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18. 晴れた休日の、穏やかな過ごし方 【マジックリアリズム】

ベッドリネンを洗濯機に投げ込み、ミントの効きすぎたペーストで歯磨きをする。
冷たい水道水で顔を洗うころにはすっかり目も覚める。
身支度をしながら眺める動画の懐かしい方言。
ディスプレイに映る旅人には、窓の外に長く続く海岸線が似つかわしい。
風景の中に置いたPCは、現実と、もうひとつの現実とを容易く繋ぐ。

午前中のうちに部屋を片付ける。
週ごとに片付けているから、それほど荒れてはいないけれど、床掃除から洗面所まで掃除するのが習慣になっている。
すっきりと整うと、そのあとの作業がよく捗る。
集中するための、視界に余計なもの入れない配置と、デスクの上のシンプルなグラス。
肌寒くなる日は、深煎りの珈琲をいっそう美味しくするマグを置く。
プレイリストはクラシックからEDMまで準備してあって、というよりも追加していくにつれて、途轍もない数になっていく。
デジタルの時代でなければ、フローリングが痛むほど大量のレコードをしまう場所に困ったにちがいない。

取り掛かる前に、市街地に出かけることもある。
取引先の人からもらった円錐状の丸耳食パン。今朝はそれをどうしても買いたくて、外出することに決めていた。
焼き上がりの時間に行かないと売り切れるのが早いらしい。
生地にクリームが入っているのに、甘すぎず、サンドイッチによく合う。バターを落としてトーストしても香ばしくて美味しい。
ここに来る前に暮らしていた街のような交通機関は少ないから、自転車で移動することが多い。
大きなものを買うときにはレンタカーを借りることもあるけれど、店舗までは自転車で行く必要がある。

海と山の間の平野に広がるコンパクトな街、必要なものはたいていなんでも手に入る。
街に向かって自転車を漕ぐ道は、ごく緩やかな登り坂になっている。
ところどころ立ち漕ぎをしながら、中学生くらいのころを思い出す。学区を疎ましく思っていたと話したジョンのことも思い出す。

ぐんぐん漕いで、レンタカー屋を過ぎて、交差点を横切って、郵便局を越えて、モールの中を通過して、オレンジ色の屋根のブランジェリーに着く。
細かい話だけれど、ブランジェリーを名乗ることを許されているのは、小麦から自分で選んで焼いてその店で売ることをしている職人だけらしい。
焼きたてのふかふかした円錐型のパンがまだ何本も積み上げられている。
冷凍室の大きな冷蔵庫を選んでおいてよかった。
2本、購入した。

来たついでに、コーヒー豆の販売だけをしている焙煎屋に立ち寄る。
転居して、わりと早い段階で見つけた名店だ。絵に描いたような、バンダナと丸眼鏡のクセの強そうなお兄さんが経営している。僕の好みは、深煎りのシティローストだとよく知ってくれている。産地の珍しい豆が手に入ると、さりげなく「飲んでみる?」と勧めてくれる。
ここに来るようになって、珈琲関連の知識がぐんと増えたような気がしている。それまでの僕は、ちょっとかじっただけに過ぎなかったということがわかった。

帰りは、モールの外の道を走る。
もっとも大きく、高級なリゾートホテルの前を通り過ぎる。
テナントで入っているラウンジの珈琲も、さっき寄った豆専門店の商品を使っている。
月に2回くらい、自炊した日の夕飯後にここを訪れるのもこの暮らしの楽しみのひとつだ。眺めるだけでも気持ちがいいタイプの雑誌を2、3冊分と、気分に合ったアーティストのアルバムをダウンロードしたiPadを持っていく。中庭の松明も、ローテーブルのキャンドルも、ビロードのような夜の黒によく映えて、見ていると心も頭も鎮まる。

海岸に向かって、緩い下り坂を漕ぐ。帰りは立たなくていい。
寒くも暑くもない風は、清潔な潮の香り。
ものが少ない部屋に戻り、2cmの厚さにスライスしたパンにレタスとパストラミハムをはさんでランチにする。残りは2枚ずつ包んで冷凍室にしまう。
遠くから汽笛が聴こえて、すこしまどろむ。
一時的に仮眠をとり、シトラスとハーブのハンドソープで手を洗って目を覚ます。
膨大な量の音素材の中から、わずかなズレも感じないような、ぴったりの質感を持つ響きを選んでダウンロードする。

光が東から西にまわり、影は西から東にその向きを変えていく。

夕刻、空が黄金に輝いて、やがて区切りのないグラデーションに染まる。
僕はいつもの坂を登って、カフェ・マゼランに向かう。

To be continue..

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