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【同乗者たち】第2章 売魂者たち【09】

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姉が本を読んでいる。
今時珍しい紙の本だ。クロアナ街のゴミ捨て場から拾ってきたのであろうそれは、酷く汚れ、黄ばんだテープで補強されていた。古びた読書灯の頼りない光のもとでページを繰るその光景が、ヨーイチの瞳にはとても羨ましく映った。

読んでほしいの?

笑いながら、姉は首をかしげる。

ヨーイチにはすこし難しいかもしれないよ。

それでもいいよと返事をして、ヨーイチは姉の隣に座る。古い紙の香りが鼻をくすぐり、次の瞬間には姉の言の葉がヨーイチの頬を撫でた。紙の間に大切にしまわれていたそれらが一粒一粒すくい上げられては、息を吹き返して小さく光を放つ。ひとたび姉が本を読み始めると、この世界は変わる。この狭くて寒い部屋は消えてしまう。
ふいに言葉が途切れて、ヨーイチは姉の顔を見上げた。彼女のなめらかな前髪の隙間から、赤い液体がしたたり、ヨーイチの頬にぽつりと落ちた。文庫本は、いつのまにか最終ページになっている。赤い顔で姉は笑う。

「おしまい」




目が覚めると、部屋の時計は深夜を回っていた。
けだるい体を起こす。せっかくシャワーを浴びたというのに、嫌な夢を見たせいで全身が汗にまみれていた。ヨーイチは額に手をあてて、大きなため息をついた。失態だ、敵の息がかかっている部屋で眠りに落ちるなんて。
ヨーイチは部屋のドアにぴたりと寄り添って、外の様子をうかがった。なるべく音を立てずに廊下にでると、静かに階段を下る。別に閉じ込められているわけでも、出てはいけないと釘を刺されているわけではないのだ。たとえ見つかっても、外の空気を吸いに行く、というその理由だけで事足りる。
建物の外に出る。相変わらず人の気配は無い。空を見上げると、星が明るく輝いていて、思わず立ち止まった。ヨーイチの居る区域では「走馬塔」が一日中青白く輝いて、星達は身を隠している。
こんなにきれいな星空を最後に見たのはいつか、覚えが無い。

「……お兄さん、どこいくの?」

ふいに声が聞こえて、ヨーイチは振り替える。アパートの影から、一人の子供が顔を覗かせる。「こどもひろば」のミニチュアの一軒家の裏から飛び出してくる子供が脳裏にフラッシュバックした。
伊藤チハルだ。

「……散歩?」
「……そんなところだ」
「ソーイチさん?」
「なぜわかる」
「初めて見る顔だから」

じっとヨーイチの顔をみるその表情からは、ヨーイチがあのこどもひろばにいた監理官だということには気付いていないようだった。 

「わたし、いつも向かいのホテルにいるの。ナナシさんが、わたしと同じところから抜け出してきた人が居るって言うから、会ってみたくて」
「会って……どうするつもりだ」
「わかんないけど……わたし、ナナシさんに仲間になろうって言われたの。でも、よくわかんなくて。だから、お兄さんはどうするのか、聞いてみたくて」

そう言いながら彼女は、ヨーイチの肩越しを見つめている。振り返ると、遥か遠くにぼんやりとした青い光が、まるで亡霊のようににぶく光っているのが見えた。

「あの建物を壊すんだって」
「……らしいな」
「わたしは悪いことをしたから、ずっとあの白い部屋にいたんだけど、ナナシさんはそれはおかしいっていうの。わたしは悪いことをしてないんだって。したのは別の人間で、わたしは本当は自由なんだって。だから、好きなように生きてもいいけれど、もし今までわたしを閉じ込めてた奴に『仕返し』したいなら、仲間になってって。でも、分からないの」
「分からない?」
「ほんとに……ほんとにいいのかな」

