愛と死
あらすじ
八菱銀行で働く黒川礼子は、ポルノ小説を書くために休暇を取得していた。彼女はかつて家族を惨殺された経験があり、「生き残ったのだから、何か意味のあることをしなくては」と思い、小説を書くに至った。思うように筆が進まず困っていたところ、部下の風間から連絡を受けた。彼女の所属する「法人リテール・リスク統括部」は銀行員の不正を調査する部署で、ある行員の不倫の通報があったらしい。風間を相手役にしたポルノ小説を書いていくうちに、問題の行員と風間との、意外な関係性が見えてきて……黒川はポルノ小説を書き上げ、過去の傷を乗り越えることができるのか?
本文
ポルノ小説をあと五日で書き上げなくてはならない。今すぐ。言葉を変えると「ただちに」。
「この表現は良いかもしれない。文字数を稼げる」と、私は深夜の二時に、実家の自室でつぶやいた。そうして目の前のデスクトップパソコンにタイピングを続ける。
・・・
「貴女は僕に抱かれなくてはならなりません。今すぐ」
「ねえ、もっと別の言い方はできないの?」
「貴女は僕に抱かれなくてはなりません。ただちに」
「そっちじゃなくて……まあ、いいわ。どうせそのつもりで来たんだしね」
・・・
ダメだ。ヒロインをこんなビッチ女にしてはいけない。そもそも、こんな書き出したと、誰がどこで何をしているのか全くわからない。まずは女性主人公である銀行員が、オフィスで年下の新入行員に口説かれている描写が必要だ。私は村上春樹じゃない。「読み進めていれば面白くなるかも」と辛抱強く読んでくれる、気の長い読者ばかりではない。どちらかというと週刊少年誌に近い。一ページ目、最初の四コマで面白くなければ、さようなら。
私はスクリーンに浮かんだ文字を消し続けた。まだ第一章、第一項、ゼロ文字。残りは二万文字、締め切りは五月五日の日曜日だ。今日は五月一日の水曜日、ゴールデンウィークの中日である。ゴールデンウィーク前半に書き進めるべきだった。「今はサウナに入ってゆっくりアイディアを練ろう。そしてゴールデンウィーク後半に書き上げよう」と考えたのが運の尽きだった。
人間はだいたい、自分の実力を見誤る。経営ノウハウを発信するうちに、欲が出て下手くそなポエムみたいな小説を出版して、ブランディングを棄損する者がいる。グラビアアイドルとして活動していくうちに、クリエイティブな人材であると錯覚して、ホテルの取材記事を書いてみたら、日本語を習ったばかりの外国人みたいな文章を晒す者がいる。ああくそ、でも彼らはいずれにせよ、書くことで金を稼いでいる。それは私が三十年の年月をかけて、手に入れたくて、まだかすりもしていない人生だった。
でも大丈夫。私は明日は有給を取っている。明後日からは連休だ。仕事の電話が入ることはない。昨晩、YouTubeで仕入れた「不安になった時のおまじない」を早速、実践してみることにした。
「私は不安である、私は不安である、私は小説が完成しないことが不安だ、私は小説が賞を取れないことが不安だ、私は作家になれないまま、八菱銀行の法人リテール・リスク統括部の会社員として一生終えるのが不安だ、彼氏ができないまま独身で終わるのが不安だ、何も成し遂げないまま死ぬのが不安だ……」
つぶやきながら、二本指で頭のてっぺんをトントンとタッピングする。次に額、こめかみを、口の上下、鎖骨をトントンと叩き続けていく。そうして最後に脇の「でも大丈夫」と叩いて終了だ。
「……ちっとも不安が取れないんだけど」
その場合、不安が取れるまで続けなくてはならないらしい。しかし、私にはそんなことをやっている時間がない。何も大丈夫じゃないが、それでも前に進まなくてはいけない時がある。今は十三時。外は土砂降りの雨で、いつまでこの天気が続くのか気になって来た。ゴールデンウィークに旅行へ出かける連中が、雨で嫌な思いをすればいいのにと後ろめたい願望を抱いてしまったこともある。天気予報を調べてみようと、スマホを手に取った。
スマホを手に取る。それは最も何かをやりたい時にやってはいけない行為だ。私はネットサーフィンをしているうちに眠りに落ちてしまった。
翌朝、スマホに着信があり、目が覚めた。発信源は、部下の風間だった。ポルノ作家から、銀行員「黒川 礼子」に変身する時間だ。
「黒川代理、おやすみ中にすみません」と、彼の澄んだ声が電話から聞こえる。清涼感のある、良い声をしていた。先ほどのタッピングを彼の声でやってもらったら、何か違ったのかもしれない。彼は声だけでなく、容姿もハンサムだった。二十二歳の新人なのに、恐るべき平静さを保ち続けることでも名高い。それは幼い頃に心の傷を負った者が見せる顕著な特徴だと知ったのは、少し後のことだった。
「良いよ。本当に手遅れになったから、すまながられるよりは。何?」
「銀行に通報が入って、どうすればいいか判断に迷っていまして」
「内容は?」
「青山支店の菅原代理が、既婚者なのに独身と偽り、ある女性と関係をもっていたらしいです。一年ほど不倫関係にあり、女性が気づいたとのことです」
私は心の中で舌打ちした。菅原は私の同期だった。新入行員の研修でクラスが同じで、数回飲んだことがある。国立大の理系出身、背は低く、銀色のメガネの後ろで目を輝かせ、興奮気味に喋る男だった。菜食主義者の会計士か、狂信家といったところか。あの手の人間は、折り紙で城を作るとか、レゴで家を建てるとか、その類のものをSNSで発信して、フォロワーを稼いで自己実現をさせておくべきなのだ。
風間は続けた。
「その女性の友人から、通報がありました」
「あれ。不倫された本人からじゃなくて、友達からなの?」
「はい。彼女は騙された女性と、会社の同僚だったらしいです。オフィスで落ち込んでいる姿を見て、見るに耐えかねて通報したそうです」
私は胸を撫でおろした。これなら休日を不意にせずに済みそうだ。
「つまり通報してきた女性も騙された女性も、銀行員じゃない外部の人間だった。そういうことだよね?」
「え? そうですけど……」
「それなら、私たちの出る幕じゃない。法人リテール・リスク統括部の仕事は、銀行内にあるリスクを統括すること。一応、人事部に連絡は入れておいた方が良いけど、店に行って取り調べをする必要はないよ」
