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【小説】すごい冷蔵庫

 丸の内オフィスにある一階の冷蔵庫に入ると、猫になるらしい。
「成宮さん。あの噂、本当みたいですよ」
学生インターンの東也(トウヤ)が、真横から話しかけてきた。熱中するといつもそうなのだが、彼は身体を私の方へ少しずつ寄せて来た。私はデスクでコーヒーとパソコンを交互に見つめながら、話半分に聞いているふりをしていた。「大学三年生の爽やかイケメンは得だな」と思った。どんなアホな話をしても、愛らしく見えるのだから。若さを消費する方法に、個人差はある。どうやら彼は貴重な一日を、冷蔵庫に入ることに使うと決意したようだ。
Slackが耳障りな通知音を上げ、私は再び意識を画面に向けた。他人の粗捜しを働きがいにしている鬱陶しいチームメンバーが、全体チャンネルで私向けのメンションで発信していた。メールの文面に不備があったと、鬼の首を取ったような勢いで報告している。どの会社にも―といっても転職は一度しかしていないので、前の会社でも、ということになるが―、この手の女が必ず存在する。彼女らは自分の人生が満たされていないので、他人を貶めることで何とか正気を保っているのだ。
クソリプへの返信を終え、コーヒーのお代わりをしようと席を立つと、横にいたはずの東也がいないことに気が付いた。窓の外に目をやると、春の嵐が吹き荒れていた。

噂が流行り出したのは、暖かくなったと見せかけて急に冷え込んだ、三月の始め。「営業目標の達成は、どうあがいても不可能」と誰もが思いながら、口に出していなかった。チーム全員がやる気のある演技をしており、東也だけががむしゃらに努力を続けている。そんな二週間前のことだった。
あの夜はオフィスのイベントスペースで、坂本さんの送別会が行われていた。酒飲みの坂本さんを慕って集まるメンバーは百名を超え、相当な量のアルコールが行き交ったらしい。私は烏龍茶を二杯だけ飲んで早々に退散したから、詳細は分からない。東也を含むチームの何名かは最後まで参加しており、一部始終を見ていた。
オフィス一階には広々としたイベントスペースがあり、バーカウンターが隣接している。カウンターの奥には冷蔵庫があり、何らかの理由で仕切りが全て取り払われていた。そこで厚着をしていた坂本さんが、ふざけて冷蔵庫へ入った。オフィス内は相当に暖房が効いていたので、暑かったのかもしれない。しばらく経っても、坂本さんは出て来なかった。外から呼びかけても返事がない。扉を開けると、中には一匹の猫が入っていた。「誰がどう見ても」と、東也は言った。「あの猫は、坂本さんでした」。
坂本さん不在の送別会は、薄めたサイダーみたいに気の抜けた終わり方をしたらしい。猫は視線なんて気にしない素振りを見せて、颯爽と外へ出て行ったという。話はここで終わらない。翌朝、坂本さんの奥さんから行方が分からないと連絡が来たのだと言う。

『はたらく五歳児』が集まるITベンチャー企業では予想できたことだが、翌日から冷蔵庫に入る者が続出した。SNSのフォロワーを増やすためなら、彼らは魂だって売るだろう。
猫になる者も、ならない者もいるようだった。冷蔵庫にも好き嫌いがあるのかもしれない。Twitterのフォロワー三万人超えを達成し、起業する直前だった坂本さんは、好みだったのだろうか。私とは趣味が合いそうにない。
「……あいつ、本当に入ったのかな」
 別に東也の帰りを待つ必要はない。彼は半年前から体のいい労働力として搾取されている、学生インターンの一人に過ぎない。私なら無給で働くなんて絶対にお断りだが、彼曰く就職活動のアピールに使えるし、『日本イチの営業マンになる』という彼の目標達成には必要なプロセスらしい。

「そんなことをしないで、大学生のうちは思い切り遊んでおけば良いのに」
 ある日、彼の指導担である私は、ランチを共にしながら思わず口を滑らした。彼は言った。
「僕、東北の出なんです。老舗の酒蔵とか、伝統はあるけど金が無いとこが潰れてくの、嫌なんですよ。僕が営業して、復活させてやるんです」
 自分が二十歳の頃、こんな発言を口にできただろうか。泣きたくなるほど青い空を思わせる瞳に、思わず見とれてしまった。十歳年下の彼に心を動かされるなんて、どうかしてる。しかし私はとっくにどうかしていた。彼から昼食に誘われ、動揺していたのだろう。オフィスに財布とスマホを忘れて出て来たのだ。勘定は彼が払うことになった。

「くそ。すっかり忘れてた」
 私は悪態をつき、階段を降りて一階へ向かった。猫だか何だか知らないが、金を返さないまま失踪されてはたまらない。そのために彼を探しに行くのだ。彼の身を案じているわけではない。好意を寄せてはならない。不毛かつ無謀な恋をする気力も体力も、三十歳を迎えた私は持ち合わせていなかった。

冷蔵庫の辺りには誰もいなかった。会社はリモートワークを徹底しているので、出社しているのは学生インターンか面接担当者、イベントの登壇者くらいだ。冷蔵庫を開けても、中に猫はいなかった。東也もいない。私は誰にも見られていないことを確認し、中に入った。振り向いて冷蔵庫の扉を閉めようとするも、必要なかった。扉はひとりでに閉まったのだ。

