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私の恩師の話。

私の恩師、それは中学1年生の時に新任として着任した国語科の教師だった。新卒23歳、大学生の名残が少し残る何ともおぼこい先生だった。
先生は入学式よりも前に全員の顔を名前を覚えていて、出席を取る時にも顔を見て名前を呼んでくれた。私の旧姓はとても珍しく珍名。初めて読める人はいなかった、それが覆された瞬間だった。事前に生徒の調査票と席順を頭の中に入れていたのだろう。

先生も緊張したはずだ。私だって23歳の新卒の頃は何をするにも緊張して卒なくこなすことなど出来なかった。いきなり13歳の中学生を40人近くの人生の一部を任されるなんてとんでもない話だ。

加えて先生たちの世代は就職氷河期と言われる世代で、かなりの就職難を極めた。先生は国語の免許だけはなく体育の免許も取得していたという。
大学での教職課程を経験した友人がこんな目に遭うなら先生になんかなれなくてもいい…と何人も脱落していく様を横目に見ていた。

かくゆう私たちはリーマンショックの影響と東日本大震災の被災によってそれはもう恐ろしい光景だったのも想像してほしい。

1学年上の先輩は卒業直前に企業から連絡が来て「津波の影響で内定も流されちゃった」と力なく笑い、もう1年残る就職浪人することになった話も珍しいことではなかった。それくらい新卒という言葉は一種のピカリと光るブランドだった。牛肉に貼ってある「特選」のシールのような感じだ。

そのせいか私は大学卒業時に地元企業から何社から内定を貰っていたものの丸腰で社会に出るのが怖くなり、すべて辞退して専門学校に進学して改めて国家資格を取得してから晴れて社会人となり、数年間しっかり働き、ブラックも体験し、その後はそれなりに働ける場所にもめぐり会い、今は楽しい無職だ。昼間にベランダでキュウリを齧っている。河童の化身とはわたしだ。
まぁ、ひと昔風に言えば、結婚という名の永久就職となった。家事育児部門、幼児課にいる。

さて話を中学時代に戻そう。
先生は当時の中学生の私から見ればおじさんに見えた。なんとも失礼な話である。23歳なんてまだお兄さんじゃないか。
その証拠に先生は授業の空き時間に担任クラスが体育をしていたら乱入してきて、一緒にランニングしたり、サッカーを教えてくれた。
体育の中年男性の存在感が薄くなっていくのを感じた。でも「若さっていいなぁ」と言っていたあの背中と頭の毛の薄さの、何とも言えないもの悲しさは今思いだしても切ない。

入学してしばらくすると近隣に700m程度の山登り合宿があった。
女子は誰もが口を閉ざし、男子ですら倒れるような過酷なものだ。今の時代では考えられない。
担任の先生はいつも元気で、こまめに声掛けしてくれた。
熱中症のような症状が出た生徒の異常をいち早く察知し休ませ、先生のバカでかいリュックの中にあるポカリを飲ませてくれていた。

「せんせーの持ち物どうなってんの?」と女子数名で漁る「こら、やめろ」と言うが、女子中学生は無敵。何というか大人を舐めている。
先生の荷物には全てのトラブルに対応出来そうなくらいの装備が入っていた。毒蛇に噛まれた時に使う吸引器や蜂ジェットも入っていた。

ひぃひぃ言いながらなんとか登りきり、全員がフラフラになりながらお風呂に入って極楽浄土~と言っていた。女子中学生は同じ風呂につかるとお胸の品評会をしていた。クラスで一番でっけぇお胸の〇〇ちゃんにチョモランマ!とか下品すぎるあだ名をつけていた。第二次性徴期、みんなまだまだ自分の小胸と友人の少し大きな乳が気になってしょうがないのだ。私はブラなんて必要ないようなシンデレラバストだったためそそくさと脱衣所に逃げた。

その日の夜、キャンプファイヤーをすることになり学年の女子で1人「火の女神」を選ぶことになり、私が選ばれた。履歴書には書けない女神に任命された。光栄なことに卒アルにも載っている。ちなみに顔は写っていない。

断る理由もなかったので毎年着られている白いワンピースのような衣装とヴェールを身にまとい、車座に座っている生徒の周りを一周して、「綺麗~」と言われて照れてカーッと顔が赤くなるのを感じた。木に蝋燭で火を灯してサッと退散した。放火の女神の爆誕だった。

着替えて先生に衣装を返した時「綺麗だったぞ、写真いっぱい撮ってるからあとであげるからな」と言われて「どうも…」と言ったが、もうその頃には先生のことを頼もしい人だなと思っていた。

学校生活に戻り、自然と国語の授業に身が入るようになった。好きになってしまったのは9歳年上の国語教師。初恋だった。こんなこと誰にも言えない。

先生の気を引くにはどうすればいいか考えた。とにかく国語の成績を上げようと必死で勉強した。教科書を暗記する程に読み、解説の欄までも読んだ。
風呂の中でも読み、湯舟に何度か落としたことで、いい感じの古文書みたいな風合いに仕上がった。
恐ろしいことに国語の成績が上がることによって、他の強化も持ち上げられてほぼオール5で3年間を終えることになる。
ちなみに数学は万年3だった。バカと恋の連立方程式は、たったひと教科だけを残して成立した。どれだけ頑張っても数学とは仲良くなれなかった。だって引き算すら間違うんだから。ひっ算で紙に書いても間違うおバカちゃんだったため、親は頭を抱えていた。電卓があるから今は問題ないのよ。文明の利器、万歳。

国語の定期テストの自由記述には蟻より小さな字でびっちりと埋め、毎回ほぼ100点か95点以上をキープしていた。授業はノートを取っている時に黒板を見ている以外の時間はずっと先生のことを見ていた。50分間先生のことを見つめていてもいいボーナスタイムで、居眠りなんかしたことがなかった。