沈黙。彼はどこか納得がいっていないようだった。新入行員である彼は、まだ銀行の独自ルールに慣れていないのだ。これは慣れるというよりも、体で覚えていくしかない。
「それってリスクをリスクとして見なせていないし、統括もできていないじゃないですか……」
うまいことを言う。かつて「ヘルス・ケア・マネジメント」という言葉について「アメリカ人は何もヘルシーじゃないし、ケアもされていないし、政府はマネジメントもできていない」と批判したジャーナリストに似ている。おそらく彼の親戚だろう。
「もう電話、切っていい? やることがあるんだよ」
私は時計を見た。十三時十五分。ポルノ作家になるために使うはずの時間が、またしても銀行員としての時間に蝕まれてしまった。人生は四千週しかない。限られた時間で、やるべきことをやらなくてはならない。
私は電話を切った。天気予報はもうどうでも良かった。どうせ一日中、家にいるのだ。世の中には知らなくてもいい情報があふれている。全て知ることは不可能なのに、インターネットの海にいると、全て知っていないと気が済まないような気がしてくる。私はパソコンに向き直り、執筆を再開した。
・・・
八菱銀行の丸の内本部に配属された新入行員Aは、セクシーな男の子だった。彼の澄んだ瞳の奥には、ふと悲しみが浮かびあがることがある。それは配属初日に私に渡された一通の手紙が、理由を物語っていた。
彼の母親の再婚相手は、経営者としては成功していたが、パートナー及び父親としては落第者だった。継父は欲望と闘争心の塊で、よく暴力を振るう男だったらしい。Aの母親が殴る蹴るの暴行を受けている間、Aはお姉さんと一緒に押入れに隠れていたようだ。そこでお姉さんはAの耳を塞ぎ、子守歌をずっと歌っていてくれたという。
Aは命の危険を感じた時は、すぐ横にあるそばの家に身を寄せていたと語る。学校では、何事もないように振る舞っていたようだ。「全ては完璧で、全部うまくいっている」と見せかけることには慣れていた。継父から「少しでも変な素振りを見せたら、お前の母親を殺す」と言われていたから。
「今でも大きい音が苦手です」と、Aは手紙で書いていた。あと人の骨が砕ける時の音も苦手だと付け加えていた。そんなもの得意な人間はいない。心の中で突っ込みながら、Aがこれを手紙にしか書けない理由がひしひしと伝わってきた。
銀行では、リスクを徹底的に排除したがる。そのため採用時には学歴以外にも、暗黙のフィルターが貼られている。片親、税金の滞納者、親が高齢者という候補者は除外される。Aの両親は戸籍上に問題はなかった。Aは施設に入れられることもなく、慶應義塾大学を卒業して、日本最大のメガバンクである八菱銀行へ入行してきた。
「……はい、法人リテール・リスク統括部のAです。どうしましたか?」
私は彼の声で、現実に引き戻された。時刻は十九時。仕事に熱中していて気がつかなかったが、とっくに定時を過ぎている。私は彼に帰る指示を与えることを忘れていたようだ。
横に座る風間は、行員に一台支給されるスマホに耳を当てながら、丁寧にメモを取っている。綺麗な字をしていた。彼は冷静に話を聞き、通話を切った。
「銀座支店から、バス代の不正受給の件で通報がありました。お客様サービス課の女性行員です」
「通報者は?」
「同じ課の女性行員です」
また内部告発だ。銀行員の不祥事のほとんどは、同僚や部下、上司からの通報で発覚する。
「配属早々、事件を引くとはついてるね」
「そうかもしれないですけど。もっとついてるのは、黒川代理の部下になれたことです」
「どういうこと?」
彼は返事の代わりに、私に口づけた。彼が先ほどまで飲んでいた、アイスカフェオレの香りがした。彼は私を抱きしめた。私も彼を抱きしめた。今までの罪や、罰や、何もかもを抱きしめた。彼の手は私の服を滑りつつあった。胸への優しい愛撫は少しずつ激しいものに変わっていき、誰もいない丸の内本部のフロアで……
・・・
「ああ、ダメだ」
私はパソコンの前で声を上げた。お色気シーンまでが長すぎる。この手の小説を読む読者は、手っ取り早く「そういう気分」になりたいのだ。ヒーローの昔話なんていらない。「イケメンだけど闇を抱えた新入行員」とだけ書いておけばいい。
そもそも丸の内本部のフロアで誰もいないなんて、ありえない。主人公たちを営業店配属にすればいいのではないか? あそこなら金庫とか、会議室とか、更衣室とか、至るところにチャンスはある。実際に営業店で働いていた時も、同僚たちはありとあらゆる場所でせっせと行為に及んでいた。既婚であろうが、子どもがいようが、そんなのは関係ない。
「でも、営業店の情事なんて、ありきたりすぎるよね」
実際に何度も見てきたし、通報も受けてきた。いつも同じパターンだ。行員Aが新しく配属される。古くからその店にいる行員Bと、相談相手から恋の相手になる。恋愛は盛りあがるが、Aは仕事を覚えるにつれて、Bの助けがいらなくなる。Bは焦り、Aを脅す。
結果は二パターンだ。一つはBが異動になるパターン。事務場所が変われば恋愛のほとんどは解消されるから、ハッピーエンドだ。もう一つはAから通報があるパターン。店に調査をしに行かなくてはいけなくなる。AはBを処分して欲しいから通報するのだが、時には驚くべき事実に遭遇することもある。
かつて、通報を受けた、ある店の女性を思い出す。彼女は「課長と出張に行った際、新幹線の中で手を繋がれた」と連絡してきた。店に調査に行って、新幹線の領収書を確認した。指定席の番号から、二人の座席は違う号車であることがわかった。手をつなぐことは不可能で、その女性はセクハラを捏造していたのだった。
話を聞いていくと「課長と恋愛関係に陥ったけど、なかなか関係が切れずに困っていた。だから、虚偽の通報をした」と語っていた。その課長はタチが悪くて「キスをするまでお前の稟議書は見ない」と言ったり、手を繋ぐことを拒否すると、彼女が回した回覧物を机にしまい込んだりしたのだという。
「あの子、元気かな……」