ヨーイチはチハルの表情を見つめた。

「お前、隔離所に戻りたいのか」
「そんなことない。だって、わたしは悪くないんだって、ここではみんな言ってくれるもの」

二つの世界で、この子供は揺れている。
隔離所は、単純な場所だ。朝起きて、簡単な仕事をして、眠りにつく。たったそれだけのことを毎日繰り返す。生まれてからずっとだ。そうやってパッケージされた過ごしてきた人間が、急に混沌とした場所に放り出されて「ご自由に」と言われても、どうしていいのか戸惑うだろう。
定められた白い部屋での人生と、不条理に抗う混沌の世界。お前は殺人犯だと糾弾される世界と、お前は悪くないと言ってくれる人がいる世界。
この子供は、戸惑いつつも、後者の世界……抵抗する世界に、魅入られようとしている。初めて人生に目的を見出そうとしているのだ。その背中を押してくれと、ヨーイチに言っているのだろう。
ならば、言うこと決まっている。

「お前は悪人だ」

人殺しに目的のある人生など、歩ませるわけにはいかない。
ヨーイチは一歩、チハルに近づいていった。ヨーイチから伸びる影が、チハルの小さな体を覆う。彼女はかすかな恐怖をその瞳にたたえて、ヨーイチのことを見上げている。

「一度死んだから、生まれ変わったから罪が無くなる? 笑わせるな。お前の魂は汚れているんだよ」
「けど」
「不条理に抵抗するって、どこに不条理なんてあるっていうんだ。この世界はルールに基づいて出来ている。先に破ったのは、お前らのほうだ」
「随分と上から目線だね」

ふいに背後から冷たい声がした。

「まるで前世監理官の言葉みたいじゃないか」

いつの間にかナナシが背後に立っていた。月夜にさらされた金髪がまぶしく光っている。

「二人してこんなとこで、星でも見に来たの?」
「ナナシ……」
「ここは空気が悪いくせに星がよく見えるんだ。周りに明かりが無いからだろうね。きみ、クロアナの語源が星だって、知ってた?」
「星?」
「大混乱前まで犯罪を取り締まっていたケーサツという組織……今でいう『現世監理官』は、犯人のことを『星』と呼んでいた。私達は死んだ星、つまりブラックホール……黒穴ってことだ。爆発と共に、自身の罪の質量に押しつぶされた存在」

空を見上げていたナナシの顔が傾く。ヨーイチを見つめ、静かに続けた。

「君は……クロアナが罪を背負っていると思ってるんだね?」

今回の任務はカメラをばら撒くこと、それ以上をしてはいけない。井坂の言葉がよみがえるが、喉元まででてきた言葉を押さえる術がない。

「クロアナの魂は、汚れている」

ヨーイチは小さく息を吸うと、つぶやいた。

「……もちろん俺の魂も。何度死んだって同じだ。だから、あんたたちとは一緒にいられない」
「ここから出ていって、行き場があるの? 気の迷いで隔離所を抜け出して、我に戻りましたと言って自主する? それとも、身に覚えのない罪を背負って自殺でもするわけ」
「かもな」

そうヨーイチが答えると、ナナシは一つため息をつくと、チハルの手を取って「戻ろう」と言った。
驚いたヨーイチは、思わず問いかける。

「止めないのか。俺のこと、疑っているんだろ。情報を走馬燈局にもらすかも知れないのに」
「わたしは人の目を見て物事を判断する。あいつらみたいに、データや情報だけで動いたりしない」

そう言って、ナナシはヨーイチの瞳をまっすぐに見た。

「さっき、君は私の部屋で言ったろ、『俺はなにも悪くないのに』って。その時のあんたの表情……かわいそうなクロアナ以外の何者でもなかった」
 
だから、見逃す。
ナナシはそう言葉を残して、チハルをつれて建物へと消えていった。
取り残されたヨーイチは、その場にぼんやりと立ち尽くす。
クロアナだった? この俺が?

「……馬鹿を言うな」

美しい星空の下で乾いた笑いが漏れる。もうすぐ離脱時間だ。ヨーイチはゆっくりと歩き出した。申し訳程度についているクロアナ街の街灯が、ヨーイチの影を道に形成する。歩くたびに、その影は彼の前をゆく。
じっとその影をみつめて考える。
俺は、一体、何者だ。
いや、「あの時の俺」は、一体、何者だった?