1学期が終わり、夏休みの登校日に漢検の申し込みについてのプリントが配布された。とゆうか3級を既に持っていた。
もともと趣味が読書で、中学受験の有名塾に通っていたこともあり、漢検のことは知っていた。(中学受験は本命の国立に落ち、私立には合格したが、母の判断で地元の中学に進学することになった)先生に自分のことを見てもらえるのじゃないかと思い、準2級を受けることにした。

部活のあとは家で机に齧りついて漢字の勉強を詰め込んだ。夏休みの宿題をまるっと1日で終わらせて、工作物は兄に受注した。兄は手先が器用で、美術の一枚絵も描いてくれた。
日記だけは自分でちゃんと書いていた。変わらない毎日のようで毎日走っては走ってタイムが少しずつ伸びた。記録会では4位に入った。同じ部の子が3位で、あの時ほど悔しかったことはない。帰り道で「りょうだって4位じゃん」と言われて、「うるせぇ!4位と3位じゃ雲泥の差じゃぁ!4位は表彰状もらえん」と慰めてくれた同期に当たり散らした。申し訳なかった。

2学期がはじまり、体育祭の練習も始まった。暑い中、女子はダンス、男子は騎馬戦の練習をさせられる。体育祭の練習中にも地面には難読漢字を書いては足でけし、完全に頭の中は漢字一色に染まっていた。個人種目は100mで誰にも負けないという思いで走ったが、同じ部の子に負けた。先生は「頑張って走ったことが何よりもいい」と褒めてくれた。

学校全体で一番盛り上がる、部対抗リレーでは陸上部はハンデとして他の部より20m後ろからスタートすることになっていた。私は1走でさっき私が負けた子が2走だった。リレーが始まる前に「絶対に1位でバトンを渡す。安心して待っとって」と言葉通り、ピストルの音がして半周する頃には集団を追い抜き1位争いをして、バトンパスの上手さなら陸上部はどの部にだって負けない。私たちは1位で何よりも輝いていたと思う。

先生はその光景を自腹で買ったデジカメで撮ってくれていた。クラスに掲示されて、それとは別に私にも封筒に入れて「頑張った!すごかった!」と付箋をつけてくれたのだ。その付箋はお守りにして缶ペンケースの内側に貼った。だが10月に受けた漢検は落ちてしまった。

だけど悔いはなかった。年に3回受けることが出来る。まだ第3回がある。
今度こそ、受験まで日程には猶予もある。きっと、次こそはと思い勉強した。運動部のガリ勉野郎は珍しかった。走りながらも頭の中ではその日の授業の復讐をしていた。
部活の方は新人戦があり、個人種目では記録は奮わなかった。
どうにかして目立って先生の気を引きたかった。

あぁもう、思い切って告白してみようかな、教え子と結婚するケースだってある。
だけどそんなこと出来なかった。先生に迷惑をかけることになると思ったからだ、これまで通り勉学に励むことにした。

その年の2月のバレンタインデーに先生を待ち伏せして、走ってきたバイクを止めて渡した。それだけで十分だった、思いは伝えた。まだ好きだとは言えず、「先生のことを尊敬しています」といった手紙と本を添えた。

先生のクラスの子で居られる残りの1か月弱を大切に過ごそうと思った。
漢検は合格した。異例の早さで合格したことで、漢検のパンプレットに掲載されることになった。
掲載するにあたっての合格のコツは?という欄に「恋の力です」とは書けなかった。「コツコツがコツ」と書いた。歯を見せて笑い子供のような屈託のない笑顔で、毎日の予習復習が肝心ですと掲載された。

そして3月にクラス写真を撮り、お別れの日がやってきた。
いつも明るく私たちを励ましてくれた先生は泣いていた。大粒の涙を流しな
がら「君たちが初めて持つクラスの子でよかった、ありがとう」と言ってくれた。

たくさんの女子が泣き出してしまったことで、なんとも湿っぽい終わりになった。私は泣けなかった。いざと言う時にこそ涙が出ない。「1年間お世話になりました」そう笑って通知表と記念品(自腹)を受け取った。ミニサボテンだった。
信じられないが、鉢と植え替える度にとても大きくなってしまい、実家の庭の片隅に埋まっている、今は管理は母に任せてある。実家に帰る度に、せんせ…ただいま。と心の中で言っている。

その日にもう2年のクラス発表がされており、私は先生のクラスではなかった、絶望だった。夜、来年は毎朝先生のホームルームじゃないのかと思うと悲しくて泣いた。でもワンチャン、クラス担任ではなくとも教科担任である可能性がある…。それだけを希望に春休みを過ごした。

結果、2年は国語ではなく体育の方での担当になった。体育がある日は最高にhappyだった、単純な性格だった。体育をはじめ美術も家庭科も全ての服教科も5になった。内申点は鬼神と呼ばれていた。数学は最後まで3だった。相対評価制度から絶対評価制度に変化した正真正銘のレベル5。

先生のおかげで3年間の勉強が楽しくなりました。
学校に行くこと自体楽しくなって、無理なレベル設定の難関だって突破できました。最終的には3年生の時に、2級に合格した。

今でも地元に残り、教員をしている同級生と時々話すことがあり、先生の噂は時々聞きます。
いつまでもお元気でいて下さい。

卒業の時、連絡先を交換した。他の生徒も何人か交換していた。
Facebookで近況を知っていたが最近はすっかり廃れてしまった。
人生の要所、要所で先生に電話したことがある。その話はまた今度。

改めて考えると…初恋が13歳って少し遅めですよね。

#国語がすき

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無印良品のポチ菓子で書く気力を養っています。 お気に入りはブールドネージュです。