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密告の密告

私は理屈の上ではストーカーは良くないと考えていた。しかし、阿部凛から頼まれては断れない。凛は私を無視しなかった。いじめもしなかった。もちろん高1Aには他にも好意的な女子はいた。長いスカートと短い靴下を履き、規則と教師に従順な人種だ。彼女たちは明るく、成績も申し分なく、人を傷つけることはしない。ただ、彼女たちと過ごすことを選びたくなかった。他の子たちから同じ人種だと思われることが耐えられなかったのだ。

「だから、凛の病室にプリント届けに来るのなんて、なんてことないよ」「そう? ださい制服でも着たいけどな。制服よりパジャマ着てる日の方が多いもん。今回の入院も。遠足、行きたかったな」。ベッドに腰掛けて足をぶらぶらさせる姿は、だだをこねる少女のようだった。それは私の胸を痛ませた。気分を変えようと窓辺へ行き、夜景を眺めた。今日の東京タワーは赤色で、血の色のようにぎらぎら輝いていた。私はカーテンを閉めた。凛の主治医は、私の父親だった。

父の言葉を借りると、凛の症状は「次第に悪くなっていく。先の見通しは望めそうにない」らしい。ゴッホが死ぬ直前に残した手紙の引用だ。父のように「院長の片腕」と呼ばれ、東大の教授戦に出馬する人間は、知性を浪費せずにはいられないのだ。

凛はベッドサイドのスマホを取った。俳優の両親譲りの大きな目で画面を確認すると、かたちの良い唇が小さく動いた。「有希、見て!移動した!」。私は凛のスマホを覗き込んだ。そこには地図が表示され、アイコンが現在地を知らせ続けていた。GPSを搭載したキーホルダーを持つ、誰かの現在地だ。それは病院を出た道を、どんどん進んでいた。「どこ行くんだろうね? ストーカー相手は」「あたしの分身の持ち主って呼んで欲しいな」「素敵な響き」。

「持ち主」は、林先生だった。父の元で働く、きれいな顔をした後期研修医だ。父が出張土産として手渡した袋には「娘の手が滑って紛れてしまった」タグが入っている。本来なら紛失防止用に作られたタグが。私は凛のスマホを見た。彼は私の家あたりまで来ていた。「はあ。これがお父さんの教授戦に響かなきゃ良いけど」凛は私の返事を、頭上を通り過ぎるままにした。それは宙に浮き、どこまでもクリーンな病室で、ただひとつの罪のように漂っていた。

私はAmazonの購入履歴を開き、上履きを注文した。今年に入って四度目になる。「ねえ。凛ならどうする? 上履き隠されたら」「校内放送で、誰か伊藤有希の上履き知りませんかーって流す」「何それ」私は笑った。彼女の顔に笑みはなかった。叫び出したいのをじっと我慢している表情だ。それは悪魔の時間の始まりを告げていた。

「いたい。いたい。いたいよ……!」凛はのたうち周り始めた。凛を蝕むIgA血管炎は、しばし全身に激痛を走らせる。父曰く、どうしようもないらしい。私は力を込めてナースコールを押した。凛が絶叫し、私の手を振りほどいた。スマホが床に落ち、それを拾った。目に飛び込んできた画面が意味するものを理解すると、全身に悪寒が走った。あやうく手から落ちるところだった。彼の現在地は私の自宅だった。数分前と変わらず。私は病室を飛び出した。

私は音もなく廊下に忍び込み、ドアの隙間からリビングを見た。母と林先生が向かい合って座っていた。彼が口を開いた。「この件は研究費の横領として、医局に報告がいっています」「ビジネスクラスで学会に行っただけで?」「予算の申請はエコノミーで行われていました」。沈黙が重い雲のように立ち込めた。私は最悪の事態は免れたと思った。それは二人が甘い言葉を交わすことだった。先程まで寝室にいたことを匂わせるような。「伊藤先生は、九州に飛ばされるみたいです」母は顔を上げた。黒い目は怒りの炎で燃えていた。「僕がここに来たのは」彼は横目でこちらを見た。私の存在に気付いているとでも言わんばかりに。「有希ちゃんのためです」。

母は考える素振りをした。それは苦手としているようだった。「阿部さんともう会えなくなるから? そんなに長くないものね」「阿部さんは僕が治します。新しい療法を試す予定です。伊藤先生がやりたがらなかったやつを」。林先生の透き通る声が、リビングに響いた。

「有希ちゃんが学校でどんな状況なのか、ご存知ですよね。教授戦で忙しいのは分かる。でも、もっと気にかけてあげてください。急に引越しが決まったら、偏差値とか品格だけで学校を決めるでしょう。そうじゃなくて。ありのままで過ごせる環境を探してあげて下さい」。彼は視線を落とした。長いまつげが影を作った。「せっかく五体満足で、病気もないんだから。実はそれって、貴重なことなんですよ。そうなれなくても、なれない子を、僕はあまりにたくさん見てきた」。

あれから一年が経ち、私と凛は病室にいた。少し髪を伸ばした凛が口を開いた。「いつこっち来たんだっけ?」「三日前。お父さんの学会に付いてきたんだ」「また横領で訴えられるよ」私と凛は笑った。「新しい学校はどう?」「最高。公立だから、前と違って中学からのヒエラルキーもないし。凛はどう?」ためらいがあり、少し罰が悪そうに凛は答えた。「調子良いんだ。新しい療法が効いてるみたい。……伊藤先生は元気?」「うん。今はお母さんと二人で農業にはまってる。見てよ、カレンダーの予定」私はスマホで写真を見せ、凛が読み上げた。「『スイカ植付、ミニトマト追肥』。やば、何これ!」「そう。たくさんできたから、今日持ってきたんだ。林先生の分もあるよ」病室の扉が開いた。そこには林先生が立っていた。「その野菜に」彼は言った。口角を上げながら。「GPSは入っていませんよね?」。私と凛は笑った。林先生も笑っていた。

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