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幸せのカタチを求めてわたしたちは生きている

誰しも幸せを探しているんだって。

「幸せ」ってかんたんに使われる言葉だけど、
「幸せ」ってなんだと思う?

人それぞれの「幸せとは」。

「幸せとは〇〇である。」という哲学的な定説は嫌いじゃない。

何百年も前から哲学者たちがこぞって「幸せとは…」と
時間とエネルギーを費やして導き出した答えだ。

ひとつの概念に対して、多数の名言が残されているように、
「幸せ」「幸福」に関しても何とおりもの正解がある。

さらにその「幸せ」という概念に対しては、
哲学だけではなく、科学であったり、医学であったり、
さまざまなジャンルにおいても研究し尽くされている。

研究し尽くされているのにもかかわらず、
日本の幸福度ランキングは上がらないし、
いま幸せか?と聞かれてYesと即答できる人のほうが少ないだろう。

なぜなのか。

「幸せ」って誰かに推し量られるものではなく、
自分で認識するものだからじゃないだろうか。

自分自身で幸せの基準や象徴を決めて、
そこを満たしていかないと一向に幸福度は上がらないでしょう。

毎日なにごとになく過ごせることが幸せな人もいるし、
月に1回旅行をすることが幸せという人もいるし、
好きなものに囲まれて生活できている状態を幸せと思う人もいる。

なんだっていいの。

自分自身でそれに気づくヒントを得るために、
いろんな情報を取り入れるのはいいことだと思う。
けれど最終的には自分の言葉で「幸せとはなにか」を考えてみてほしい。

幸せの最低ライン

朝起きて、好きな人がそばにいることが幸せです。

外へ出て、季節の匂いを感じることができたら幸せです。

遠くの空が、わたしの好きな色に色づいているのも見つけたら幸せです。

疑問に思ったことを、自分の言葉で納得できたら幸せです。

苦手なものに触れなくて済む環境でいれることが幸せです。

わたしにとって幸せを感じるときってこんなもんだよ。

そりゃあ理想の人生とか、大きな成功体験とか、夢や希望もたくさんあるよ。
けど結局大きなそれらは、「幸せを感じる時間」をたくさん過ごしていく中で叶えていくものであって、もう一歩先の話だと思っている。

美味しいものを食べたり、友達と笑ったり、知らない街へ出かけたり。
当然テンションは上がるし、日々は豊かになる。

けれどわたしは、
美味しいご飯を食べなくても、友達と会えなくても、遠出ができなくても、
自分の中に浮かぶ疑問やモヤモヤを、自分自身で納得させることができていたら幸せな状態だ。

プラスで楽しいことやうれしいことがあったら、さらに幸福度は上がるのかもしれないが、
逆にベースの幸せな状態がなければ、食べる気にも、笑う気にも、出かける気にもならない。

わたしは幸せと本気で向き合ったとき、
「幸せとは、自分の人生に腹落ちしている状態でいること」
と”幸せの最低ライン”を設定をした。

毎日悩んで泣いても、どの悩みにも着地点があり、
悩むことにも意味があると思うと、不幸とは思わない。

突然目の前が真っ暗だと感じるほど不安になることもあるけれど、
それでも自分の言葉で向き合って、行動すると、
自然と良いところに着地ができる。そうやって都度、納得してきた。

必ず見つかる幸せのカタチ

自分なりの「幸せ」を、人と比べて「やっぱり変えたほうがいいかな」と思わなくてだいじょうぶ。
以前のわたしは思っていたけれど、結局人の真似をしても、それらしいことは言えてもバランスが保てない。

自分を満たしてくれるのは一体どんなもの・ことなのか、
ゆっくり向き合って考えてみてください。

そしてそれを自分ひとりで満たせるよう行動してみてください。

そうすれば自分で自分を幸せにできる、自立した人間になれるはず。
わたしもそうなれるように、考えることは止めないつもりです。


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