確か彼女の名前は何だったか。まだ二十代で、今どきのように西洋風で、名前と顔が釣り合っていない女の子だった。名前を検索しようと、Facebookを開いた。今の世代は誰もFacebookをやっていない。そのこと思い出しておくべきだった。私の目に飛び込んできたのは、地方の非営利団体のセミナーで登壇したとか、テレビに一瞬だけコメントしに出たとか、外国人の妻と結婚したとか、そんなものばかりだった。三十代や四十代の、未だ何も成し遂げていない者たちが、承認欲求のお化けとなっている。見ているだけで吐き気が込み上げてきた。恥ずかしげもなくこんな投稿ができる、彼らの気が知れなかった。何より私の気分をすごく悪くさせたのは、同期のユリナの投稿だった。
東京育ちのユリナは、初任店で都内の有名店に配属された。そのことを当時は誇りに思っていたらしく、Xの自己紹介にも書くくらいだった。しかし京都へ異動になり、彼女の「TOKYO」のアイデンティティは消えてしまった。他に誇るべきものがなかったからだろう、彼女は早々に銀行を退職した。そしてコンサルタント会社に入り、ロンドンへMBAを取るために留学した。卒業して現地の外資系企業に就職し、現地人の男性も捕まえた。今や一児の男の子の母である。その様子が、ご丁寧にもFacebookで逐一報告されていた。元々彼女のことは苦手だったが、より一層嫌いになった。ここまで人を嫌な気持ちにさせることができるなんて、文才があるのかもしれない。
「しまった。こんなことをしている場合じゃない」
私は我に帰った。時間は十一時を過ぎている。十七時にはパーソナルトレーニングを予約している。パーソナルトレーニングなんて、よく考えるとバカみたいだ。「もっと筋肉をつけなくてはならない」という劣等感を刺激された、コンプレックス商法に騙されているではないか。しかし、月額利用料を払ってしまったのと、キャンセル期限はとっくに過ぎていた。もしかしたらキャンセルできるかもしれない、と淡い期待を抱いてスマホを手に取った。そしてまた見計らったかのように、着信があった。相手は先ほどと同様だ。
「黒川代理、またまたすみません」
「もう良いよ、お家芸みたいになってるから。今度はどうしたの?」
「個人のお客さん、というか正確にはお客さんは亡くなっていて、親族からの通報です」
スマホを握る手に力が入る。女の勘は当たったことがないが、「厄介なことになりそうだ」という予感はだいたい当たる。
「どんな内容なの?」
「お客さんが遺言書に『お世話になった銀行員さんへ』と残したとのことです」
私は胸をなでろした。本物の金持ちが、銀行なんかに遺言を頼むわけがない。彼らはプライベートバンクか、海外の銀行に資産を預けている。税金逃れをするためだ。風間の相手は、どうせ大した金額じゃないのだろう。私が鼻を鳴らすと、彼は続けた。
「その銀行員に贈与される金額は、二十億みたいです」
「は? 相手は?」
「僕なんです」
驚きのあまり、スマホを手から落としそうになった。
「今、どこにいるの?」
「丸の内本部ですよ。黒川代理は有給ですけど、僕は勤務中ですし」
「そ、そうだよね。ちょっとリアルで話そうか。東京駅のカフェ・リュウで落ち合おう」
こんなケースは初めてだった。風間には幸せになってほしいし、奨学金を返せるだけの金も稼いでほしい。精神を患ってしまったお姉さんと、刑務所に服役している母親も世話もあるので、何かと入り用だ。しかし私が何より恐れているのは、彼が銀行を去ってしまうことだった。
私の家から丸の内本部までは、三十分はかかる。日比谷線から千代田線に乗り換える必要があるが、三十分あれば一章を書き終えることができるかもしれない。そう思った私はタブレットを忍ばせて、電車に乗り込んだ。個人のパソコンは情報漏洩の恐れがあるため、銀行には持ち込み禁止なのだ。何もかもが、私が作家になるための邪魔をしてくる。
「そもそも、どうして作家にならなきゃいけないんだっけ?」
電車が出発して、私はふと我に返ってしまった。何が私をここまで駆り立てるのだろう。もう三十歳だ。私より若くデビューしている子はたくさんいる。ユリナのように、うまい具合に海外でのうのうと暮らしている女もいる。彼らと私で何が違うのだろう。そういうことになっているのだろうか。深淵を見つめて真実に気付いてしまうと、泣いてしまいそうだ。
結局、一文字も書かないまま、東京駅に着いてしまった。私は風間との待ち合わせ場所である、東京駅の真上にあるカフェ・リュウに入った。外国人をターゲットにした、和を全面的に売り出している高級店だ。二十億円と聞いてこれくらいの店の方が景気がつきそうだと思ったが、この選択はハズレだった。ウェイトレスはいけ好かない、嫌な目つきをした女性だった。私のように白いTシャツと黒いパンツで店を訪れる人間なんて、いないのだろう。周りの日本人はみんな綺麗な格好をしていた。
「黒川代理、すみません。遅くなりました」
私がコーヒーを注文し終えると、風間がやって来た。彼は軽く手げ、アイスカフェオレを注文した。ゴールデンウィークの中日で次長も私も休みだからか、割とカジュアルな格好をしている。ノーネクタイで、白いワイシャツにネイビーのパンツ。きっと良い年の取り方をするだろう。ダンディなおじさまになりそうだ。こんな格好いい男性と話せるのも、会社員ならではの役得だろう。私は口を開いた。
「で、どうするの? 遺言は」
「今、次長が倫理委員会に調査を依頼したそうです。僕もしばらく事情聴取が進みそうですよ」
彼の口ぶりから、徹底的に問い詰められたことが伺えた。
「色恋営業はしていたの?」
「まさか。九十歳のおばあちゃんですよ」
その一言は、私の心を貫いた。彼はやはり、年上の女性なんかに興味はないのだ。夢を見てはいけない。いや、夢は見ても良いかもしれないが、それが現実になると期待してはいけない。それは妄想として、小説に書き殴るしかない。彼のスマホが鳴り、彼は「ちょっとすみません」と言って席を立った。なんだか今日は彼に謝られてばかりだ。お詫びに何かしてもらえるだろうか。例えば、二人でホテルに行くとか……私はタブレットを取り出して、彼を待つ間に小説を書くことにした。
・・・
彼が配属されて一ヶ月が過ぎた、五月のある日。奇妙なほど暖かい夜だった。業務を終えて二人で駅へ向かっていると、Aは出し抜けに言った。
「B代理、今夜暇ですか?」
「え、暇だけど……」
「メシ食いに行きません?」
