンカイズムです。

最新作『すずめの戸締まり』を、従来の型に当てはめて批評することに意味はあるのか? たぶん無いですが、思いついちゃったので書きます。何か新しいシンカイズムがあるかもしれません。


① 距離

ロードムービーとなった本作では、距離のシンカイズムが目に見えてわかりやすいですね。宮崎からフェリーで愛媛、ヒッチハイクで瀬戸大橋を渡り神戸へ。神戸からは新幹線で東京に行き、芹沢の車で福島、宮城へと辿り着きました。

まぁ、距離ですよね。純然たる地図上の距離です。そこにわたしの勝手なシンカイズムをつけ加えるならですよ?

この旅路としての距離は、被災者と、それ以外の人たちとの、当事者意識の差を表しているのではないでしょうか?

東日本大震災に限らず、1995年の阪神・淡路大震災、2016年の熊本地震、はたまた今年に台風15号の豪雨被害を受けた静岡県など、日本国内いたるところで災害が発生しています。

あえて冷たい言葉を使うのなら、被災地にいない自分にとっては他人事でしょう。中には瓦礫の山を片づけたり、食料を送る素晴らしい方々もいらっしゃいますが、まずは何よりも自分の身の安全を優先すべきです。

でも、それでもですよ? 本作を観た方は日本国内の交通の利便性に気づいたのではないでしょうか? あれ? 宮崎と宮城って、意外と近い? 直線距離にして大体1,700キロくらい? 一日あれば行ける?

そう錯覚させたら、こっちのもんです。今度の連休は東北に行き、経済を回しに豪遊しましょう。現地でお金を使ってくれるだけでも大変助かります。旅慣れしてきたら、いつかまた災害が起きた際、4トントラックを乗りこなして被災地に駆けつけてくれるかもしれません。

出典:公式サイト

力が及ばないと思っていた、どうしようもない出来事に対しても、少しは関与できる想像力を働かせることで、当事者意識の距離を詰めようと試みているのではないでしょうか? これぞシンカイズム。

ってか、シンカイズムってなに!?!? そんな言葉ありません。

その他に距離としては、常世と現世ですね。ふたつの世界は隔てられているように見えて、実はべったりと日常に貼りついています。

背中合わせであるからこそ、もしも神と呼べるような存在がいるのなら、人間は適度に共存できる距離を保たなければいけません。それゆえの、おまじないなのではないでしょうか?


② 喪失

鈴芽は震災により母を亡くしています。それは非常に大きな喪失ではありますが、新海作品にとっては母親が登場しないなんてことは珍しくありません。家族愛がテーマではないので。

途中で草太が要石になりました。これも歴代作品と比べると、大きな喪失には繋がりません。最終的には、すべて元通りになりますからね。

では何が今作の喪失に当たるのかと言うと、具体的な物質ではなく、もっと抽象的な、可能性が失われていく感覚です。

例えば『すずめの戸締まり』の企画書には、こんな一文があります。

ラブストーリーに関して言えば、「椅子にされてしまった相手との恋」ということが重要である。グリム童話の「蛙になった王子」のバリエーションとも言えるが、恋愛相手の美醜の問題というよりはむしろ、「自分が閉じ込められ不自由になってしまった」感覚を大切に描きたい。「不自由な時代・不自由な場所(国)に閉じ込められている」という僕たちの生活感覚と、草太の境遇が響き合えば良いと思う。

出典:KADOKAWA


窮屈で、不自由な生活感覚。みなさんは身に覚えありませんか? わたしはあります。あくまでも、わたしが感じている不自由さです。

バブル経済が崩壊してから失われた20年とか呼ばれ、雇用されても生かさず殺さずの低賃金で働かされ、結婚式やマイホームは夢のまた夢で、子どもを大学に行かせるには学生ローンを組むしかなくて、老後の蓄えは2,000万円欲しいけど年金はもらえないかもしれないから、自分で積み立てNISAするなりリスクヘッジしてね。

なめとんのか!? 起業するなり、YouTuberなるなり、リスク背負って一攫千金でも狙わんと、安心して生活できないよ!?

それか堅実に勉強して、大学に進学し、一流企業に就職する。これだって実力主義の激しい競争社会です。若者は振るい落とされないよう、なるべく優等生を演じなければ生き抜けません。

そこへコロナのあんちくしょう! 部活の大会も、文化祭も、修学旅行も中止! でも旅行支援はします! なんで!? 授業はリモート! 学校には来ないで! 学費を返せ!

