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【エッセイ】1000人に1人の難病

あれは長男が五歳になった、夏の終わり。彼の闘病生活が三年目を迎えた頃だった。小児科外来の待合室で、長男の名前が呼ばれた。スマホで動物の動画を観続ける長男を引きずるようにして、私は診察室へ入っていった。白い壁、白いベッド、白衣を着た初老の先生。毎度おなじみの光景だ。前触れなく急変する長男の体調とは正反対で、心休まる場所だった。そのはずだった。

私たちが腰掛けると、先生はにこやかに長男へ尋ねた。
「太郎(仮名)くん、今年で何歳やっけ?」
長男はスマホから顔を上げ、ちらりと先生を見てあっかんべーをした。五歳です、とスマホを取り上げて私が応えた。
「年長さんか。来年は小学生?」
長男が首を縦に振り、先生は私の方を向いた。顔から笑みが消えていた。「そろそろ次の薬に切り替えよか。小学生に入る前の方が良いし」
「え」
全身に悪寒が走った。手からスマホがすべり落ちるところだった。『次の薬』は、副作用が強いと有名だったのだ。
今の薬でさえ、投薬後は副作用が出る。躁うつ病、不眠、身長の伸び悩みなど。
「あの、副作用は……」
「骨の発達、つまり身長は完全に止まる。あと脳に後遺症が残る」
沈黙。私は診察室を見渡した。毎月、「なかなか治りませんね」「もう少し様子を見よか」と談笑していた場所だった。今ではよそよそしく感じてならなかった。

「それ、大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫なわけないよね」
普段は穏やかな先生の口調も、どこか鋭い。
「でも今の薬は効いてないみたいだから。小児のネフローゼは三年あれば落ち着くはずなんや。太郎くんはそうじゃない」
私は言葉を失った。ひどく疲れて、だるかった。息をするだけで、とてつもない労力が必要な気がした。長男に視線をうつすと、ベッドの上で絵を描いていた。紙に描かれたカブトムシを見ながら、私は声を絞り出した。
「……この子は、どうなっちゃうんですか」
自分の涙声を聞くのは何年振りだろう。

先生は立ち上がり、長男の頭をぐしゃぐしゃとなでた。ぽかんとした顔で先生を見上げる長男に笑いかけ、先生は言った。
「どうもこうもない。普通の子と同じように育てれば良いよ」
今度は私がぽかんとしてしまった。先生は私を見て、やれやれと言った顔で続けた。
「あのね、ネフローゼごときでメソメソしちゃだめだよ。彼より重症な子はいっぱいいる。僕の患者で透析してた子は四人、腎不全になった子は三人いた」
「はあ」
「彼らはみんな、医者になった」
「え?」
今日の先生は、三分起きに意表をつく発言をしてくる。

長男のような難病の子は、生きているだけで充分。毎日、遊んで過ごせば良い。そう思っていた。勉強なんてもってのほかで、医者になるなんて考えもしなかった。
「確かにできないことはあるよ。オリンピック選手は難しいかもな。しょっちゅう入院するから」
先生につられ、私も笑ってうなずいた。長男もここ二年で、五週間ずつ入院していた。
「一方で自分が病気だと考えるみたいやな。同じような子を治したい、って。彼らは頑張って勉強してたよ。副作用と戦いながら、透析を受けながら、なんとか試験を受けたい、って僕のところに来てた」
先生は微笑んだ。心底からの、深い笑みだった。
「太郎くんの病気は大丈夫じゃない。でも彼の将来は、きっと大丈夫だよ」

一年が経った今、長男の夢は「生き物博士になること」。相変わらず動物や昆虫の動画を観て、絵を描き、図鑑を読んでいる。病気は治っていない。副作用に苦しむ日もある。そんな時、私は先生が照らしてくれた未来を思い出す。そこには想像以上にたくさんの道が開けていた。長男が輝ける道も、きっと見つかるはずだ。

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