それがご飯だけで済まないことは、Aの口ぶりからは明らかだった。それらしい居酒屋で空腹を満たし、満たされていない残りの欲を満たしに行くところは決まっていた。東京駅の周辺にはラブホテルがない。元々そのような建物が建っていた土地ではないからだ。風営法によって、ラブホテルを新しく建てることは難しい。じゃあカップルは、どこで愛をかわせばいいのだろうか。丸の内に本店を構えることができる大企業は、大体が独身寮か社宅を持っている。家に帰っても、致すことはできない。彼らがどこで愛を育んでいるのか、そのようなものに今まで縁がなかった私にとっては、全く無知の世界だった。
だから、彼が高級ホテルの一室にチェックインをした時、全ての謎が解けた気がした。彼らは高給取りではないにせよ、一般男性よりも高い給料をもらっている。時間も労力も仕事に奪われているため、特に趣味といったものはない。だから、ここで金が使えるのだ。
ホテルの部屋に入ると、彼は私を抱き寄せた。そして深く口づけをした。私は体がこわばるのを感じた。キスをする時、目は開けていいんだろうか。それとも閉じた方がいいのだろうか。正解が分からない。銀行のように、全てマニュアルになっていればいいのに。
「緊張していますね。かわいい」
その声はどこか遠くから聞こえたような気がした。しかし、彼の表情を見ると、どうやらそれは彼の言葉であると分かった。流れるように二人でベッドに行き、彼は私の上に覆いかぶさってきた。
「私なんかでいいの? こんな年上の……」
「僕は若くて薄っぺらい見た目だけの女の子より、たっぷりと中身の詰まった三十代の女性の方好みなんですよ」
「九十歳のおばあちゃんでも?」
「さすがにそこまでは守備範囲外です」
軽口を叩きながら、彼は上手に私の服を脱がせた。もっとかわいい下着を着てくればよかった。しかも最悪なことに、上下が別だった。それを隠そうと、ベッドボードの照明を暗くしようと手を伸ばした。その手は彼によって阻まれた。
「明かり、消さないでくださいよ。きれいですよ」
「だって、部内恋愛は禁止でしょう。上司と部部下でこんな関係になるのって、まずいんじゃないの」
「じゃあ今から彼氏と彼女になりましょう。それで問題ないですよね?」
彼は頭の回転が早い。口論で叶うわけがない。何もかもが恥ずかしかった。全ての女性はこんな恥ずかしい経験を乗り越えているのだろうか。私の着の心配は杞憂で、彼はすぐに着のホックを外してきた。既に立ち上がっている頂を見て、微笑んだ。見事な歯並びだった。
・・・
いまひとつだ、と私は手を止めた。描写がぬるい。歯並びなんてどうでもいい。読者は早く挿入して欲しいに決まっている。現代人は刺激に慣れている。もっとハードなものを書かないと、離脱してしまうだろう。
「何しているんですか?」
「う、うわ。おかえり」
彼の声によって、ここはホテルではなくカフェだと気が付いた。目の前にはとっくにドリンクが並んでいる。あの無愛想な店員が、無言で置いて行ったのだろう。彼にはエロ小説を書いていたなんて言えない。
「電話、次長からだったの?」
「はい。ご遺族から問い合わせが来ているようですよ。ご多分にもれず、遺産を巡っても揉めているそうです」
「金持ちって揉めないために遺言を書いているのに、絶対に揉めるよね」
「多分、裁判になるでしょうね」
彼はどこか遠い目でアイスカフェオレをすすった。喉仏が動いていく様子は、色気があった。
「もし二十億を手に入れたら、黒川代理はどうしますか?」
「どうだろう。考えもつかないね」
考えたくない、というのが正直なところだった。金で解決できることに怖いものはない。望みなんて一つしかない。彼は言った。
「僕は、困っている子どもたちのために寄付しようと思うんです」
「全額?」
「はい。税金で一部は持って行かれますけど、全額です。僕がクソ親父に人生を台無しにされなかったのは、本当に運が良かっただけなんで。もし黒川代理に寄付したい団体があったら、教えてもらったらそこにも寄付しますよ」
彼の言いたいことがわかってきた。私の沈黙は、彼に次の言葉を続かせた。
「ニュース、見ました。数年前の一家強盗殺人事件、生き残ったただ一人の家族が、黒川代理だって」
「……」
「お父さんとお母さんと弟さん。一度に失ってしまうなんて、辛いですよね」
私が小説を書き始めたものも、あの事件がきっかけだった。何か現実から逃げるものが必要だった。現実ではないどこかで、「私」幸せになって欲しかった。ミステリーが一番書きやすいのだろうが、どうしても「誰かが大切なものをなくす、そして永遠に戻ってこない」という描写に耐えられなかった。ホラーも同様。歴史は苦手。恋愛はしたことがない。残された手は、ポルノ小説だった。
「……家族を亡くした方の団体がありますよね。ご遺族にグループセラピーを行っているみたいですよ。あそこに寄付しましょうか?」
「いや、大丈夫。その団体のグループセラピーに行ったことがあるんだけど、私には合わなかった。誰かが話すたびに『でもお前には、親がいるだろう』とか『良いじゃない、あんたには子どもがいるんだから』とか僻んでしまって、どうしてもダメだった」
そうですか、と言って彼はまた遠くを見つめ始めた。未来でも見ているのだろうか、その先に私はいるのだろうか。きっといないに決まっている。数年後には、私も彼も異動して、別々の場所で働いている。彼が私を思い出すことはないだろう。きっと、私だけが忘れられない。そうして一人でこのカフェに来て、愛想の悪い店員に接客をされながら、思い出に浸るのだろう。
「本当は開示しちゃいけない約束なんですけど」と彼は話を切り出した。
「菅原代理の恋愛事件。あれの被害者、元うちの銀行員なんですよ」
「え?」
「ユリナさん。ご存知ですか?同期ですよね」
「だってあの子、海外にいるんじゃないの?」
「どうやら旦那さんからDVを受けて、一時的に実家に身を寄せているらしいですよ。菅原代理とは同じ店だったから、相談相手になってもらっていたみたいです」
驚いた。彼女のSNSには、キラキラした写真ばかりが載っていた。白人との混血らしい青い目と雪のように白い華、天使のように金髪の赤ん坊の写真が毎日のように、アップされている。「海外に来られて本当に幸せ」という文章も印象的だった。そのことを彼に話すと、彼はどこか見下げた口調で行った。