感染拡大の時期にいた学生たちはストレス発散もできず、世の中の理不尽さに怒り震えていたことでしょう。いえ、諦めていたのかもしれません。

将来の楽しみや、学生であることの時間など、機会の損失こそが今作における喪失に当てはまるのではないかと、わたしは考えます。

って書くと、新海監督の次回作はコロナを扱うのか、野暮ですが少し期待してしまいますね。


③ 獲得

物語クライマックス、鈴芽は自分自身を見つけます。

「あなたは、光の中で大人になっていく」

飾らず、ごく当たり前の言葉で過去の自分を抱きしめる。震災後を生きたシンプルな事実が彼女自身を救い、本当に大切なものを思い出す。

結果、亡くなってしまった人に再会したり、誰かに出会って救われる話ではなく、自分で自分を救う話に落ち着きました。

他者に救ってもらう物語となると、まず救ってくれる他人と出会わなければいけないわけです。でも本当に自分を救ってくれるような他者が存在するのかどうか、わかりませんよね。誰もが『君の名は。』の瀧に出会えるわけでも、『天気の子』の陽菜に出会えるわけでもない。でも、誰でも少なくとも自分自身には出会えるじゃないですか。

出典:パンフレット

どんなに先が暗い不安に見舞われようと、どんなに深い悲しみが訪れようと、その度に立ち上がった我々が弱いわけがありません。

映画にして、漫画にして、いつかまた真実を見つけます。

きっと、わたしたちは大丈夫です。

自分自身や可能性の話などについては、以下の映画評でも書きました。よかったら参考にどうぞ。


7. 気になるサイドストーリー


以下、ただのオタクによる願望の垂れ流し。

・芹沢と環さん、つきあっちゃえよ。

・草太と芹沢の絡みが見たい。

・ふたりの教育実習、どんな感じだった?
 女生徒からモテモテだったんでしょうね。

・宮崎県の教員採用試験を受けろ。
 逆に鈴芽は上京して草太の家に転がり込め。

・ダイジン、サダイジンは何がしたかったのか?
 神の気まぐれ?

・物語クライマックスの、あの妖怪大戦争は何だったのか?

・閉じ師であった草太の親は、東日本大震災を止められず亡くなった?

・ドライブシーンの懐メロは劇中歌代わり?
 「TAMAKI」名曲すぎない?

・新海監督の脚フェチ炸裂!?
 新たな扉が開いても不思議じゃない。


8. 戸締まり


「優れた物語は99%の現実と、1%の不思議で構成されている」

書くの久しぶりすぎて、この分析手法を忘れていました。

『すずめの戸締まり』における不思議要素は、閉じ師の存在ですよね? 扉というモチーフも、物語を構成する大きな起点となっています。

最初にあったのは「場所を悼む」物語にしたいということでした。かつて栄えていた場所や街が、人が減って寂れていったり、災害で風景が失われてしまったり。最近そういう場所が日本中に増えているなという実感があったんです。そういう「場所」を悼んだり鎮魂したりする物語ができないかとイメージしたとき、自ずと出てきた作品舞台が、人のいなくなった寂しい場所、つまり廃墟だったんです。そしてその出入り口ということで、扉がいいんじゃないか、というのが起点でした。

出典:パンフレット

場所を悼む発想は元から抱いていたそうです。なぜ廃墟に着目していたのか、わたしなりの仮説を立てます。

新海監督は長野県南佐久郡小海町の出身です。令和4年時点で人口は4,397人の2,015世帯。この数字は少ないです。過疎ってます。ただ自然は豊かなので、松原湖でのキャンプは人気のようですね。

で、監督は代々続く建設会社の跡取り息子で、家業を継ぐ予定だったはずが断ってゲーム会社に就職しています。一度は未練を断ち切った地元ではありますが、たまに帰省したら選ばなかった未来を想像せずにはいられないでしょう。

監督が子ども時代を過ごしたであろう、田舎の窮屈さを反映させた作品が『君の名は。』です。甘酸っぱいボーイミーツガールの陰に隠れていますが、隕石を落として町を木っ端微塵にする方法で、結果的に主人公は責務から解放されます。

後腐れないよう町を破壊した監督ですが、焼け野原には残骸が落ちてました。どれだけ過去を振り切ろうとしても、郷愁の残留思念が自分を引きつけようとしてきます。

この瓦礫をどう処理したらいいのか、監督はずっと悩んできたのではないでしょうか?

もう、いっそのこと扉を閉めて、土地ごと鎮めよう。

出典:KADOKAWA

そもそも「後ろ戸」は古典能楽における概念で、神や精霊の世界に繋がる扉のことらしいです。『すずめの戸締まり』では常世(死者の場所)へと通じる扉として機能しており、たくさんある中で人が生涯にくぐれる「後ろ戸」はひとつだけの設定があります。

また、常世は見る人によって姿を変えることから、本作での「後ろ戸」は霊界のようなものというより、人間の精神世界に近いものなのではないでしょうか?

そう考えると「後ろ戸」は日本列島の各地に点在するのではなく、自分の中に複数あるものなのかもしれません。過去のトラウマがフラッシュバックしそうな時、扉の鍵を閉めることで落ち着かせます。

我々ひとりひとりが閉じ師であり、ミミズの化け物を封じ込めているのです。そして数ある「後ろ戸」の中にはひとつだけ、自分が目指すべき大事なものと通じ合えます。

扉を鍵で閉めるって行為は、外へ出かけることです。ここにあった景色を思い描き、行ってきますと旅立つことで、ようやく別れを告げられます。

もう、逃げなくていいです。知らないふりを続けなくていいです。あなたは戸締まりして出かけたのだから、買い物するなり映画館に行くなり好きに遊びましょう。

これからも、たくさんの人と出会います。自分が決めた目的地へと弛まず歩みを進め、いろいろハプニングがありながらも辿り着いた先はきっと、「おかえり」と言ってもらえるような帰るべき場所になっているはずです。



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