「なんだ? ここ」
 冷蔵庫の中は、ちょっとした広場になっていた。どうやら別の世界へと繋がっていたらしい。舌打ちしながら辺りを見渡すと、満開の夜桜に囲まれていた。どこか仮想空間を思わせる、幻想的で美しい場所だった。辺りを見渡すと、先客がいる。惚けて木を見上げている男の子で、それは東也だった。

声をかけると、どろりとした焦点の合わない目がこちらを向いた。危うく叫び出しそうになった。とても彼とは思えなかった。どんな失敗をしても、叱責をうけても、彼の目から光が消えることはなかった。それは何かに挑み続けている者だけが持つことのできる、成功への光のはずだった。
「……あぁ、成宮さんですか」
 光が消えた目がこちらに向き、漆黒の髪は強い風に吹かれた。乱れた髪を直そうともせず、また恍惚とした表情で桜に向き直った。
「何してんだ。帰るぞ」
「どこにすか?」
「元いた世界にだよ」
 苛立ちを隠さずに言うと、彼は表情を欠いた顔で返した。
「嫌です。成宮さんも、すぐ分かりますよ。この世界では、全てがうまくいくんです」
 彼は口元を歪めて笑い、スマホを取り出した。ざざあ、と風が呻き、桃色の花弁が舞った。
「見てください。僕のフォロワー数。三千超えてるでしょ? 書いてた日本酒のブログがバズったんですよ。地元の銭湯インスタも」
「へえ。それで?」
「出版社から依頼が来て、日本酒の本を出したんです。銭湯のイベントにも呼ばれるようになりました。次はダイエットの本を出すんです」
 鼻を膨らませて話すバカに、返す言葉が見当たらなかった。この手の背骨を持たない人種は東京に、特に恵比寿あたりに腐るほどいる。
「あ、そう。じゃ、これだけ渡しておく」
 私は彼の胸に千円札を押し付けた。彼は珍しい虫を見るように、お札を見つめた。
「覚えてないか? ランチ奢ってもらったんだよ。『日本イチの営業マンになって、うまいもん奢ります!』って言ってたよ」
「あの時はそれが一番だと思ったんです。でも、気付いたんですよ。これがやりたいことだって」
「あ、そう。良かったな。金もあるし。でも私は今のお前に、奢られたくはない」
 沈黙が重い霧のように、私たちを包み込んだ。

自分の好みが流行と合致した者は、幸運だ。エネルギーを使わずとも、金を儲けることができる。大したことのない知識を情弱へ提供するシステムを、まわすだけで良い。長くは続かない。また次の流行が来るからだ。そうしたら、また自分の専門性を変えれば良い。サウナスパアドバイザー、ワインソムリエか、コーヒーマイスターなど、市場にはお手軽な自己実現があふれている。
 私は踵を返し、彼に背を向けた。行く当てはない。しかし一刻も早く、狂った世界から脱出したかった。
「……どうして、認めてくれないんですか」
 彼のものとは思えないほど、低い声が追いかけて来た。振り向くと、彼の背後に妙なものが見えた。桜の花びらが竜巻となっていた。
「すごいね、いいね、って言ってくれても良いじゃないですか」
「お手軽な誉め言葉が欲しいなら、よそでやってくれ。でも数年後にお前の言ったことなんて、誰もが忘れてるよ」
 轟音を立てる花吹雪にかき消されないよう、声を張り上げた。
「人生の哲学を持ち合わせていない奴なんて、機械と一緒だ。お前の生き様は、今まで私の心を強く打ってくれた。要領よく、うまく生きようとする奴が成功者として崇められる時代で、若いのに努力してて、偉いなって思ってた。そんなお前が、好きだったよ」
 竜巻がやってきて、私は渦に飲まれた。身体を引き延ばされ、振り回される。洗濯機の中に放り込まれたら、こんな感じなのだろう。朦朧とする意識の中で最後に見えた景色は、彼がこちらに伸ばしてきた手だった。

「……さん、成宮さん」
 目を開けると、見慣れた光景が広がっていた。いつものオフィスで、デスクの前にいる。
「いつまで寝てるんすか。会議、始まってますよ」
 東也の呆れた声で時刻を確認すると、十八時を指していた。夕礼の時間だ。慌ててzoomのURLを押した。内容は頭に全く入ってこないが、たいして問題ない。参加者の誰もが会議の内容に興味はなく、SNSを見たりブログを更新したりしているのだ。
私は会議の画面を見て、自分の視線がきちんとカメラを向いているか確認した。適度に頷き、話を聞く振りを続けながら、東也にSlackでDMを送った。
『どうして戻って来たんだ』
 東也は画面を睨み、考える素振りを見せた。そうして、私の方を向いて微笑んだ。あたたかく、きれいな笑みだった。そうして自分の手を指さした。
『僕にしか、できない事をやるためです』
 窓の外を見た。陽だまりで野良猫がまどろんでいた。茶色と白色のブチで、くたびれたビル群に囲まれた丸の内で唯一、幸せを感じていそうな存在だった。
『猫になるのは、いつでもできる。もっと年を取り、大きな夢を諦めた後で良い。人間でいられるうちは挑み、破れ、立ち上がり続けろよ』
そう文字を打って、少し迷って消した。私が言うまでもない。今の東也なら、エネルギーを持って、全身でぶつかりに行くだろう。猫は小さくあくびをし、短く鳴いて去っていった。

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