「それって、本当に幸せじゃないから、そんなことSNSに載せているんじゃないですか? そうやって載せていないと、自分を保てないんですよ。『幸せだから、大丈夫。私はキラキラしているから、大丈夫』って言い聞かせないと、やっていけないんです。本当に幸せだったら、SNSなんて投稿しませんよ。芸能人でもない限り、誰からも求められていないです。求められていないのにやるのは、自己満足でしかありません」
私は先程やっていた、タッピングを思い出した。「私は不安です。でも、私は大丈夫」と。あれは不安だし、大丈夫じゃないから、やっていた。きっとSNSも同じなのだ。
「よく、そこまでわかったね」
私が言うと、彼は罰が悪そうに言った。
「実は菅原代理の奥さんが、僕の姉貴なんですよ」
「え?」
「姉貴には幸せになってほしかったんですが、彼相手では難しかったでしょうね。夫婦カウンセリングにも通っていたみたいですが、ダメみたいです。いつも浮気をしていたし、地方勤務も多かったので、機会も多かったんですよね」
私の大嫌いなユリナが、風間の姉さんと同じ相手を好きになるなんて、何だか複雑な気持ちだった。私よりも風間と多く共通点を持っていることで、またしてもユリナには負けた気がした。
「そっか。だから菅原代理がお咎めがなしで、嫌な気持ちになっていたんだね」
「はい。姉貴も男性で嫌な思いをしてきたんで。ま、あの人にも自業自得なところはあるんですけど。いずれにせよ、菅原代理には、何らかの罰は食らって欲しかったですね」
「大丈夫だよ。人生ってブーメランみたいに、自分のしたことは帰ってくるから」
彼は笑った。彼の笑い方が好きだった。口だけでなく、ちゃんと目も笑う。銀行に入ると、目と姿勢と性格が悪くなる。彼はどれも悪くなっていない。窓の外では雨は止んでいて、嵐の前の静けさではあるが、束の間の平穏が訪れていた。心が緩んでしまい、私はつい口に出していた。
「今日が、あの人たちの命日なんだよ」
彼の目から笑いが消えていった。しかし、あたたかい雰囲気だけは残っていた。
「あの経験には何か意味があったって、そう思いたい。私には絵を書いたり音楽を作ったりすることはできないけど、文字を書けるでしょう。だから、小説っていう形で何かを残せればいいなと思ったんだよ。でも全然ダメ。全く書けていないんだ」
「別に意味なんてなくてもいいんじゃないですか?」
私は彼を見た。彼はアイスカフェオレを飲んで、静かにテーブルに置いた。
「うまいもん食べて、寝て、セックスして。シンプルに生きていれば、良いんじゃないですかね。自己実現とか、それって結局、誰かの価値観じゃないですか。他人の人生を生きようとするから、おかしくなるんですよ。。着心地の悪い服を着ていると、調子が狂うじゃないですか。書きたくなければ、書かなくて良い。生きることに意味なんかいらないですよ。基本的人権の尊重って、憲法にあるじゃないですか。人間は生きてるだけで尊いし、溺愛されて良いんですよ」
私は俯いた。そんなことを言ってもらったのは、生まれて初めてだった。いつも頑張り続なくてはならない人生だった。両親はサラリーマンだったので、土地や会社など残せるものは何もない。私に残せる唯一の財産は、学歴と職歴だった。彼らはその分野において成功することだけは、知っていたから。いい大学と大きな会社に入ること教えてもらっていたけど、人生という大海原で溺れないように、疲れないように泳ぐことは、教えてもらえなかった。
葬式でも、マスコミとの対応でも「頑張れ」「今は辛いけど、傷はいつか癒えるから」という言葉をかけられ続けた。正直言って、うんざりしていた。頑張ることなんてとっくにできなくなっていたし、傷は半年経った今でも癒える気配がなかった。
家族が全員死んだあの日、私は弟の部屋を片付けた。「漫画で読む日本の歴史」シリーズをきちんと一巻から並べ直して、ぐしゃぐしゃにしまわれていた洗濯物を一つ一つ畳んでいった。アニメキャラのぬいぐるみをベッドに綺麗に並べておいた。
両親の寝室には、入ることができなかった。そこは私が彼らを発見した場所だった。「おそらく家族はみんなで、あの寝室に逃げたのだろう」という分析がされた。犯人は捕まっていないので、未だに謎は解明されていない。
次長から独身寮に入ることも勧められたが、断った。この家で暮らし続けることで、いつしか私も幽霊の仲間入りができると思ったからだ。私が営業店から本部に配置換えにされたのは、幸いだった。この世の全てを呪っているような女性行員から、仕組債を買うバカはいない。
「黒川代理、いつも辛そうな顔しています。一人で抱え込まないでくださいよ」
私が記憶の溝にはまって動けなくなっていた時、彼の言葉がすくいあげてくれた。
彼はいつも困っていると助けてくれる。営業店とは本部でコピー機の仕様が違い、困っていた私に声をかけてくれたのも彼だった。「上司は部下よりも、何でも知っていなくてはならない」という風土がはびこる銀行で、彼は少し浮いていた。それは私の心に開いた穴に、すっぽりとはまるように思えた。過去と現実がごちゃまぜになった私は、ほとんど耄碌としていた。自分が小説の中にいるような気分になって、ほとんど無意識に口に出していた
「じゃあ風間は、私とセックスしてくれるの?」
今まで数多くの失敗をしてきたが、これの比ではなかっただろう。彼の顔から表情が消え失せた。人間は理想と現実にあまりにギャップがありすぎる場合、奇怪な行動に走る傾向がある。そうすることで、バランスを保とうとしているのだろう。私は言葉を続けた。
「無理でしょう? 私は三十歳で、家族を惨殺されている。これといった財産もない。風間は二十二歳で、二十億の遺産を手に入れる。そんな金額を目にしたら、寄付なんて考えはどこかに飛ぶはずだよ。バカバカしい同情はやめてほしい。憐れみなんて、家族を失った日から今までで、十人分くらい浴びてきたからね」
彼は私を見つめた。その目からは何の表情も読み取れなかった。外では雨が降り始めていた。そういえば今日は土砂降りになると言っていた。身軽な風間を見る限り、どうやら彼も傘は持っていないようだ。これがポルノ小説なら「ちょっと雨宿りついでに、ラブホテルへ行こう」となるだろう。そこで愛を育み、実は前から好きだったという。愚かな話だ。「実は」なんて言う前に、人は人生を終えてしまう。私が弟にかけた最後の言葉も、彼が会社を辞めようか続けようか迷っていた時に、「ひとまず続けたら? ちゃんとしなよ。社会人なんだし」という年上ぶったクソバイスだった。もっと心に寄り添ってあげたり、飲みに連れ出したりしてあげたこともできただろう。
