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祖母のハンバーグ

「家出してきた」と祖母の家に乗り込んだのは、二月の終わり。暦は春に移ろうとしていたが、高校三年生の私にはその気配がまるでなかった。

「あれ、来たのかね」
「うん。ばあちゃん、元気そうだね」
 そう。七十を過ぎ、青白い、太った女性にしては。
「ママが、こんなのよこしてきた」
 玄関で立ちすくむ祖母に、私は靴も脱がずに手紙を押し付けた。
「『大学受験、ほぼ全滅ね。残るは国立後期。同級生との再会が後ろめたくなる大学に行くくらいなら、浪人しなさいね』……?」
 彼女は手紙を持ったまま、私を眺めた。いつもながら表情を欠いていて、何を考えているかまるで分からない。
「ま、上がりん。何食べたい?」
「ハンバーグ」
 祖父は無言で立ち去った。玄関に残された私は、真横に置かれた鏡の自分と目が合った。不機嫌を絵に描いたような女子高生が映っていた。

 居間では祖父が夕方のワイドショーを観ていた。彼はテレビに話し続け(「この犯人はひでえなあ」「お、カツオか! うまそうだ」)、隣に座る私は、言葉たちを通り過ぎるままにしていた。この家が好きだった。誰がどこに受かったという声の届かない、世界から切り離された家が。ぱちぱちという油の音が控えめに響き、肉が焼けるにおいが漂ってくる。ささくれだった心が和らいでいくのを感じてた。
 番組が切り替わり、祖父が「ちょっと便所」と席を立った時。テーブルに山盛りのハンバーグが置かれた。肉厚の「映える」ハンバーグと違い、本体はぺらぺらに薄い。しかし上には大量のデミグラスソースがかけられ、もくもくと立つ湯気とあわさり、毒々しい魅力を放っていた。まるで『家出』という罪の味を、たっぷり含むかのように。ほかほかの映えないハンバーグ(ほぼソース)を炊きたての白米と頬張るうちに、私は徐々に自分を取り戻していった。

 祖母はテーブル越しに座り、私の顔を見た。
「学校はどうかね?」
 すぐには答えられなかった。『頑張ってるよ』と答えるべきなのは知っていた。先生たちは熱心で、両親も過剰なほど応援してくれている。
「最悪。何かすごく不幸なことが起きて欲しい。落ちても言い訳ができるから」
 私は箸を置き、手を見つめた。
「ねえ。私は受験っていうゲームで敗者になりつつあるんだよ。勉強しか取り柄がないくせに。今さら運動や恋愛や他のゲームに行くには遅すぎるのに」
 祖母は何も言わなかった。私が口を開きかけると、異臭が漂ってきた。

 便所から戻った祖父が、顔をしかめた。
「うわ、くせえ! おまえ屁こいただろ!」
「あ? 屁の元(もと)は騒ぎ出すって言うがな」
「俺なわけねえ! 便所行ってたんだ!」
 私は二人を、ぽかんと口を開けて眺めていた。家出するまで思い詰めていた大問題が、何年も考えていたけど一度も口に出せなかった告白が、すべて煙に巻かれたのだ。それはハンバーグの湯気とともに宙に浮かび、消えていった。

 祖母は私に笑いかけた。あたたかく、すてきな笑顔だった。私は思った。
「諦めることはいつでもできる。だから、もうちょっとだけ頑張ってみよう」
 少しだけ努力してみて、疲れたらまたここに来れば良い。結果がどうであれ、祖母は気にもせず、またハンバーグを焼いてくれるだろうから。

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