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【ショートショート】彼の残り香

 最後に彼に抱きついた時、ある香りが鼻についた。私は顔を離し、彼のTシャツを見つめた。皺ひとつできていない。もう私に心を動かされないとでも言うかのように。再び抱きついて匂いをかいだ。
「何?」
怪訝そうな彼の言葉は頭の上を通り過ぎるままにさせ、意識を鼻に集中させた。香水と言うより石鹸に近い。きっと衣料用洗剤だ。お母さんが洗濯をし、畳み、しまっているのだろう。紡がれる彼の毎日に私が入る隙間は残されていない。
「だから、どうしたの?」
「いや、別に」
 ずっとこの香りに包まれていたいとは、言えなかった。

 彼は去り、私は空を見上げた。秋の空は深い青で、社会人一年目の冬は寒くて厳しいものになりそうだった。

 十年が過ぎた今、あの日と変わらず抜けるように青い空が広がる。私はリビングでオンライン会議を聴いている振りをしながら、夕食は何にしようか考えていた。自分の部署が発表を終え、別の部署の番になった。画面をオフにして洗面所へ向かい、洗濯物をどさどさと洗濯機へ放り込んだ。

 リモートワークの合間に家事をして、子供三人を保育園へ迎えに行き、疲れて家に帰ると家事と育児が待っている。何の為に生きているのか分らない日々に、気が狂いそうになっていた。母親は誰もがこの苦行を乗り越えている。私だけが弱いのか、彼女たちが強いのか。全てを捨てて消えてしまいたかった。
 
 洗剤を手に取ると、かつての彼と同じ香りが漂う。何の洗剤か知りたくて、色々と試したのだった。あれからずっと使っている。

 私はもう恋をすることはない。しかし子供たちにはたくさんの出会いと別れが待っている。その残り香は日常に発狂しそうな時、きっと彼らを救うだろう。たとえ実らなかった恋だとしても。
「よし、行くか」

 洗剤を洗濯機に入れ、ボタンを押してリビングへ向かった。ネットスーパーを注文しなくてはならない。私は母としてやるべきことをやる。いつか子供たちも、素敵な恋愛ができるように。

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