あの夜、私は銀行の送別会に出かけていた。私抜きで家族が一家団欒をしていた際に、事件は起こったのだ。大して関わりを持たなかった同僚に時間を費やすよりも、弟を外に連れ出していたら、少なくとも彼の命だけは救えていたかもしれない。
私はまた記憶の海に溺れていたので、彼の口が動いた時、それが何だったか聞き取ることができなかった。
「え、今なんて言ったの?」
「だから、良いですよって言ったんです」
沈黙。私はゆっくりとあたりを見渡した。あのウェイトレスが退屈そうに虚空を眺めているだけだった。私は彼に向き直った。
「本気なの? 私がもし十歳若ければ、 っていう前置きなしに?」
「ええ。ただし部署内に言いふらすとかは、やめてほしいですけど」
「そんなことをするわけがないでしょう」
「ですよね。お互い利害が一致しているというか、一番誰にも言わなさそうな女性が黒川代理ですもん」
彼はスマホを眺めて「このホテルなんかいいかな」と言いながら、URLをLINEで送ってきた。
「じゃ、今日の夜にここで集合で。二十時でいいですか?」
私は頷いた。こんなゆっくりと頷いたのは、人生で初めてだった。そして今まさに人生で初めての、セックスを経験しようとしている。
お会計はどちらが払ったか覚えていない。風間は昼の休み時間を終えて、仕事に戻って行った。彼と別れて私はすぐに、ホットペッパービューティーを開いた。ヘアサロンで髪の毛をトリートメントしてもらい、フェイシャルエステに行きたかった。
「でも全身を見られるから、全身を綺麗にしてくれるサロンじゃないと……」
こうなると、全身を全て取り替えた方が早い。むしろ私じゃない誰かに行ってもらった方が早いのではないか、という気もしてきた。試しにデリヘルの値段を調べてみる。自宅の住所を入力して、見積もりを依頼した。いや、風間と待ち合わせをしたホテルに、彼女たちの誰かを派遣するのも良いかもしれない。ああ、くそ。でもそれじゃ、何の意味もない。私はひとまず家に戻り、少なくとも今は上下バラバラである下着を揃えるために、家にあるブラジャーとパンティを思い出すために、頭をフル回転させた。
私は家に入り、二階の自室へ上がって行った。階段を上がっていくうちに、これはタチの悪い冗談なんじゃないかと思い始めた。「ドッキリ」というプラカードを持った部の人間たちが、めかしこんだ私をホテルで迎えるのではないか。私は階段がりきったところで立ち止まり、ホットペッパービューティーのアプリを閉じた。予約の直前まで行っていた。そういえば母親も殺される直前に美容院の予約を入れていた。ミステリー小説である常套句だ。「自殺であるはずはない。被害者は美容院の予約を入れていた」。
そこで私はパーソナルトレーニングのことを思い出した。レッスンも無断キャンセルしてしまったようだ。ちょうどいいや、と私は思った。パーソナルトレーナーは最近勘違いをしていて、私が私の筋肉目当てではなく、彼の肉体目当てに来ていると思い込んでいる節がある。とんだハッピー野郎だ。そのお気楽な思想をSNSで発信したら、信者から金を巻きあげることができそうだ。
私は小説のことを思い出した。そうだ、書かなくてはならない。私はスマホでおもむろに小説の画面を開いた。
・・・
私は自室のドアに手をかけた。そこで違和感に気が付いた。わざわざ自室のドアを閉める習慣はなかった。警察が入ってきたんだろうか。考えを巡らせていると、答えは向こうからやってきた。ドアが勢いよく開いたのだった。
そこに立っていたのは、よく見知った顔だった。黒髪のボブ、真っ白の肌、そして大きな胸をしていた。
「鍵、かかってなかったわよ」
「だからって、勝手に入ってわけじゃない」
「呼ばれたから来ただけだけど?」
彼女は先ほど私が見ていたデリヘルのサイトから来たらしい。私はスマホをもう一度見直した。どうやら本当に呼んでしまったようだ。
「で、プレイするのかしら? 女性も対応できるわよ」
彼女は思ったほど弱くもなく、怯えていない。私は頭がクラクラしてきた。この後でAとのセックスが控えている。それなのに男性と経験するよりも前に、女性と経験しなくてはならないなんて。私は断りの文句を口にしようとして、思いとどまった。どうせ安くないお金を支払わなくてはならないのだ。
「色々と教えてもらうことはできるの?」
「もちろん。プロだしね」
私は彼女を見つめた。彼女の胸は少しだけ垂れ始めていた。彼女の大きな胸が大好きだったイギリス男は、胸が垂れ始めたからDVをしたのだろうか。それでもなお、彼女の魅力は損なわれていなかった。男性の好きなものを全て集めたような女性だった。
「ユリナ……」
「その名前で呼ばないでくれる? この仕事は別の名前でやっているの。リリーとして」
「そう。じゃあ、相手を喜ばせる方法を教えて欲しいんだけど」
彼女は意味ありげにニヤリと微笑んだ。
「ははあ。これから誰かとセックス? 意外ね。そういうことしそうなタイプじゃないのに」
「だから、教えて欲しいんだよ」
「いいわよ」
「相手は誰か聞かないの?」
「今のあたしはリリーだから、相手が誰だか聞いても名前は分からないからね」
彼女は私に「まず一緒にお風呂に入ろう」と言ってきた。私はそんな時間はないと言ったが、彼女は首を振った。
「本番でも、まずシャワーを浴びるじゃない?」
「本番って……」
「別にあんたが不潔じゃないことは知っているけど、ダメなものはダメ」
私はあの日以来、家の風呂を使えていなかった。「犯人が血を浴室で洗い流した」と聞いてから、扉を開けることができなくなっていた。サウナにはまっているのも、銭湯を利用し始めたからだった。
「はいはい、さっさと行くわよ。時間、ないんでしょ? 洗ってあげるから」
彼女に促されて、私は階段を降りた。そして風呂場へ行き、彼女に服を脱がされた。
「そ、それくらい自分でやるからいいよ」
「あたしがやる方が早いから」