「クロアナの魂は汚れている」

凜とした声が、ぼうっとするヨーイチの頭を突き抜ける。
顔をあげると、ヨーイチの影の先に、あの、幻覚であるはずの少女が立っていた。手を伸ばせば触れれそうなほどに、その存在感は大きい。瞬きを繰り返しても、消えない。

「あなた、さっきそう言ったよね。自分自身の魂も、汚れてるって」
「……お前は、一体、何なんだ」

うめくようにヨーイチは漏らす。 

「俺の、妄想なんだろ……? なあ」
「試してみる?」

少女はそう言って歩み寄ってきた。裸足だ。隔離所の人間が着る、白い上着とズボン姿。そうか。彼女は隔離所にずっといたのか。俺が「見た」時のように。
少女はヨーイチの目の前で停まると、彼の腕をとった。ひんやりと冷たい感触にびくりとするのもつかの間、少女はヨーイチの腕を持ち上げると、自身の胸に彼の手の平を押し当てた。

「ねえ、生きてるでしょ? わたし」

とく、とく、と鼓動が手の平に伝わる。
本当に、この少女は「生きている」。
ぞっとして、ヨーイチは少女の腕を振り払った。

「お前……今まで、どこにいたんだ」
「別に。そこら辺ぶらぶらしたり、あなたの後を追いかけてみたり」
「何が目的で、俺の前に現れた」
「知らない」
「知らないって……」
「私にも分からない。あの日、目が覚めたらあなたと出会った場所に居たんだもの。周りは一般人だらけで、私と同じ隔離所の洋服を着ている人なんて、一人もいなかった。おかしいと思ってあちこち見回って見て気づいた。ここは、私の生きている時代じゃないって」

少女はそう言って、きゅっと唇を結んだ。

「前世監理センターの待合室だって、しばらくして気づいたよ。隔離所の資料で見たことあったから。だから私も、自分の前世が見たくなったの。自分の前世が一体どんなひどい罪を犯したのか、『誰のせい』でこんな思いをしなきゃいけなくなったのか、分かると思って。それで、カウンターにいるあなたに声をかけた。そしてあなたの顔を、名札を見て、何故か直感的にわかったの。……この人が、わたしの来世だって」
「おかしいだろ……前世と来世が出会えるはずが無い」
「わかってるよ、そんなこと……!」

たんたんと喋っていたはずの少女の声が揺れる。堰き止めていた何かが崩壊したのか、脇にたれている手が小さく震えていた。街灯に照らされた彼女は、初めて会ったときと比べて、ずいぶんと汚れてみすぼらしく見えた。

「……あれから、町中を歩いてみたんだ。でもね、だれも私に気づいてくれない」
「……は?」
「誰も、私のこと見えないの……あなた以外には。ここは、私にとって過去だから」

ついに少女は、その場所にしゃがみこんでしまった。膝の間に顔を埋めて、必死に声を震わせないように、言葉を紡ぐ。

「私は、この時代に、まだ生まれてないんだ……だから、だれも、私に気づいてくれない」
 
弱々しい言葉に、ヨーイチはただただ無防備に突っ立って、彼女を見下ろすしか術がない。手のひらで感じた鼓動を思い出す。わずかな膨らみの下、確かに動いていた鼓動を。
わけが分からないのは、この少女も同じなのだろうか。
ヨーイチは諦めたように小さくを息を吐き出して、静かに少女に歩み寄った。





「おつかれさま、ヨーイチ君」

ワゴン車にもどり、扉を閉める。後部座席に身をしずめて、呼吸を整えた。車内には井坂が待機していた。時崎と矢土は、本部でこちらを監視しているはずだ。

「大丈夫? どこか怪我でも……ヨーイチ君?」
「いえ……ちょっと、疲れただけです。車、だしてください」

ヨーイチの言葉に、井坂は素直に車を出す。徐々にクロアナ街は遠ざかっていく。ヨーイチはそっと隣を盗み見た。目を赤く腫らした少女が座っている。
けれど井坂は何も言わない。
ナオキの時も、そうだった。ヨーイチ以外の人間には、彼女は「見えない」。
彼女は、この状態で一人、この町をさまよっていたのか。

「本部にトキちゃん待機してるけど……クロアナのチップ、抜いてく?」
「今度でいいです。……今日は、直接帰ってもいいですか」
「そのほうがいいね。顔が真っ青だ」

井坂の言葉にどっと疲れがぶり返して、ヨーイチは静かに瞼を閉じた。このまま眠りについたら、また悪い夢を見る気がする。
これが悪夢だとしたら……悪夢の中で見る夢とは、どういうものなのだろう。考えたくも無かった。

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