彼女は手際よく私の服を脱がせた。そして自分の服も脱いだ。彼女の胸は質量がありつつ、乳首も綺麗なピンク色をしていた。彼女もまた私の胸を見て、言った。
「まるまると引き締まってる、見事なバストね。ツンと上を向いていて、かわいい。何も恥ずかしがることはないわ」
彼女は胸を揺らしながら、私の体を褒めてくれた。意識して揺らしているわけではないのだと思うが、彼女が喋るたびに胸がふるりと揺れるのだ。私はその様子を、唾を飲んで眺めていた。どちらかというと彼と交わるよりも、彼女をずっと見ていたいような気すら起こさせた。私の手を引いて、彼女は浴室へ入った。
「お湯は張っていないから、シャワーだけで済ませましょう」
手際よくシャワーを出して、冷水の次にお湯が出てきた。私たちは二人で立ったままシャワーを浴びるかたちとなった。
「頭は洗わないの?」と私が聞くと「まさか」と彼女は笑った。
「私たちが一番嫌うのは、頭を濡らされることよ。ヘアキャップって、夜のお姉さんが同伴する前に頭を濡らしたくないから、広まったの」
二人の間に、心地よい沈黙が訪れた。彼女が知的であることをアピールする様子は痛々しくもあり、かえって私の心を慰めていった。あんなにキラキラした生活を投稿していたのに、実生活は私なんかと二人でシャワーを浴びているのだ。
「ここでシャワープレイをして、延長もできるけど?」と彼女はねっとりとした声で言った。私は黙っているために、ありったけの自制心を働かせた。それも悪くないような気がしたからだ。また化粧をして、下着を揃えて、おしゃれ着という戦闘服を着て、西麻布まで出かけなくてはならない。それはひどく億劫だった。際限なく続く大きな期待と大きな失望が続く人生に、いい加減、疲れ果てていた。
「リリー、延長はできる?」
彼女の唇が弧を描いた。「もちろん」と勝ち誇ったような彼女の声を聞いて、私は何かに敗れた気がした。後悔より先に、快楽が私を襲ってきた。彼女が私の胸の頂を、巧みな手つきでこねくりまわし始めたのだ。
・・・
ここまで書いたところで、スマホに着信があった。それは美容院からだった。トリートメントの予約をしたのを、私はすっかり忘れていたのだ。私は電話に出ることにした。
「道が混んでいまして、あと十五分くらいでつけると思います」
そう言いながら、階段を降りて行った。よく考えたら、先ほど風間と会ったばかりだ。服を変えて行くのも、気合が入ってると思われそうで嫌だった。白いTシャツに、黒いパンツ。いいじゃないか、どうせすぐに服を脱ぐんだ。下着が上下バラバラなのは、ラブホテルの照明を暗くすることで解決することにしよう。私は自室に戻ることなく、家を出た。タクシーを拾い、美容室まで連れて行っても行ってもらうことにした。とあるインフルエンサーが投稿していたポストを思い出す。「美容の一番の敵は、『面倒くさい』と思うこと」と。そのインフルエンサーは、確かエッセイ本を出版していた。中身は薄っぺらく、十年後には忘れ去られていることは間違いなかった。
タクシーの中で、私はまた小説を書くことにした。
・・・
リリーの愛撫が下半身に移行しようとした時、私は銀行員ならではの性で、あることが気になってしまった。
「ねえ。リリーの取り分はいくらなの?」
「店が7割、あたしに3割」
「延長した分は?」
「さすがね。延長したことは店に伝えないわ。現金支払いだから、全部あたしに入る」
「お迎えの車の運転者さんに気づかれるんじゃない?」
「彼らを丸め込むなんて、わけないわ」
この能力を、銀行でも発揮して欲しかった。でも銀行で力を発揮しないからこそ、こうして副業に精を出せているのかもしれない。
・・・
「くそ、ダメだ」
私はスマホの画面を閉じた。性描写以外のシーンが長すぎる。取り分なんて、読者の何の足しにもならない。
そもそも私は女性との経験がないから、どうやって次に進めばいいのかわからない。やっぱり本当に経験をしてみないと、この手の小説は書けないのかもしれない。私は窓の外を見た。明治通りは土砂降りの雨が降っている。視界が悪く、街全体が苛立っているように感じた。それはタクシーの運転手も例外ではないようだった。彼は腹立たしげにハンドルをトントンと叩き続けていた。それはかつて私がやっていた、不安を取り除くためのタッピングを思い出させた。あの手のライフハックは、巷にいくつあふれているのだろう。それを実践しているうちに、人生はとっくに終わってしまいそうだ。動画を見て何かを試すよりも、必要なのは、人との触れ合いなのだ。だから人はポルノ小説を読むのだろう。
私はスマホを取り出し、LINEで風間の画面を開いた。LINEでメッセージをやり取りしたことはないが、電話番号は登録していたから、自動で登録されている。そこにメッセージを打ち込んでみた。「好きだよ。これから彼氏と彼女がするようなことをやるけど、私は本当にそうだったらいいと思ってる」と。
バカみたいだ。彼が私みたいな女性を好きになるわけがない。ポルノ小説を書いてその中で結ばれることが私にとって何よりのハッピーエンドなのだ。そしてその小説はと言うと、まだ書き上がってすらいない。
文字を消そうとすると、運転手が声を上げた。前方を見ると、道路に犬が飛び出していた。運転手はその犬を避けようとした。しかし雨で車はスリップして、そこからやけに時間がゆっくりと過ぎて行った。電柱に突っ込んだということだけは確かで、あとは霞がかかったように意識は徐々に失われていった。不思議と痛みはなかったが、ひどく眠かった。死ぬ時はこんな感じなんだろう。私の家族もそうだったのだろうか、そう思うと少し安心した。
医師からは軽い脳震盪だと言われて、検査入院をすることになった。しかし、それも一日だけで、高齢者であふれる病院は私を休ませてくれる病床はないらしく、早々に退院させられた。
入院中には、幸いなことに見舞いは不可だった。そのため、私は家族が亡くなってから初めて穏やかな日々を過ごすことができた。二日間、医師や看護師以外と口をきかないうちに、自分はもう誰でもなく、生きているとは思えなくなっていった。生きているふりをしているだけだ。ただ小説を書くことで、幸せな日々を主人公に送ってもらいたいと願っている、幽霊作家でしかない。
病院から家に戻り、私はまっすぐに浴室に向かった。シャワーを浴びたくてたまらなかった。検査のためにあれこれと体にテープが貼られて、その跡が不快だった。病院ではシャワーを浴びさせてもらえなかったのだ。浴びることはできたのだが、ホワイトボードに予約時間を書かなくてはならない。検査の合間の予約時間は全て名前が書かれてしまっていた。
蛇口をひねるとお湯が出て、私は好きな時間にシャワーを浴びられることに幸せを感じた。自己啓発のアホくさい本に書かれがちな「小さな幸せを見つける」というフレーズは大嫌いだったのだが、少しだけわかる気がした。
時間をかけて頭と体を洗い、タオルで水気を取ってから、私は両親の部屋に入った。そして母のパジャマに袖を通してみた。微かに母の匂いがした。彼女は厳しかった。塾のテストの点数が悪いと、湯船に頭を沈められたこともあった。それでも私は彼女の期待に応え続けてきた。よくやった方だと思う。自慢の娘だと、いつも近所に触れて回っていた。彼女は幸せだったのかもしれない。
両親の引き出しを開けてみると、私は中学生の頃の生徒手帳が出てきた。こんなものをしまっていても仕方がないのに。でも私はそれを眺めて、彼女の人生は幸せだったと確信した。少なくとも娘が会社を休んで、ポルノ小説を書いている姿を見ずには済んだのだ。
私は解放された気持ちでいっぱいだった。もうこの部屋に用はない。自室へ戻ろうとして、気がついた。今度は扉が開いている。しかも明かりがついていた。そこに誰かいることは明らかだった。私が階段の下からじっと眺めていると、自室からある人間が姿を現した。
「おかえりなさい」
それは風間だった。
「どうしてそこにいるの?」
「だって、約束したじゃないですか」
「あの日、あの場所の約束は、果たされなかったよ」
「女性のドタキャンなんて、よくある話です」
フェミニストが聞いたら真っ赤になって怒り出すであろう。彼はゆっくりと階段を降りてきた。「何をしに来たの?」と問い詰めようと口を開くと、彼は両腕を私の体に回してきた。そしてキスをした。
「あんなLINEを送られて死なれたら、夢見が悪いですよ」
私は彼が何を言っているか全くわからなかった。彼は私にスマホを見せた。それはLINEの画面で、私からのメッセージが一通、タクシーの事故の日に送られていた。
『好きだよ。これから彼氏と彼女がするようなことをやるけど、私は本当にそうだったらいいと思ってる」
私は彼の手からスマホを奪おうとした。彼はさっと私の身をかわした。
「無駄ですよ。スクショ撮って、クラウドに保存してあります」
そして私の全身をまじまじと見つめた。
「ていうか、そのパジャマ……明日、一緒に買い物でも行きます? あの駅ビル、ジェラピケ入っていますよね」
どうやら私は最悪の格好で、彼と会うことになったようだ。
翌朝は日曜日だった。保険金の申請や、銀行に提出する書類を作成しているうちに、午前中が過ぎて行った。
「こうやって忙しくさせて、病気の後にぼーっとできないような仕組みにしているんでしょうね。ぼーっとすると、色々考えちゃうから。考えると、ろくなことないから」
リビングのテーブルに広がる書類を見つめて、風間が感心したような声を出した。
「眺めてないでなんか手伝ってよ」
私が言うと、彼は肩をすくめた。そして「メシでも奢りましょうか? うまそうな店、探しておきますよ」と言った。それが友達同士で行う仕草のようで、私は何だか嬉しかった。
「出前でもいい? 外食する気分じゃないんだよね」
「出前って……おばあちゃんじゃないんですから。今の時代はUberですよ」
「おばあちゃんで悪かったね」
「ま、良いですよ。僕の好みはの女性なので」
「え?」
「あれ、言っていませんでしたっけ。僕、かなり年上までいけますよ。むしろ若い子は無理です。おばあちゃんの家にいたことが長いからかな」
彼はもうその会話に興味を失ったようで、言葉の後半にはスマホを見つめていた。私はそんな彼の様子を見つめていた。小説に書いたことが現実になるなんて、逆ではないのか。彼はスマホを閉じて、私を見つめた。
「こういう時は、キスするもんですよ」
私たちはそうした。昨晩、両親の寝室で起きたことについては、お互い何も言わなかった。それはある種の儀式のようだった。二人だけの秘密で、太陽の光の下で語るべきではない属性のものだった。
「風間、ありがとう」
「真面目だなぁ。ま、そんなところも好きですよ」
今では両親の部屋に入ることもできたし、シャワーも浴びることもできる。まだ頑張ることはできない。心の傷は癒えていない。でもなんとか夜を超えることができる。彼と一緒なら。
甘い気持ちに浸っていたが、書類の日付が私を現実に引き戻させた。小説の締め切りが迫っている。そして信じられないことに、第一章も終えていない。私の暗い顔を見て、風間は心配そうに声をかけてきた。
「どうしたんですか? どこか痛みますか」
「い、いや。何でもない……」
まさかポルノ小説を書きたいとは、言い出せなかった。私はスマホで次の小説大賞の締め切りを検索した。幸いその賞は毎年開催されていて、来年の応募でも良さそうだ。それまで彼に一年間、みっちりと取材させてもらうことにしよう。私の彼を見つめる目つきが熱を帯びていたのか、彼は「え、今からするんですか? もう注文しちゃったんですけど」と、嬉しいような困惑したような声を出している。
「何、頼んだの?」
「そばですよ。食堂で、いつも頼んでいたでしょう」
「……よく見てたね」
「法人リテール・リスク統括部では、観察が基本ですから。敬愛する上司に教えてもらいました」
最後に母から出された晩御飯がそばだったから、蕎麦もしばらくは食べられなくなっていた。でも、今なら食べられる気がする。まあいいや、私は思った。やっと自分を許して、愛することができそうだった。
「結局は愛なんだよね」
「え、どうしたんですか? なんだかものすごく、黒川さんらしくない言葉が聞こえてきました。もう一度、検査してもらった方がいいんじゃないですか?」
私は微笑んで、窓の外を見た。東京には水晶のように青い空が、どこまでも広がっている。富士山が見えそうだったが、さすがに家族のいるところまでは見えなかった。
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